遣らずの雨1

 雨が降っている。か細い銀の線が音もなく静かに天井と地上をつないでいる。低くたちこめた雨の正罪、煙り霞む視界とむせかえるような土の泥くさい臭いだけが世界を一瞬支配して静寂へ押し込めている。沈黙のまま流れる時間、ちらりと空を裂く雷光、だが音はしない。遠いのだ。
 今夜は月がなく、星もない。暗い闇を時折稲妻が照らすが、瞬きするほどの間、光なき世界に恩寵を与え給うには決定的に足りぬ。どこまでも続く暗黒の闇に、ただ雨が、降っている……





 クロウはやれやれと大きくため息をついて首の付け根を鞘の平で叩いた。膠着というならまだましだ。これは恐らく、最も恐れていた事態というものでないのか。だが元凶ともいうべき上官がその失策を悟って青冷めたままでうなだれているのを見ると殊更に責めたてる気は起こらなかった。
   もちろんそうしてもいい。そうするだけの権利はクロウを含めたこの分隊全員が所持しているはずだったが、誰も実行に移さない。グラッシア=ディディアールが初陣で、文人肌で、本人にとっては実に間の悪いことには中原の雄フィルカス帝国の3将軍の内の一人ヤリオ=ディディアールを父に持っており、クロウたちがディディアール将軍に仕える騎士であり、そして気が進まないまでも父の名誉を損なうことを惜しんでこの会戦に参加を申し出た経緯上、出来得る限りのことをしてやりたかった。
 グラッシアは愚かではない。どちらかといえば優しさとの区別のつかぬ気弱さに満ちており、部下であるはずのクロウたちにも居丈高に接したりはしない。ただこの場合命を預けるにはやはり足りぬものの方が多かった。
 クロウがまた微かに息をはいた時、隣にまだ若い騎士が立つのが分かった。かわす視線は苦笑に満ちている。仕方がない、とお互いに分かっているのだった。
「よく降りますね」
そんなことを呟いて騎士は草を伝ってしだたる水滴を手のひらに受ける。まぁな、と曖昧な事を答えてクロウは鬱蒼とした木々の向こうを透かしてみるように目を細めた。
 敵は人だけではない。降り止まぬこの雨でさえ、望まぬ事項の一つだ。夏が近いとはいえ冷たい水は容赦なく体温を奪い、体力を摩耗させる。一人でならクロウはこの野山を抜けてどうにか本陣のある平原までたどり着けるだろうが、この分隊全員でとなると。だが分割してグラッシアの護衛が少なくなった所へ襲われればただではすまない。頼りなかろうが力不足、役者不足だろうが、彼こそが玉なのだった。
 後ろから呼ばれてクロウは振り返った。その上官が組んでいた膝を解いてようやく立ち上がる所だった。まだ顔色は良くないがそれでも決意のきざしが表情に見える。
 横に並んでグラッシアは先ほどの騎士と同じように雨に手を差し出した。その横顔はまだ若い。そして彼は上流にしては人の言葉に耳を傾ける姿勢を持っている。根が素直なのだ。
「山を下りよう、雨が止んだら」
「経路は」
「南の沢を越えて、岡の嶺を。部隊を分けて別々に。その方が危険を回避する率が高そうだ」
それはクロウが既に達していた結論と同じだった。彼も必死に考えたのだと思うとついぬるい笑みになった。グラッシアはそんな彼の表情に何を思っているのかを感づいたようで、お前は人が悪いな、と苦笑した。
 年をとると悪くなるんですよ、と返しながらクロウは山中に開いた洞窟に座り込んでいる分隊の人数を目で確認する。全てを捨ててこの主人だけを優先するならば他にも方法はあるが、とりあえずはそれを考えまい。グラッシアが声をかけて適当に人数をよりわけていくのを聞き流しながら、クロウはまた雨を見上げる。
 降り続く、雨を。