遣らずの雨2

 隣でグラッシアが両手をこすり合わせている。吐く息が白い。気温は少しも上がる気配さえ見せない。やはり雨のせいだ。隊を分裂して将軍のいる本隊に合流する道のりを打ち合わせたとは言え、出発は雨が止み次第だ。食料もまともなものはもう3日も口にしていない。携行食はもう殆どを口に入れてしまった。敵と遭遇する危険を見切れないのか、グラッシアは食料を探しに行けとは言わない。
 ただこのままじっとここで座り込んでいるだけならせめて食料を調達しに自分だけでもいかせて欲しいものだった。クロウは剣の腕には自信がある。市民階級の最低限の豊かさを享受する家庭に育ったが、剣の道が彼にはあってもいた。姉が家業である靴屋を職人を婿に迎えて続ける意志があったのも幸いだった。義兄も悪い人間ではなかったが、夫婦の家に居候を決め込むのも気がひけて軍隊へ入った。それももう、10年以上前のことだ。
 軍隊に入って沢山の戦役に参加して、その期間をクロウはどうにか生き延びてきた。それは生き抜いてきた、ということとは少し違う。そう着飾ってしまうには沢山の裏切りも卑怯も寛容してきた。泥をすすり無力を叫びながら他人の犠牲の上に自分が生きている。
(何故……クロ……)
 クロウは不意に浮き上がろうとしたその言葉の記憶から目を背けた。
 過去の清算はまだするべき時ではない。それよりも今、この現実を乗り切ることの方が優先だ。
 食料を探しに行かなくてはと言うと、グラッシアは迷ったようにうつむいた。敵の目を逃れて深い山中へ入ったとはいえ、周辺は敵の勢力下だ。部下を失いたくないが体力も限界が見え始めているというところだろうか。
 優しい方だとクロウは内心で苦笑になる。この優しさはこの時点では現実役に立たないが、それをいうならそも芸術というもの自体人には要らぬものだ。不必要なものをこんな時にでさえ持っている育ちの良さが嫌いになれない。
 私が行きます、というとグラッシアは僅かに視線を落とした。それが何故なのかも分かる。彼はクロウの剣の腕前を知っているが、それを以って大丈夫だろうという可能性の高さを鑑みた上で自分がそれを計算したことに微かな嫌悪を覚えている。グラッシアの考えていることは良く解る。まるで旧来の友人のように。
 大丈夫ですからと念を押すと、グラッシアはやっと頷いた。敵にあったら逃げてもいいのだと肩を叩かれてクロウは笑って見せる。一人で洞窟を出てゆるく獣道を下っていく。
 鎧の肩あてにさみだれる雨が、金属の澄んだ音を立てている。


 それは絶望ではなく、激しい憎しみでも怒りでもなかった。ただ一度しばたいた瞳があまりに無邪気な疑問に満ちていた。何が起こったのかを理解していない、死ぬ直前の獣の目だ。
(何故?)
 悲鳴でもなくどす黒い問いかけですらなかった。
(何故?)
 それに答えなかった。ぽかんとした表情はひどく間が抜けており酷く苛立たしかった。
(何故?)
 その最期の言葉にしては決定的に危機感に欠けた声が抜けない。じくじくと降る雨の湿りが足を浸すたびに、水が遡及するように記憶の底からよじ登ってくる……





 運が良ければ山菜の類か、もしくは野兎、土竜、そんなものを捕まえることが出来るだろうと思っていたクロウだったが、現実はやはり厳しい。口を慰める程度の量なら何とかなるが、全員の腹を満たすことなど到底無理だ。いくつか小動物用の罠も見かけたがかかっている獣はいなかった。
 クロウはそれでも山菜や木の実をかき集めた。から手で帰るのも良くなかったし、少しでも口に入れる事でまた何かが変わることも良くあることだった。鳥の卵に蛇の肉、そんなものでもあればまだましだ。雨のお蔭で獣たちの出足は鈍い。降り続く雨をこれほど憎らしいと思うとは。だが天候は人の範疇ではない。魔導なる怪しげなものでさえ、その幻を生み出すので精いっぱいだ。実は人に出来得ることはとても少ないのだ。
 人は、自身を守る牙も爪も毒さえ持たない弱い獣だ。弱いからこそ生き残るために必死で思考することを選んだに過ぎない。その弱さ故に地上を席巻し、その挙げ句にひしめきあい、無様に押し退けあうのが人だ。そして自分も。
 クロウは苦い笑みを唇に浮かべた。何に対しての言い訳が欲しいのだろうかと視線を伏せる。雨の日の戦場は、遠く霞んだ記憶を沼の底から引き上げる……
 不意に体が勝手に震えた。雨に打たれてやはり寒さが増してきたのだった。足元は不如意だ。濡れた土壌と朽ち葉に足をとられてともすれば転倒しそうになる。それを耐えながらクロウはもう少し食料を探そうとゆっくり茂みをかき分けていく。動きが緩慢なのは確かに水に打たれて芯から冷えていることもあるし、敵の耳を引き付けたくないからだ。戦場で本隊と離れてしまってから既に4日、この辺りはおそらく完全に敵の制圧下のはずだ。
 それに……クロウ達の抱えている掌中の玉こそが功績となるに相応しい名を持っている。正確にはその父が、だが。だが主君であるグラッシア=ディディアールは十分人質としても取引の材料としても、あるいは見せしめの為の公開処刑の目玉としても価値がある。あまり追い詰められるとその選択を言い出す者がいないとも限らない。結局のところ、クロウはグラッシアを甘いとも多方面に渡って力不足だとも思いながら、見切ってしまうには至らないのだ。
 ……もっとせっぱ詰まれば……自信が、ない……
 その囁きにクロウは僅かに目を細めた。余裕のない時のことをあれこれ空想するのはそうしておけば実際に罠に落ちてもまだ動揺を押し殺せるだろうと期待しているからか。
 クロウは首を振る。今は最悪のことを想定するのをやめたかった。何よりグラッシアが向けてくるクロウに対する混じり気のない信頼と淡い尊敬の眼差しを裏切りたくない。裏切りの卑怯で苦い果実の味を舌の上に噛み殺したくないのだ。
 ……雨は、投げ捨てた記憶の瓶を満ち潮にのせて河口を登らせる……