愁雨1

 その日、彼はここ何年ぶりかのひどい熱で臥せっていた。風邪だと思って最初甘くみていたのがたたったのだろうと父は苦笑し、薬と、しまいかけていた火鉢を出してくれた。
 布団は重い。自分の呼吸の音だけが世界に満ちていく気がする。こんなとき、自分が孤独だと思う。
 火鉢の隅が時々意外に耳障りの良い音を立てる以外は人気がない。いや、人の気配がないのは自分を疲れさせないようにと使用人を遠ざけてくれた父の心配りなのだろう。けれどかえって心細い気がしてならない。
 時々、自分の考えていることや思っていることがとても虚しい一瞬の興亡に思える時がある。漢氏の名門の嫡男として生まれてきたことに不満はない。異存もない。そうやって生きて、いつかそのために死んでいく覚悟も幼い頃から叩き込まれて出来ている。学問も武術も、伊家の嗣子として励んできた。
 だけれどそんな自分にふと疑問を持つこともある。大人たちの意志に従ってでしか自分を形成出来ていけないような、逃げ出したくなるような、そんな衝動にかられるときがある。
 だけどここから逃げても自分に何もないのも分かっている。結局は伊家の為に生き、伊家の中に死ぬしかないのだ。でも……

 嘉芳は内心で苦く笑う。さきほどからでも、とだけど、の連発だ。やはり今日はおとなしく寝ているのが一番だろう。こんな意味のないことぱかり浮かんでくるのだから。
 頭痛は深いところから響いてくる。それを浅い呼吸でごまかしながら寝返りを打つ。軽い足音が駆けてきて、自分の房室の扉を推した。

「お兄様、お元気?」
 幼い妹の言葉につい苦笑が漏れる。お前の顔を見たら少しは楽になったよというと、蘭花は嬉しそうに笑った。母は九才年下のこの妹を産んで亡くなった。死の間際に自分の手を握ってこの子を頼むと言われて頷いた。
 あの時、自分は母の避けがたい死の濃い影にただ泣いていた。避けられないのだと分かってしまった──その、手を握ったときに。

 多分、あれが最初だった。人の死が見えたのは。蘭花は数えで八つ、満で七才になったばかりだ。妹が成長する度に母が亡くなった年月を思う。
 父の元には二人ほど新たな夫人がいるが、そちらに子はなかった。ただそちらに子ができたからといって蘭花ほどに手を取れるかは甚だ疑間でもあるが。

「お兄様、お父様が今日の礼拝に沢山人が来て屋台が出て楽しいから蘭花を連れていってくれるんですって」
「そう……良かったね、蘭花。楽しんで行っておいで」
 気をつけて、と言いかけたのを咳が塞ぐ。喉の奥が掠れて痛い。蘭花が咳が止まるおまじないとかいう言葉を呟きながら嘉芳の背を撫でてくれた。
 沓の音がして、外出用の風よけを羽織った父が姿を昆せた。咳を喉の奥にかみ殺しながら嘉芳は父を見上げる。すっきりとした長身の風情が自分と良く似ていると長老たちはいつも目を細めるものだ。

「具合はどうだ、嘉芳」
 父は蘭花を膝に抱き上げながら嘉芳の寝台の脇の椅子へ腰を下ろす。曖昧に首を振りながら嘉芳は父を見上げた。
 ……どこか、歪んでいる。二重写しになったようにかすれてぶれて見えて、不意に上がってくる不安のようなものに眉をひそめる。手、と思った。触れれば分かるかもしれない。人の宿定を見ると言われたこの身に宿る天啓の力で。
 嘉芳は手を伸ばそうとするが体力が落ちているからなのか筋肉はひどく重たく感じ、やっと指先を動かすくらいだった。さっき寝返りはうてたのに、と嘉芳は焦れるが、少しも体は動かなかった。

「蘭花を連れて出かけてくる。2、3日はゆっくり休みなさい。後で暖まるものでも運ぶように言っておくから」
 父の言葉に頷くが、それはまるで耳に入らない。嘉芳は苛々する。手を伸ばしてそこにいる人に触ればはっきり見えるものがある。見ようと思うときは必ず見える。時折雪崩込んできて辟易することすらある。
 なのに、自分が見たい時に手が動かないというのはあんまりだ……
 父は嘉芳の思惑に気付かず腰を上げた。蘭花の手を引いて寝ているんだぞと念を押して部屋を出ていく。蘭花が振り返って手を振りながらお土産買ってくるねと言った。
 待って、と嘉芳は唇を動かすが掠れた呼吸になってしまって声にはならなかった。父の背が扉の向こうへ消える。

 いけない、と瞬間的に思った。見送ってはもう二度と会えない。駄目、と嘉芳は必死で口を動かす。行ってはいけない。駄目だ、外へ行っては絶対に。
 父の羽織っていた衣装にまといつく影に気付いて嘉芳の心音が跳ねる。嫌な影だ、あれを見るときは必ず人が死ぬときだ。あの影に取り込まれて無事で済むはずがない。嘉芳は懸命に腕に力を込めて身を上げるがやはりあえなく尽きて倒れてしまう。
 それを何度か繰り返していると腕が滑って寝台から落ちた。体ごとを床へうって一瞬鈍い体の痛みと激しい頭痛に呻く。それでもこの頭痛がとてもおかしいと思った。
 こんなに激しい痛みはやはり天啓の降りるときに似ている。溢れてくる流れを受け止めるときの無理に似ている。腰から下は力を込める感覚もない。嘉芳は腕で這いながら扉を推す。その短い距離の、何と遠いことか。

 ようやく回廊へ出ると頬が火照っでいるのに気付き、それが自分の熱と暖められていた房室から外へ出たときの寒さなのだと分かった。誰か、と声を上げる。だがこの声もかすれていて少しも誰かに届いた様子がなかった。急にこみ上げてくる咳で背が丸くなる。床へ転がったまま何度も何度も咳に体を痙撃させる。次第に気が遠くなって暗い闇が降りてくる。小鳥のさえずりを聞いたと思った。
 これは父の愛玩していた不如帰か。暗い中に小さな体が浮かんでいる幻が見える。行っては駄目だ。あれは死を連れてくる鳥なのだ。掴まえなくては。この手で囲って殺してしまえ、そうしなくては。

 嘉芳は手を伸ばす。もう少しで届くかというところまで来ると小鳥は嘲笑うように少し先へと跳びはねる。苛々しながら再び慎重に近寄るが、どうしてもそれを掴まえることができない。
 待て、と叫ぶ声が闇に呑まれて消えていく。鳥が甲高い声で笑っている。人の一生は最初から定まっている、分かっているんだろうと言う。それが見えているのに何も出来やしないのさ。
 違う、と嘉芳は咄嵯に返すがその言葉にどこか深い場所を刺されて血を流している。違わないさ、と笑う鳥に飛びかかってようやくその手に収めた。
 殺してしまえ、こんな鳥。握り漬してしまおうと手に力を込めると不意に鳥は哀れっぼい声で泣いた。騙されない、と嘉芳は唇を噛む。

「大少爺(若旦那様)大丈夫ですか」
 抱き起こされて意識が戻る。小間使いが嘉芳を抱えて真剣に彼を覗き込んでいた。嘉芳は首を振り、絶え絶えの呼吸の下から声を何とか絞り出す。
「父上を……呼び戻して、連れ戻して早く……いま、すぐ、」
 咳が出る。背を撫でる小間使いにいい、と首を振って父をと口に乗せた。
「老爺(旦那様)はお出かけに……」
「いいから、呼び戻せ、今、すぐに」
 自分がこの不吉な鳥を掴まえているうちに。
 小間使いは困ったような顔をしてとにかく房室へ戻りましょうと嘉芳をひきずるようにした。嫌だ、と嘉芳は袖を振る。駄目です、と小間使いがそれを引き返した瞬間に倒れこんで鳥が手から離れた。

 嘉芳が握り漬そうとしていたのが残っているのか鳥はまだもがいている。掴まえ直さなくてはと手を伸ばした矢先、鳥はやめて、と叫んだ。それは紛れもなく母の声だった。
 嘉芳は思わず手を引く。引いた瞬間しまったと思った。
 慌てて掴まえようとしたその手の間、指先をすり抜けて鳥が、飛んだ。ああ、という悲壮な坤きを漏らして嘉芳は目を開ける。小間使いが嘉芳を抱え直して寝台に戻そうとしている。
「大少爺を寝床に送ったらすぐに老爺をお迎えにやりますからね」
 そんなことを言われて嘉芳は首を振った。もう運命は覆らない。
「いい……間に合わない……」
 言う嘉芳の耳に異変は音で伝わってきた。廊下の向こうから人が駆けてくる。口々に何かを叫んでいる。妹がひどく泣いている。こちらへ何かを叫びながら駆けてくるのは叔父か。何を言っているのか分からないが何が起こったのかは知っていた。自分が泣いているのを嘉芳は唐突に自覚した。父上、と思った。まだ行かないでください。まだ俺は子供で、父上の羽の下に庇われていたいのだから。
 父上。そう思った瞬間に、ぷつりと意識は途切れて闇に帰った。 その耳に、鳥の甲高い笑い声が聞こえた。