愁雨2

 中秋の空に雲雀が高く飛んでいく。嘉芳は空を見上げる。秋の空は夏よりも一段高いところにあって、どこかすましこんだ女のようだ。
 蘭花は自分の背で寝息を立てている。父が亡くなって六回目の月の進香を終えて一族の者たちと婦路へついたが、蘭花がもう少し父さまとお話すると言ってきかなかったから彼と妹の二人で残った。結局蘭花は父の廟の前で好きな事を喋り散らした挙句に話し疲れて眠ってしまったが。

 日増しに重くなる妹の体重を背負って嘉方は少し汗をかく。重くなったと言うと怒るのは幼くとも女だからなのだろうか。そんなことを思うと緩い笑みがこぼれた。
 父の死は嘉芳に太刀傷のような跡を残した。……救えたのではないか、と思う。あの時、確かに嫌な影を見た。確かめようとするのではなく、止めていたら。なぜそれに思い至らなかったのか分からない。熱で少しぼうっとしていたからだろうか。

(それが見えているのに何も出来やしないのさ)
 鳥の嘲る言葉が何度も蘇ってくる。惑わされているだけだと分かっていても無視することができない。
 蘭花もまた衝撃を受けてしばらく口をきけなかった。元々よく喋る妹だが、一月ほどは言葉もすくなだった。無理もない。父の死ぬところに居合わせ、静かに冷えていくその身体の下で震えていたのだから。
 月の始に寺院で進香があるがそれに合わせて縁日が立つ。見世物小屋や芝居小屋、屋台、物売り、子供には珍しかったろうから蘭花は毎月行くと言ってきかなかったのに、あれから一度も言わない。

 子供ながらに父の死に責任を感じているのだろうかとも思うが、父が蘭花を庇わなかったら蘭花も生命を落としていただろう。半年を経過してやっとそれだけでも良かったと、思えるようになった。
 ──芝居小屋を組むために積み上げてあった材木の綱が切れ、倒れ込んできた木材の下敷きになって父は死んだ。嘉芳の祖父は烈火の如くに怒ったが、芝居小屋の主人夫婦が自殺してしまい、それ以上を咎めるわけにいかなかった。

 あれも天命なのかと嘉芳は思う。幼いころから霊感の寵愛を受け、人の死を読み、未来を漠然と見通すことができた嘉芳にとって父の死を直前まで予見できなかったこと、そして一度は捕まえたと思った死の鳥を放してしまったことは何事にも変えがたい屈辱だった。後悔はいつでも苦く辛い。
 父が亡くなって当然次は嘉芳に代が移るのだがまだ年が若い。祖父が後見としてつき、漢氏という民族を支えている三家と折衝しながら漢氏の治安を行っていくことで話が付いた。

 大人にならなくてはいけない、と嘉芳は思う。早く大人になって自分が父の後を正当に継いで漢氏の総領となって、この滅びへ傾きかげた民族を何とかしてやらなくては。早く。早く。
 気ばかり焦ってかえって何にも身が入らない。時間だけが過ぎていく。
 そうして気付くと父の死から半年が経過してしまっていた。溜息をついて、嘉芳はずり落ちてきた妹をしょいあげる。妹の眠りは深く、これはまた今夜寝かしつけるのに小間使いが苦労するだろう。

 寺院からの帰り道は市場の中を通るのだが、そちらは人込みで嘉芳はそれを避け、市場とは反対側の北よりの道を選んで通る。そこから伊家所有の竹林を抜けていけば早い。
 竹林に入る寸前、見慣れない小屋を見つけた。体裁から行くと芝居小屋だろうか。中から微かに箏や瑟の音がするから正解だろう。こんなところに小屋を張っても客はこないだろうにと思うが、それからすぐに自分の思い違いに気付いた。

 祖父が呼んだのだろう。祖父は無類の芝居道楽だ。芝居は芸人ごと家に呼んで何日も上演されるのが常だった。まだ正式には父の喪があけていないから、こうして裏からこっそり呼んだのだろう──それにしても。
 嘉芳は苦笑する。お祖父さまも半年やっと我慢していたのだろう。三年も喪があけないのだからそろそろ芝居の血が騒いで仕方ないに違いない。普段は家の中に寝泊まりさせるがそれはさすがにできないから伊家の裏、敷地をぎりぎり外れた辺りに逗留させてそこから邸宅へ通わせるのだろう。

 嘉芳は祖父ほど芝居に興昧はなかった。父は好きだったが、自分には退屈で我慢ができない。
 鈴の音が鳴った。嘉芳は芝居小屋を見る。役者たちが道具を抱えて竹林の中へ消えていく。そろそろ始まるのだろう、なるほど、道理で叔父たちが全員せかせか帰ってしまうわけなのだ。
 人の姿が消えていくまで嘉芳はそれを見送る。一緒に帰る気になどならなかった。それをぼんやり見送っていると小屋の方から何かの倒れる音と、女の微かな驚声が響いてきて、嘉芳は咄嗟にそちらを見る。一瞬静まった後にあちこちぶつかるような鈍い音が聞こえてきて、嘉芳は迷いながらそっと中を覗いた。

 上等とはいえない小屋の中に女が一人倒れている。床にぶちまけられた粥と倒れた椅子、ああ転んだのかと思うが様子が少し違う。
 伏せて手を床に這わせ、その手だけで必死に何かを捜している。視線はその手の先を全く見ようとしないから、目が見えないのだと悟った。女の手が床を焦れたように叩き始める。何を捜しているのだろうと嘉芳は小屋の全体を見回す。

 女の丁度後ろ側にぽつねんと忘れ去られたように落ちている真珠の手纏だろうか。真珠の粒は小さく色は悪く、照りも巻も少ない粗悪品だが、女にとっては大事なものなのかもしれなかった。
 陶器の椀は割れて散乱している。あのままでは遠からず手を切ってしまうかもしれないと、嘉芳は蘭花を背中から下ろした。蘭花は一瞬不満げに目を開けたがすぐに子供特有の眠りの濃さに負けて寝息を立て始める。

「動かないほうがいい」
 嘉芳は声をかけた。女は驚いたように嘉芳の声のした方へ顔を向けた。小屋の中へと足を入れて真珠の手纏を握らせると女の顔に明らかな安堵がよぎる。
 危ないから、と嘉芳は女を部屋の隅へ連れていくと、陶器の欠片だけは拾っておいた。掃除は……したことがなくて、やり方が分からない。
「あの……ありがとうございます」
 女は言って深く頭を下げた。いや、と軽く流して嘉芳は女を見る。
 美しいといっても差し支えない顔立ちだった。目が見えればどこかの大家へ奉公へ出てもいいくらいだ。瞼は固く閉じられていて瞳はちらりとも覗かないが、それが滲みになるのではなく、逆に儚げな印象に映ってみえる。

「粥がこぼれたままになっているから早く拭いた方がいいかもしれない。誰か他に残っているのはいないの」
「ええ、みんな伊大人のお屋敷へ出てしまいましたから……あの、床はかなり汚れておりますか」
 そうだね、と嘉芳は答えた。今はそうでもないが、放っておけぱ取れなくなるかもしれない。そう付け足すと女は少し困ったような顔をした。
「すみません、毎回物の配置が変わるので私、場所が分からないんです。申しわけないんですが、どこかに拭布があると思うんですが……」
 ああ、と嘉芳はざっと小屋の中を見回す。隅のほうに掃除用具がまとめて積んであったからそこを探すと、果たして中に丸めて突っ込んである端布があった。多分、これだろう。
 女に渡すとほっとしたように笑って再び嘉芳に頭を下げた。嘉芳は頷く。女の髪から落ちたこれも安物のかんざしを取ってやると、女は今度はこぼれるような笑みになった。不意に心の底が揺れた。それを訳のない動揺だと思って嘉芳は慌てて繕った表情へ戻るが、女は目が見えないのを思い出して一人苦笑した。

 もう帰らなくては、用事は済んだのだから。そう思いながらも何故か動けない。嘉芳が立ちつくしているのを察したのか、女は少し待って下さいと言うと手早く床を掃除し、手探りで茶棚をあけて蜂蜜の飴を出してきた。
 手伝いの駄賃をねだってしまった、と嘉芳は仕方ない笑みになる。女はゆっくりと足を進めて嘉芳の手を取った。

 あ、と思った。駄目だ、手を触れてはいけない。思わず降り払ってしまった好意を、その一瞬後に強烈な後悔に苛まれて嘉芳はすみません、と眩いた。こんなに素直に謝ることができる自分もいるのだと思いながら。
 女は少し驚いたような顔をして、それから首をかしげた。その優美な仕種は芝眉がかっているようでもあった。
「子供扱いにしてしまいました? ごめんなさい、声が若いものですから」
「あの、そういうことではなくて。本当にちょっとびっくりしただけだから、何でもない」
 嘉芳の霊感は時に手を触れただけで雪崩込んできて彼に言葉を強いるときがある。死の予言でないときはいいが、それが相手の終末であったときはどうしようもない。
 口に乗せないことは出来ない。流れを塞き止めることは出来ないのだ。この女に今触れたらきっと何かを見てしまう。それは避けたかった。女は嘉芳の気配を感じ取っていたのかゆったりと首を振った。

「嫌な思いをさせてしまったのなら謝ります。本当に、ごめんなさいね」
 いや、と嘉芳は口ごもる。それから本当に何でもない、と強く言った。女はくすりと笑った。自分の言い方が確かに子供のようだったから嘉芳も溜息に似た声をたてて笑った。声を上げて笑うのは久しぷりのような気がした。
 それが収まったときが、潮時のような気がした。もういかなくては。あまり遅いと家の者が心配するだろう。背を返して小屋の外へ出ようとすると、背後からあなた名前は、と問う女の声がした。嘉芳は歩みを止める。

「……子燕」
 咄嗟にその時、何故使用人の筆頭である老人の名を口にしたのか、後々まで嘉芳には分からなかった。強いて言うなら自分の名を直接名乗ってしまうと恐らくこの女と自分との間にある広大な身分の差が女を遠くしてしまうような気がしたから、かも、しれない。
 女はそう、と頷いてまた遊びにいらっしゃい、と言った。嘉芳は頷き、そしてそれでは女には分からないだろうと気付いてそうする、と小さな声で答えた。
 女はほっと笑顔になった。その時初めて、大人たちの言う美しい女というものを、見た気がした。