愁雨3

 女は泉玉といった。一日や二日で部屋の中の様子は覚えてしまうのか、次に嘉芳が訪ねていったときには既に泉玉に与えられているらしい小屋の中は自由に歩き回っていた。
 その時初めて嘉芳は部屋の中に男物の上掛けや衣装が掛けてあるのに気付いた。では、一座の中の誰かの妻なのだろう。微かな落胆は、だが泉玉と会っているときはそれほど感じなかった。
 それをひしひしと思うときは彼女との時間が終わって家路につくときだ。家の者を誤魔化すために馬を連れて屋敷の門から出て、市街をほぼ一周してからこっそりこちらへ戻る。芝居の一座がいない時間は簡単に分かる。いない時は嘉芳の家の中庭で演目を催しているときだからだ。嘉芳は普段から芝居を殆ど見なかったから、芝居のときにいなくても誰も気に止めない。

 何故、誰のために何の目的で隠れるように逢っているのかも良く分からない。ただ泉玉に夫のいるらしい事実、そして嘉芳の背負う未来、そんなものがどうしても心の隅に懸かっている。
 それでも泉玉と逢っていると、とても楽しかった。自分にかかる全ての責任と負荷を忘れていられた。泉玉は化粧をしなかったが肌は透き通るような輝きを持っていたし、唇はいつでも紅を入れたように赤かった。もっと綺麗な衣装を着て沢山の花鈿をさしてきちんと化粧をすれぱ間違いなく匂い立つような美姫になると嘉芳は思う。ただ、本人がそれを見ることがないだろうと思うと意昧はなかった。

 それと同時に何事にも素直に感心したり相づちをうったりしてくれるのが嘉芳には嬉しい。伊家からこっそり持ち出してきた珍しい菓子や高価な茶は泉玉を驚かせ、賛沢というものに初めて触れる新鮮さを楽しんでいるように見えて、嘉芳はそういうとき、本当に良かったと思うのだ。

「本当にいいの、こんな物まで持ち出してきて?」
 泉玉はこの日も嘉芳の持ってきた南国からの珍しい果物に鼻を押し当てて不思議な香りを吸い込みながら聞いた。
 いいんだ、と答えて慌てて嘉芳は付け足す。いつの間にか伊家に仕えている使用人だという話になってしまっているが、最初の嘘がたたっている。

「あの、少爺が下さるから……甘いものはお嫌いなんだってさ」
 少爺って誰だ、と自分で苦笑するが少し砕けた口調も何だか自分ではない気がして楽しい。
 良い方ね子燕。そう言われて嘉芳はそうだね、という。そんな他愛のない会詰は子供の頃姉妹たちに散々つき合われたままごとを彷彿とさせて懐かしい気祷ちになる。
 伊家で古典や教書の講義を受けているとき、武術を鍛練しているときに張り詰めている糸が、一時ゆるむ感じがする。自分はあの緊張が嫌いではなかったのに、この弛緩もまた心地好くなってきているのには気付いている。

 泉玉は刃物を扱えないから彼女から果物を受け取って、持ってきた小刀で皮を剥く。甘い香りがぷんとする。やわらかな果肉をそぎ落として皿に落とし、皿の位置を卓の中央と教えてやると、泉玉はにこりと笑ってそれをつまんだ。
「甘い……とてもおいしい、ありがとう子燕。あなたの持ってきてくれるものはとても珍しいし、美味しいわ」
「伊家は胡氏とつながりが深いから、色んなものが手に入るんだ」
 嘉芳たちのような黄色い肌に黒か黒に近い濃い色の髪、暗い色の瞳を持つ民族を漢氏、それに対して白い肌に様々な色の髪や瞳を祷つ民族を胡氏と呼ぶ。胡氏のほうが圧倒的に数が多い。
 伊家はその漢氏の中では総領宗家の名門、あえていうなら漢氏という固有の領土を持たない民族の王だ。この漢氏たちが作った漢氏の街もシタルキア王国という胡氏の国の中にある。国も漢氏の事情や彼らから見れぱ特殊な習慣に配慮して、伊家を通して漢氏全体を把握している。そんな事情で伊家は持に国との折衝などの機会を持つことが多かった。嘉芳も幼い頃から胡語の教師について言葉を学んでいる。

「今度、北のジェア王国から使節が来るから、街を案内する……って少爺が言っていた」
 うっかり口走りそうになった事実を誤魔化しながら嘉芳は出された茶を含む。上質なものにだけ慣らされていて茶の質が良くないのが分かってしまう自分がつくづく嫌になると思った。
「子燕は少爺が好きなのね」
 ゆったり言われて嘉芳は狼狽える。正直なところ、どう答えていいのか分からない。わざとらしく絶賛する気にはもちろんなれなかった。
「悪い人ではないよ」
 だから暖昧な答えになった。それから一瞬迷って付け足す。
「ああでも、伊家のことで老爺の言うことばかり聞いている感じがする」
 それは自分でも思っていることだし、他人からそう思われているのではないかという不安が言わせた言葉だった。自分は自分の意志でそうしたいと思ってきたと信じているが、時折そう仕向けられているだけではないかという声がする。そんな夜は寝返りばかりを打つ。それは論理的思考とは全く別の場所から囁きかけてきて、嘉芳を縛り上げてしまうのだ。

 泉玉は少し悲しげな顔をした。
「そんなことを言うものではないわ、子燕。伊少爺はまだお若いのに、沢山のことを学ばなくてはいけないんですもの、ご立派だと思いますよ」
「伊家の全部を受け継ぐことだけが彼の道で他には何もないとしても?」
 言ってからしまったと思うが取り返しはきかなかった。だがそれがするりと他ならない自分の口から出てきたことに嘉芳は驚いてもいる。自分には何もない。そうか、その通りなのかもしれない。
 時折彼を襲う訳のない苛立ちや焦りはその足元の頑丈さを抜けることは出来ないだろうという微かな不満だったのだろうか。それを自分はしないだろうとも思う。だが、出来ないこととしないことは全く違うものだと知ってもいた。

「例えばね、子燕。良いものを沢山持っていて、持っているものの重みに苦しむのと、たった一つしか欲しいものがなくてもそれが絶対に手に入らないのではどちらが悲しいと思う?」
 分からない、と嘉芳は答えた。
 ただ強いて言うなら悲しみの価値は等価なのではないだろうか。そう思って、泉玉の言葉の意昧につき当たる。自分は何と幼いのだろうと思った。
「俺は……時々自分が嫌になる」
 呟く言葉を泉玉が微笑みながらそれでも若いのだから、という。泉玉の年は聞いていないが、面差しや態度から二十歳前後だろうと嘉芳は見当をつけている。四才の年下というのはどれくらい子供に見えるのだろう。こればかりは自分が二十歳になったときの十六を見なくては分からないことかもしれなかった。

 嘉芳は溜息をついて自分の持ってきた果物をつまむ。それほど甘味が特別好きな訳ではないが、泉玉はやはり女だからか甘いものにほ目がなかった。
 それでいてほっそりとした体つきなのだから不思議になる。女という奴は甘いものと他愛の無い話を食べているのではないかと思うときがあった。
 果物を食べ終わると泉玉がもうないわね、と皿の上を一通り指先でなぞってから言った。無い、と答えて嘉芳は泉玉が皿を下げるのを見ている。小屋の隅にいつも洗い物をつけた盥があるからそこへ皿を滑らすように入れた。

 あ、と嘉芳は腰を上げる。泉玉が小さく悲鳴を上げた。水が入っていると思っていたのだろう、泉玉は宙で皿を放したが中は空で、皿は派手な音を立てて割れた。咄嗟に破片を拾おうとした泉玉の手を嘉芳は払った。危ないから、と強い調子でいうと欠片を拾い集める。その腕を泉玉が掴んだ。はっとして嘉芳はすくむ。
 この女の匂い立つ気配が今、間近くにある。徴かな香りは何だろう、甘ったるい安い香水だろうか。それでも何でこんなに嫌でないのだろう。それが側近くにいて初めて分かるほどの、僅かな残り香に近いものだからか。肌の匂いに馴染んで泉玉自身のものになっているからか。頭の奥が痒れるほど痛い。思わず低く呻いた。

「子燕、大丈夫?」
 驚いたような泉玉の声さえ、今は毒にしかならない。これは毒だと分かっている。自分を厳しく律してきたその誇りを砕いてしまう、毒なのだ。
 けれどそれを飲み干してしまいたいときもあるのだと、知った。泉玉が嘉芳の頬を探り、額に触れる。熱をみようとしているのだと分かったがその手を首を振って払い、乱暴な、殆ど衝動的な仕種で抱きしめた。
 泉玉の身体が緊張して凍りつくのが分かった。抱き返して欲しい訳ではなかった。ただ彼女の温もりが欲しかっただけだ。焦れたような時間がそのまま過ぎていく。嘉芳は腕に力を入れる。泉玉の吐息とも喘ぎともつかない溜息が耳に吹き込んできて、それが届いた瞬間に何かが弾け飛んでいくような音を聞いた。夢中だった。

 気付くと床の上に泉玉の体を組み敷いていた。上に重なりながら女の首筋に顔を埋めて好きだ、と呟いている。
 泉玉は黙ってされるままになっていたが、ふと、嘉芳の頬に触れた。ぴりっと何かが走った。それでようやく嘉芳ははっとして身体を起こす。泉玉がするりと彼の下から抜けて乱れた髪と襟元を整えながら立ち上がった。
「……子燕、」
 泉玉が何か言いかけた。嘉芳は訳もなく首を振った。長い距離を躯けてきたように心臓が高く鳴っている。
 だがそれは少しも彼を高めてはくれなかった。泣きたいほど惨めだった。

「ごめん、あの、俺は……」
 言いかけて何もかもが言い訳だと嘉芳は唇を結ぶ。それから急に肩から力が抜けて俯いた。泉玉が盲目で良かったと思った。泣きかけているこの愚かな顔を見られなくてすむだけ、本当に良かった……
「子燕、私は怒っていないわ」
 答える泉玉の声ももう殆ど耳に入らない。すまなかったとだけ吐き捨てるように言って、嘉芳はそこを走り出た。
 竹林の中に隠すようにつないでおいた馬に飛び乗って勢いよく鞭をくれる。普段の主人とは違う乱暴な扱いに馬は驚き、短くいなないてから走り始めた。死んでしまいたいとふと思った。
 それを絶対にしないと分かっているからこそ、自分目身が本当に厭わしく、汚いもののように思えた。