愁雨4

 ぴしり、と講師が左手の甲を筆の柄で打った。嘉芳はすみませんと呟いて居住まいを正し、朗読を続けるが自分の口と思考が全く別のことをしていてそれが乖離している故に次第に教書を読む声が小さくなっていくのに気付かない。
 それに焦れた講師が再び嘉芳の手を打った。すみません、と同じことを言う。それを先ほどから何度もくり返しているのだが、そんなことは嘉芳の頭の中にはなかった。

「もういい、今日は止めましょう」
 老人が言って、それで初めて嘉芳は自分が教師の機嫌を損ねていたのに気付いた。今度こそ本気で頭を下げる。申しわけない、と言うと教師はふと目を細めた。
「それとも何かお悩みでもおありか、伊大少爺。集中できない勉学は続けても無駄なだけ、先にそちらを何とかした方が大少爺の為にも宜しかろう」
 相談してくれてもいいのだという老教師の好意はありがたかったが、他人に話せる内容ではなかった。あろうことか、女を襲いかけたのだと言うことなど出来はしない。
 一座のほうから何かの申し入れはなかったようで、泉玉はあのことを誰にも漏らしていないのだと分かった。それに安堵しているのが小狡いと思う。卑怯なのだと思う。そんなことばかりが頭をぐるぐる回って少しも寝つけなかった。

 夜更けに風の吐息を聞く。泉玉の溜息が耳に吹き寄せてくる。耳を塞いでも、それはなお、近くに聞こえた。その度に再び体の底からあの熱が押し寄せてくるのも……怖い。
 何故あんなことをしてしまったのか、少しも理解できなかった。自分にあんな獣のような衝動があったなんて信じられない。いや、それを信じたくないし認めたくない。そういうことが世の中にはあるとは本の上で知っていた。知識だった、まるきり。半ばそれを軽蔑してきたのに。どうして。

「本当に何でもありません……最近あまり体調が良くないようなので……」
 言い訳ばかりをしている。だがその言葉に教師は頷き、では明日も休講にしましょう、と気遣ってくれた。騙してしまった居心地の悪さを噛みながら嘉芳は一礼して部屋へ引き取ろうと回廊を歩いた。
 中庭からは相変わらずの賑やかな楽が流れてくる。溜息をついて嘉芳は教書で肩を叩く。

 どうしよう。あれからもう3日も彼女のところへ行っていない。謝りに行かなくてはいけないと思うのだが、もう一度同じことになったら……なってしまったら、どうしていいのか分からない。
 自分を律している自信があった。自制を学んでいる自負もあった。だが現実、ここでこうして立ちすくんだままになっている。こんなことでは駄目だ、と嘉芳は再び溜息を深く重く落とした。

 房室へ戻って本をしまうと軽装へ着替えて文箱の中から花鈿を出した。鼈甲と金と血赤珊瑚で作られた極上の細工品だ。そろそろ嫁ぎ先の決まる同い年の従姉の嫁入り道具にと伊家が揃えた道具の一つだった。
 無いのに気付くかどうかは分からないが、数多い装飾品の一つだったから大丈夫だろう。多分、泉玉に似合うはずだ。目が見えないからこれがそれほどの品だと分かるはずもない。これを贈って、謝って、二度と会わないようにしよう。人妻なのだからその方がいいのだ。……人妻、と呟くとひどく胸が痛んだ。

 泉玉はいつもと変わらずに糸を紡いでいた。糸車の微かな軋みと共に、芝居の中で唄われる歌を小さく口ずさんでいる。その静かな風情が何故かとても悲しかった。
 小屋の引き戸を開けると泉玉はどなた、と言って振り返る。僅かなひるみを押し殺して嘉芳は名棄ろうとするが最初の一言がうまく滑り出てこなかった。
「——子燕……?」
 嘉芳が黙りこくっていると、泉玉は密やかにそう間いかけた。それで急に胸のつかえが取れた。

「この前は、すまなかった」
 呟くように言うと、泉玉はゆったりとした仕種で首を振り、入るように手招きをした。嘉芳は迷い、そしてそれに逆らえないのにも気付いて小屋の中へ入る。
 入口で立ちつくしていると、泉玉はこっちへ、と更に招いた。嘉芳は泉玉の側へより、懐から花鈿を出して彼女の手に握らせた。
「これを。もう来ない。この前は本当にすまなかった、あんなことをするつもりじゃなかった、それだけは本当なんだ、……申し訳ない、本当に、本当にすまない……」
 いいながら潮のように深い後悔が押し寄せてくる。自分を埋めつくして溺れて死んでしまうと思うほど。

「怒っていないと私は言ったわ、怒っていないのよ、少し驚いただけ」
 そう言って泉玉は握り込まされたものを嘉芳の手に押しつけ返す。嘉芳はいいから、とそれを更に泉玉に押しやる。いけません、とはっきりした声音で泉玉は言った。
「物を貰うほど私は何もしていない、それともこれであの事実を買おうとでもいうの」
 嘉芳は衝撃を受けて言葉に詰まる。考えたこともなかった。そんな、と震える声で言うと、泉玉はやや諦めがちな溜息をついて手の内に残された花鈿を指先で確かめた。
「こんなに細工が細かいんですもの、良い品ね、子燕。これは伊大人のお屋敷から持ち出してきたのでしょう。いけないわ、それだけは絶対にしては駄目」
 言い返す言葉がない。嘉芳はただ俯いて黙り込む。目の端にあの真珠の手纏が映る。今日は彼女の手首にしっかりとはめられていた。あれは誰が贈ったのだろう。それを思うと焦れたような嫌な気持ちになる。

「その真珠くらいのものだったら受け取ってくれるのか、泉玉……」
 吐き出された自分の声は酷く歪んでいて、低く聞き取りづらかった。泉玉は悲しそうな顔をした。瞬間、その言葉を口にしたことを嘉芳ば心底から悔やむ。責められて仕方ないのに、何故相手を責めているのだろう。その資格もないくせに。
 泉玉はそっと真珠の手纏に指を触れた。愛しげに撫でる仕種の優しさに嘉芳は苦いものを飲む。夫からの贈物なのだろうかと思った。
「これは……両親の形見です、私に最後に残っているものですもの……」
 悪いことを聞いてしまったと嘉芳は肩を落とす。その気配を敏感に察したのか、泉玉は嘉芳の腕を軽く叩いた。

「済んでしまったことを子燕が悔やむことはないわ」
 嘉芳は俯く。何をしてもうまく行かないのに焦れている。駄目だ、またあれを繰り返してしまう前に背を向けて、すぐそこの扉を開けて出ていかなくては。そうしなくては。そのために、もう来ないと言うために今日は来たのだから。
「もう、帰る……それほど今日の演目は長いものじゃなかったし、ご主人とはちあわせたら困るだろう……」
 絞り出した言葉に、何故か泉玉はそっと笑った。悲しげな微笑は天仙女のような透明さにあふれていて、嘉芳は一瞬本当に美しいと恩った。
「私は……結婚はしていないわ」
 え、と嘉芳は聞き返し、それから小屋の中にかかる男物の着物を見る。泉玉は首を振って子燕、と言った。

「仙姑娘々って知っている?」
 嘉芳はぼんやりする。しばらく口の中でそれを呟いて、はっとしてこの目の前の盲目の佳人を見た。ごくっと喉が鳴った。
「それは……泉玉が、そうなのか」
 ええ、と泉玉は頷いた。嘉芳は不意に身震いした。仙姑娘々は芸人達の集団に時折見られるその集団専属の娼妓のことだ。女神と崇められたりもするが、結局のところ、専用の娼婦に過ぎない──まともに食事さえ作れない女が何故そこにいたのかを、嘉芳は今ようやく理解した。
 嘉芳は愕然とする。その習慣のことなど遠い何処かのことだと思っていた。だが、それで少しも泉玉を包む空気が変わらないのが不思議だった。汚いなどとは思わなかった。ただ、身を切られるほどに辛かった。
「だから……子燕がしたことは私にとっては何でもないことなの。気にしなくてもいいわ、どうせ……いつもしていることですもの」
「……嫌じゃないのか」
 さあ、と泉玉は首をかしげた。そうするとやはりどこか悲しげな空気が漂うのだった。
「分からない……私が一人で生きていくには、世の中は、闇なのよ……」
 嘉芳は低く呻く。泉玉が不意に嘉芳の首に触った。反射的に体が震える。嫌悪ではない。触れられていることに対する、押さえ切れない歓喜の声だ。
 泉玉の手が嘉芳の顔を探してゆっくりと這い上がってくる。嘉芳はその小さな手を取って自分の頬に押し当ててやる。泉玉はしばらく嘉芳の顔を確かめるようにまさぐっていたがやがて呟くような声を漏らした。
「それでも子燕に好きだと言ってもらえて嬉しかった……私にそんな事を言う人はいないから……」
 声が切ない。強烈に寂しくてたまらなかった。

「好きだ」
 嘉芳は呻くように言った。言った瞬間彼女を抱き寄せた。
 甘い。甘い、あの香りがする。毒、これは毒、いつか自分を連れさってしまう毒なのに、何故こんなに甘いのだろう。
 もう会わないと思っていたことも、泉玉の立場というやつも、どうでも良かった。好きだ、と嘉芳はもう一度言った。それが寂しいのなら幾らでもそそぎ込んでやりたかった。泉玉は不意に嘉芳の胸に額を押し当てた。自分の心音が聞こえるだろうか。聞いているだろうか、今、激しく打ちつけているこの身体の鼓動を。

 二人はほとんどもつれあうように、小屋の片隅へ置かれた寝台の上へ倒れ込んだ。泉玉の腕が背に回る。忙しく彼女の帯を解きながら嘉芳は自ら求めてその海へ身を投げた。