愁雨5

 いいのよ、と泉玉は何度目かの逢瀬の後に嘉芳の額へこぼれた後れ毛を愛しく撫でながら言った。
「私は……誰も恨んでいないの。両親が死んで行くあてがなかったからここへ引き取ってもらったのだし……子燕が気にすることは何もないのよ」
 それに嘉芳はぼんやりとした返事をする。泉玉と逢うのはいつも家に芝居の来ている時間だった。逢えば必ず寝床を共にした。
 それが何だか彼女の身体ばかり目当てだったような、安っぽい講談の中の出来事のような気がして、とてつもない罪悪感にかられて急に言い訳を始めたり、家から再び菓子や茶などを持ち出してみたりを繰り返している。
 そしてそれによって密かに家を裏切っているというささやかな背徳の快感を得ている。相手が娼妓だというだけでも親族や長老達の反対は見えているし、まして仙姑娘々だと知ればどうなることか。
 困難だと思うことを羅列していると余計にのめり込んでいくのは自分が愚かだからかもしれない。本当に愚かで良かった、と思うのに苦笑が漏れた。

「でも……俺はあなたに何もしてやれない」
 今の時点で嘉芳には伊家の嫡男としての権威以外の何もない。反駁を押し切るには力が必要だ。誰にも何も言わせないほどの、強力な力が。
 いずれそれは嘉芳の肩へ降りてくるはずだ。嘉芳が大人になったときに。
「早く大人になりたい……」
 その呟きを泉玉がくすくす笑う。嘉芳はゆるい笑みをこぽして起き上がった。身仕度を整えながら、嘉芳はそれを手伝ってくれる泉玉の柔らかな白い手を見る。少しも荒れていない指先は、却って彼女がその本来の役割のために免ぜられている仕事を思わせて悲しかった。

 小屋を出るときが一番自分が情けなく思える。まるきり間男以外の何物でもないからだ。そんなことを思いながら嘉芳は小屋を出ようとする。その背に泉玉が待って、と声を投げた。
「どうした」
 振り返って言ってやると、泉玉は少しためらった。嘉芳は改めて、優しくもう一度同じことを言った。
「明日で伊大人のお屋敷の奉公は終わるのですって……」
 あ、と嘉芳は声を上げる。迂闊だった。いつまでも同じ芸人を家に上げるわけにいかないし、今は父の喪中だからそれほど長い期間を逗留させるわけではない、それにまるで考えがいかなったのだ。
 伊家での公演を終える。即ち、一座は再び何処かへ流れていく……泉玉に逢えなくなる……嘉芳は言葉を失って立ちつくす。泉玉も黙って俯いていたが、やがて決心したように顔をきりりと上げた。
「お願い、子燕、私と逃げてくれないかしら」

 はっとして嘉芳は背を伸ばす。泉玉が嘉芳を使用人だと思っているのなら、それは持ちかけられても不思議はない話だった。
 だが現実嘉芳はそんなものではない。将来漢氏という民族全体の上に立ち、その王となるべき身だ。
「出来ない」
 考えるより先に言葉が出ていた。それを言ってしまったことで、嘉芳は立ちすくんだ。それは、既に彼の中では自明のことだった。初めて気付いた。自分が反発や反抗心を持ちながらも、それを誇りに思ってもいることに。泉玉とのことを遊びとは思っていない。だが、同時に自分にかけられた全ての期待や希望を裏切ることはできない。
「今は……出来ないんだ」
 今とつけてしまったのは何故だ。いつかどうにかなるとでも、思っているわけでもないのに。
 この身にかかる負荷を、厭わしいと思ったことなどなかった。疎ましく思ったときは伊家の嫡男に生まれたことやその示す道を歩いていかなくてはいけないことではなかった。厭わしくて疎ましいのはいつでも自分自身だった。嫌でたまらないのは己の心だった。

 そしてまた、今この瞬間にもそれを思っている。自分にとって大事なものの順位は既に出ている。泉玉を傷つけてもその厳然とした結果に自分で苦く思っても、その順位を裏切って行くことは、どうしても出来なかった。
 泉玉は少し哀しげに微笑んだ。分かったわ、と小さく嘉芳と同じように素早く答えた。諦めの早さに嘉芳は何かを言ってやりたいと恩った。少なくとも未来へ重なる言質のようなものを。
 だが、それも伊家の全てを考え併せると言葉にすることは出来なかった。ほんの少しの間、嘉芳は立ちつくしている。

 泉玉は子燕、と密やかに浮んだ。自分を呼ぷ自分でない名前に嘉芳は唇を噛む。下手に言い訳をするくらいなら今ここでそれを謝ってしまおうか。だが今更何と言えばいいのだろう。
 子燕、と泉玉が返事のないのを不安げに呼んでいる。うん、と声を上げると泉玉はほっとした笑顔になった。
「気にしないで、言ってみただけのことなのだから……」
 その嘘に気付いている。少なくともそれを口に乗せたときの泉玉は真剣な顔をしていた。今、泉玉は何を思っているのだろう。自分は……どうしようもなくいい加減で都合のいいことしか言わない男なのじゃないか……
 あの、と言いかけて何でもないと溜息に混ぜて吐き落とした。

 伊家で何とか出来るだろうか、と考えてみる。祖父の意志、父が亡くなってから伊家を支える柱の叔父たち、その意向を無視して自分で出来ることなどない。
 泉玉をとにかくこの一座から引き離してこの町に居残らせようかと思うが、何分自由になる金が殆ど無い。小遣い程度の現金や普段使うものは言えば揃えて貰えるが、月毎にまとまった金がいるとなると話が違ってくる。
 結局は自分にできることなど無いのだ、という結論でしかなかった。
「俺は今の自分の全てを捨てることが出来ない、どうしても出来ない……それだけは俺は、最低してはいけないことだからだ」
 自分の誇りを捨ててまで何も残らないのは分かる。だが泉玉を諦めたくもなかった。欲深いのだ、と嘉芳は薄く笑った。笑いたかった。
「気にしないで……子燕には子燕の都合があるのですものね、私の方が大人なのにあなたのことを考えてあげられなくてごめんなさい」
「謝らないでくれ、泉玉」
 おそらくそうしなくてはいけないのは自分の方だ。もう来ない方がいいわ、と泉玉が言った。それはその通りだった。別れの言葉とはこういうものなのだろうと薄く思った。

 翌日は曇天で、昼でも暗かった。祖父は中庭で最後の芝居をうたせるからと嘉芳を呼んだが、やはり芝居には興味が湧かなかった。演目の品書きを見せられて選んでおくれと言われたので、その中で一番長そうなものに指を突きつける。
「今目が最後ですから、少しくらい長めに楽しまれてもよろしいでしょう」
 祖父は少し寂しそうな顔をした。
「お前は桂達の息子なのに芝居が嫌いなのだな」
 父は芝居と小鳥に精を出していた。自分はそうしたものに興昧がない。趣味でするのは囲碁と弓射くらいだ。
 祖父の言葉につい苦笑になる。一緒に見ていけと言われて最後の日くらいは我慢しようと腰を下ろした。芝居はやはり退屈だった。何度も欠伸をかみ殺しながら適当に手をうつ。長丁場のものを選んでしまった自分を微かに呪いたくなった。

 ようやく芝居がはねた時には既に雨の気配は濃く、祖父や叔父は降らなくて良かった、などと和やかに会話をしている。解放されて嘉芳は部屋へ戻ろうとする。あまり賑やかなところにはいたくなかった。
 その背を呼び止められて嘉芳は振り返った。使用人の指示は本来彼の責務だが年が若いと免除され、今はこの老人に一任されている。
「大少爺、少しよろしいですか」
 頷くと老人は懐から何かを取り出した。それに目をやって嘉芳は内心でひどく動揺する。……泉玉の、真珠の手纏だった。

「先ほど一座の若いのが私に持ってきまして、泉玉という女からだというので……覚えがないので断ると子燕というのはあなただろうと言われまして。大少爺、役者や芸人の一団にいる仙姑娘娘というのをご存じで?」
 知っている、と答えるのがやっとだった。血の気が引いていくのが分かった。露見することを恐れているのだろうかと思うと、自分の狡さに眩暈がしそうだった。
「年は16だと言ったそうなので、今このお屋敷に16は少爺だけですな」
 子燕、と嘉芳は遮った。老人はふっと肩の力を抜いて溜息をついた。

「よろしいんですよ、少爺。ただね、相手がどうだとか状況がどうだとかいう訳じゃないんです。女に偽名を使われたのは賢明でしたが、それにしたって半端にしてはいけません」
 老人は嘉芳の手にそれを押しつけて溜息をついた。嘉芳は背を返した。これは返さなくてはいけない。両親の形見だと言っていた。少爺、と老人が彼の袖をつかんだ。
「今行ってはなりません」
 何故、と叩きつけるような自分の声は焦りのためにうわずっていた。老人は首を振った。
「仙姑娘娘は一団の全ての女ですが、それ以外の女ではないからです。これを託してきたというのがどういうことかお解りですか」
 いや、と嘉芳は答えた。老人が僅かな時間、それを言うべきか迷っている。嘉芳ははっとしてその真珠の手繕を握りしめた。
 そこから僅かに泉玉の残り香のような気配が漂ってくる。圧倒的な天命を持つもの以外の他人の気配は追いがたい。近くにいれば分かることもあるが、この品だけでは彼女の気配を追うことは難しかった。

「今、行かれないほうがいい」
 老人は強く、彼の袖を引いた。それで却って何か泉玉の身に良くないことがあるのだと知った。嘉芳は真珠の手纏を懐に入れて背を返した。
 自分の馬を引き出して門を出る。裏口からまっすぐ竹林の中を通って小屋へ行くのは初めてだった。

 異変にはすぐ気付いた。黒い、嫌な霧のようなものが見える。ちらちらと視界を瞬いている。あの時、父の裾にまとわりついていたあの気配と同じ種類のものだ。
 鳥の甲高い潮笑が再び聞こえた気がして、馬に思い切り鞭をあてた。小屋のほうへと出かけて嘉芳は馬首を巡らす。目を閉じて人の気配を探る。真珠の手纏の入ったあたりをまさぐってその気配を追う。

 ぽつんと額に水滴が当たった。その瞬間に嘉芳ははっと瞠目する。気配を見つけた。
 竹林の中へ馬を進ませる。細い悲鳴が微かに聞こえた。きんきんと頭の中で張り詰めた弦が鳴っている。
 天命、と思った。これは天命なのか、あの女の。
 違う、と嘉芳は叫んだ。

 人の宿命は変えることができる、父を救えなかったのはあの鳥がよりによって母の声で鳴いたからだ、あんな欺瞞に二度と騎されはしない、絶対に!
 嘉芳は鞍につけられている弓を取った。駈けよせながら引き絞る。鬱蒼と茂る竹の格子の向こう側に、きらりと光るものが見えた。
 倒れているのは女、逃がれようと体を引きずっている。振り上げた太刀を下ろそうとしている男を狙って弓を引いた。迷いなど無かった。

 弓射には絶対の自信があった。弓を大きく引き、そして放そうとした、その瞬間に馬が大きく前にのめった。落ち葉に埋もれた微かな陥没に蹄を蹴り込んでしまったようだった。思わず放してしまった矢は見当違いの方向へ飛んでいく。
 嘉芳は舌打ちする。外すと思っていなかったから第二矢を持っていなかった。
 急いで矢筒から一本抜いて狙いを定めて再び弓を引く。万全だと思って射た矢がまっすぐに男へ向かう。当たる、と思った瞬間だった。

 ──鳥が視界をよぎった。あっ、と声を上げる。
 鳥が絶命の叫びをあげてぼとりと地面に落ちた。落ちたのと同時に、女の絶叫が竹林に一時響き、そして静かになった。
 雨の音だけがやがてさあさあと世界を満たした。

 嘉芳の側を気配が駆け抜けていく。愛しげに彼の頬を撫で、どこか希薄に遠くなっていく気配がある。
 馬鹿な、と嘉芳は呻いた。そんな馬鹿なことがあるか。狙いは正確だったのに。それとも天命は変えられないとでも言うのか。あの影がうつると人は皆死んでしまうのか。変えようがないのか、どんなことをしてもしたくても絶対に。

 嘉芳は呆然とする。では、何故自分に見えるのだろう。こんなもの、見えなければいいのに。変えようがないのなら、それが見えなくても同じだ。
(人の一生は最初から定まっている、分かっているんだろう。それが見えているのに何も出来やしないのさ!)
 鳥の悪意に満ちた真実がつき刺さってくる。それは事実だった。

 泉玉のそばへ馬を寄せていくと、男が嘉芳に膝をついた。
「……何をしている。ここは伊家の所有の土地だが」
 自分の声は低い。怒りなのだろうかそれとも何も出来ないのだという無力に震えているからだろうか。
 男は嘉芳の不機嫌を感じたらしく、低く叩頭した。嘉芳はこれはその女のものか、と懐から真珠の手纏を出して見せた。男は頷いた。

「子燕から預かってきた。その女のものなら返してやれ。何故女を斬ったのか聞いてもいいか」
 男は手纏を受取ながら、不貞は死が掟ですから、と言った。
 嘉芳はただそうか、と答えた。子燕が止めたのはそういうことだったのだろう。もう行け、と男を追い払う。男は泉玉を抱き上げて嘉芳に一礼し、去っていった。

 次第に遠くなるその姿を見ながら嘉芳は自分から何かが抜けていくのを感じている。
 最後で自分は泉玉を裏切った。知らぬふりをした。関係ないと伊家の体面を繕った。泉玉のことを思わなかったわけではない。僅かな時間でも濃密な恋だったと思っている。
 だがそれを絶対至高のものだとは思わなかった。いつか妻を、しかるべき家の娘を娶るだろう。それが伊家と漢氏のためだからだ。

 自分は既に選んでいる。逃げてほしいと言われたときに、咄嗟に出来ないと答えた瞬間だったのかもしれない。あの時、自分で未来を選ばないことを選んだのだ。それが伊家と漢氏のためだから、そして何よりそれを誇らしく掲げる自分のためだからだ。
 けれどそれは泉玉とのあの短い日々を否定するものではなかった。好きだった、本当に。ただ、伊家と引き換えにできなかっただけだ。

 自分が選んだのは漢氏という民族の未来だった。それをかけがえのないもののように愛している。それを初めて強く思った。自分が伊家の人間なのだと自覚した。その意味の重さに嘉芳は微かに身を震わせる。それを背負い込んでからこの先、少年時代と呼べるような輝きが自分にはないだろうと思い、それでもいいのだと思った。

 それでもいい。今は、どうしても伊家と漢氏のために自分を導いてやることが正しい。それだけが、自分の定まった天命なのだ。
 変えることができないのなら、その中で自分の誇りとすることだけは失ってはならない。

 嘉芳は上を見上げた。天から落ちてくる水滴は次第に酷くなってきており容赦なく叩きつけてくる。
 頬にあたる冷たいものは雨、生温いものは涙。何故泣いているのか嘉芳にはよく分からなかったが、泣きたいときに泣くのもこれが最後なのだと思った。
 そう思った瞬間に涙が溢れた。

 嘉芳は涙を拭わない。ただ、上を見上げて立ちつくしている。雨が降っていて良かったと思った。涙の跡を洗い流してくれるだろう。
 だから、今は泣いてもいいのだ。誰もいない、泉玉、俺が泣いているのがそこから見えるか? 失った光で、その目で、見えているか、泉玉……嘉芳は黙って泣き続ける。せめて今だけでも泉玉を送ってやりたかった。

 雨の匂いが竹林の清浄さを蒸しあげて立ちこめる。次第に冷たくなってきた指先がかじかんで震えているが嘉芳はそれには構わずに涙に任せた。
 それは彼の短い少年時代の終わりを告げる、別離の涙だったのかもしれなかった。

 顔に肩にあたる雨が痛かった。もっと、と嘉芳は手を差し上げる。もっと、降れ。自分がここで泣いている時間を少しでも長く引き延ばすために。お願いだから降ってくれ。全ての悲しみ痛みを押し流し、甘く激しく、
 ──雨よ、降れ。


 懐かしい夢を見た、と嘉芳は身を起こして溜息をついた。もう……16のときのことだから、13年も前だ。
 泉玉。嘉芳は目を閉じて、その思い出を胸に呼び起こす。哀れな女だった。今の自分ほどの力があれば何とかしてやれたかもしれなかったが、当時のことは仕方がない。自分は本当に子供だったし、泉玉とて子供と駆け落ちするなどという甘い夢を見たがるほど愚かで、それが尚更憐れだった。
 だが、それも最早取り返しなどつかぬ彼方へ去ったことだ。

 夜中に目覚めるのは珍しかった。嘉芳は上掛けを羽織って外へ出る。外は満天の星だった。星を見上げて嘉芳はしばらく無言だった。泉玉を思い、そして洛揺を思った。天の軌道は生まれ落ちたときに定まるもの、それをどうこうはどうしても出来なかった。諦めたのはいつからだろうか。ただ、それによって得たものもある。
 嘉芳の心を今、一番に占めているあの──大きな、暖かな、星。
 ガーン、と呼ばれて彼は振り返った。ああ、と笑みになる。ケイという名の新しい友人が駆け寄ってくる。それに手を挙げながら、嘉芳は目の端を流星が行くのを見た。またひとつ、星が落ちた。
 願わくば嘉芳の今を支配しているあの大きな星は落ちないようにと、そんなことを思った。

《愁雨 伊嘉芳十六歳 了》