遣らずの雨3

 異変に気づいたのは長年の勘のようなものだった。生き物の気配がする。それも特に濃厚な。クロウは集めた食料を衣嚢(い の う)へ納めると目立つ木の下へ埋めた。姿勢を低くして、獲物を定める狼のようにじりじりと近づいていく。獣だとしても雨で臭いは判別しがたくなっているだろう。

 前を睨む眼窪が痛い。視線が焼き付くほどに真剣に前へ向かっている。音を立てないように気配の背後へ回ってそっと草むらから覗いた。

 最初に見えたのは投げ出された鎧のすねあての部分だった。それが敵の証である朱に塗られている。それを見た瞬間、ぴりりとした緊張がこめかみをひきつらせた。クロウは一層姿勢を低くして、自分を落ち着かせるためにゆっくり瞬きした。

 よく見ればだらりとした姿勢で木にもたれきっている。意識はあるようだった。頻りと吐き出されている呼吸の白い拡散に時折意味不明の言葉が混じるからだ。何かを呟いて騎士が身じろぎしたとき、恐らくは膝か股に放置されていた手が滑って土を叩いた。指先がぴくぴく痙攣しているが腕は少しも動かなかった。

 ……死期が近い。クロウは見切りをつけた。怪我と、そしてこの遣らずの雨に降られて体力を奪われて緩慢な死に至る過程なのだ。そんな状態の戦士を幾人も見てきたから間違いない。

 クロウは立ち上がった。その瞬間にがさりと草が揺れたがそれには構わなくて良かった。事実、騎士は振り返らなかった。

 ゆっくりその前に立つと騎士は視線だけをあげてクロウを認めたようだった。クロウは騎士の風体をみる。まだ若い。だが若すぎるということはなさそうだ。血で汚れた顔は憔悴しきっており眼光だけが鋭い。その目の光だけが異様でクロウは僅かに怯む。恐怖というよりは淡い嫌悪だった。

「名前は」

大陸の基準語となっているクーリ語で声を掛けても返答は無かった。騎士は僅かに唇をわななかせたがそこからは何の言葉も洩れてこなかった。返事をそれほど期待していなかったから、クロウは淡々と続けた。

「どうやらお前様はもうすぐ死ぬ。名前を教えてくれれば形見を預かろう」

生きて帰ることがあれば自軍の捕虜にでも渡してやれば済むことだったし、それは騎士同士では一種の礼儀として遇されていたからクロウも従った。騎士は頷き、凍えているような口を動かして名乗った。その名を復唱してやりながら、クロウは彼の前に膝をついた。先ほどの厭な眼光は既に力を失いつつあった。

 形見をとクロウは騎士の持ち物へ視線をやり、初めてそれに気づいた。

 ……それは一振りの剣だった。落日を抜いたように赤い。はばたく鳥の意匠とその周囲に咲き誇る蘭の花が彫り込まれている。刀身は細めにやや反り返っているのが鋭利な印象だ。そのぎらぎらした抜き身の輝きが鮮やかだった。

 良い剣だった。騎士が握り締めているのをゆっくりはがしてやろうとすると首を振られた。大事なものなのか、とクロウは分かったと頷いて見せる。形見にしてやると誓う、と言うと騎士はそれにも首を振った。何故と聞いても彼にはもう力が残っていないだろうとクロウは判断し、解ったと肩をすくめて彼の首に残った銀の紋章飾りを取った。これでいいかと視線で問うと、騎士はようやく頷いた。

 とどめをさしてやるかどうかを迷ったがクロウは結局騎士の身なりをある程度整えてやってから背を返した。結局の所、クロウが手を下さなくても今日の日没には彼の魂は地上を去っているだろう。

 騎士の名を脳裏に刻みながら2、3歩進んだその時だった。

 急な殺気にクロウは反射的に振り返り、突き出された剣を手甲の部分でなぎ払った。雨に濡れた葉が足を絡める。均衡を崩してよろめくと、更に銀の光が弧を描くのを認めた。

 クロウはもう一度その斬撃を手甲で払った。切れ味の鋭い軌跡に反して力は弱く、眼前から簡単に転がり落ちた敵にクロウは眉をしかめた。それは、彼がたった今形見を預かったばかりの騎士であった。

「お前っ」

叫んでみても返答はない。いやそれよりもらんらんと輝く目の光の方が異様だ。怯気を覚えてクロウは後ずさった。なぎ払って一度は崩れ落ちた体を騎士は剣で支えてよろめきながらクロウへ一撃をくれようと手を振り上げる。クロウはやめろ、と低く制止しながら剣に手をかけた。









 眼前をよぎる剣の鮮やかに滑る線。

 のけぞった首の後ろへかかる負荷。

 濡れ葉を踏んで曖昧に不安な足元。

 睨みあげてくる視線の焦点の無我。

 吐く息が白く残る常緑樹の黒い森。



 そして、物言わぬ獣の魂切る叫び。



 雨は、静かに、一切を、流して、消して、癒す。

 雨は、静かに、全てを、癒して、消して、還す……











 クロウはようやく深い呼吸をはいて、じっとりと汗ばんだ額を拭った。濡れそぼる雨の水滴も肌にはりついているが、汗はねっとり絡みつくように指に残った。

 顔を歪める。何を口にしていいのかわからないままにくそ、とだけを呟いた。何が起こったのか一瞬分からなかった。振り返った瞬間は本能で危険を避けたが、だが。

 クロウは足元で動きを止めた肉塊へと視線を落とした。動かなくなるまで徹底的に叩き潰さねばならなかった。直視していて気分の良くなる光景ではない。たった一つの救いは雨のせいで血の臭いがそれほど濃厚でないことだ。肩を割って斬り下げても足の肉がそげて骨までを覗かせても彼はこちらへ向かってくることを止めなかった。戦歴の長さの反射で頚動脈を叩き斬っても血を噴き出しよろめきながら剣をあげてかかってきた。

 クロウはもう一度顔をしかめた。彼は瀕死に見えた。いや、事実そうだった。殆ど口も利けなかったでないか。ではあれは何だったのだ。傷という次元の問題ではない。通常なら動くどころか声さえ発するのも苦しいだろうに….いや。

 クロウは騎士の元は悪くなかっただろう顔に一点、強烈な違和感と共に咲いていたぎらつく眼光の鋭さを思い返す。それを脳裏に浮かべた途端に背中がぞくりと粟立った。恐怖というならたしかだった。

 クロウはため息をついた。何度目かも分からなかった。足で素早く騎士の体に草をかき集めて掛け伏したのはこの尋常でない死に方をしている遺体を隠さなくてはと思ったからだった。いずれ発見されるなり獣の口に入るなりするだろうが、今はまだ時期としては良くはない。

 それが終わるとクロウはその場から足早に立ち去ろうとした。その足にこつんと堅いものが触れた。落ち葉の墓標から僅かに見えている赤い鞘が目に入る。クロウは一瞬迷ってからそれを取り上げた。騎士の握り締めていた剣だった。

 名のある剣に違いない。刀身には鋭利に張り詰めた緊張感が漂っている。鞘に彫り込まれている鳥は、どうやら漢氏様の様式を持っている。若干異文化めいた情があった。咲き誇る花は蘭、か。高貴な花だ。クロウは上流とやらの風習には興味がなかったがそれでも蘭が上流で格別好まれる花であるとは知っている。

 騎士はそれなりの家の者だったのだろうか。だがそれにしては護衛が一人もいなかったのはおかしいし、第一この剣を形見にと申し出た時彼は拒否した。家の物であるならばそれは不自然というべきだった。

 鳥の羽音が急に頭上をよぎった。クロウははっと上を見上げ、それから薄苦い唇だけの笑みを浮かべた。もう戻らなくてはいけない。あまり遅いと上官はそれだけでまた青くなっているかもしれない。努めて自分の置かれている状況へ思考を押しやり、クロウは手にした剣を見た。見れば見るほどに、良い剣だった。

 クロウは足元の、落ち葉の死床に軽く一礼した。彼がこの剣を家族へ遺すのを拒んだのなら貰っていってもいいはずだった。クロウは神の聖句を口に乗せ、ゆるく背を返して歩きはじめた。

 まさにその瞬間だった。

 「へぇ……拾っていくんだ」

 後ろから、声がしたのは。