遣らずの雨5

 降り続いた雨がふと止んだ。曇天は相変わらず低く立ちこめて雨の気配は遠くないが、それでも安堵した空気が流れたのは事実だ。隣のグラッシアも微かに緊張をほぐした顔つきで天を見上げている。難儀なのはこれからで勿論それを理解してもいるだろうが、何よりもあの押し込められるような鬱な雨が一先(ひとま)ず去った事で吉兆としたいのだろう。

 クロウは止みましたね、と声をかけた。グラッシアは振り返って頷き、それからふとゆるい笑みをもらした。

「山を、降りなくてはね。父上の本陣は恐らく」

グラッシアは言いながら鬱蒼と繁る木々の合間を抜けるように目を細めた。

「あちらの山を越えて平原を渡った奥という所だろう。人の足で……そうだな、二日と少しという辺りでないだろうか」

その概算にクロウは頷いた。雨の止まぬ間グラッシアはその事をずっと考えていたに違いなかった。

 よいお方だ、とクロウは単純に思う。自分の責任を生真面目に果たそうとしている。決して投げやりにならず、倦まずたゆまずに自分の成せる事を考えようとしている。その生真面目さ、逆を返していうなら融通の利かなさがクロウ達をこの山中へ逃げ込まざるを得なくさせたのだが、それで開き直ったり腐ったりするよりは遥かにましというものだった。

 簡単に道筋を確認した後、クロウ達は前もっての打ち合わせの通りに2手に別れた。グラッシアにはこの分隊の中で一番の歴戦の戦士であり隊長格であるクロウが付き従っているが、他はくじを引いた。正直何かあればクロウはグラッシアしか優先する気がない。同行者が誰であろうと関係がないのだ。グラッシアはそれをわかっているのだろう。目を伏せたまま何も言おうとしない。

 クロウはその甘ささえを苦く見切れない。グラッシアがこちらへ向けてくる素直な賞賛と尊崇の眼差しを憎くは思えないのだ。結局の所は。

 それは要するに好意だ。素直を誉めすぎというなら単純とも言いかえて良い。好意を裏切り残るのは卑怯という名の果実、その味は苦く、酸く、そして生々しいえぐさに満ちている。いつまでも舌の奥端に残ってじくじくと存在を主張する。それは二度と消えない罪の刺青、何度言い訳をしても仕方がなかったのだと言い聞かせても目をやればそこに罪の証があるようなものだ。

 罪人よ。

 お前の犯した罪に真実罰を与えるのならそれはお前の心だと。

 クロウは一瞬目を閉じた。嫌な雨があがったことでその水と同じくその囁きが天へ吸い込まれて消えてしまえばいい。だが忘れようとした胸を嘲笑うように、記憶は遡って自分をいつか捕らえる。捕らわれるだろうという自覚がある。

 あの、虚ろな雨……

 ふと落としたため息にグラッシアが不安そうに目を伏せた。その仕草にクロウは我に返り、苦笑しながら何でもありませんよと若い主人の肩を叩いた。実際これはグラッシアには関係がないことだった。クロウは殊更に微笑んだ。グラッシアの顔に微かに赤味が指す。彼はクロウよりも14の年下だが、亡くなった優しく堅実な兄と偉大な父の長所を寄り合わせたものに似た感情を父の護衛としての側近であるクロウに感じているのは明白だった。

 それはクロウにとっても悪い感情は呼び起こさなかった。身分は遠く隔たっているがグラッシアの父であるディディアール将軍の信頼を得ているクロウに対して彼もまた、素直に信頼をよせている。視線のまっすぐに向かう淀みない光を見る度に、それが自分にも当てられているのを受け入れることが嬉しい。クロウには弟がいないが、きっといるとするならこんな風なのだろうか。疑似兄弟のような空気は嫌いではなかった。

 だから守ってやりたい。少なくとも、今は本気でそう思っている。クロウは腰に差したあの紅剣に触れる。鞘に触れる度にどこか薄ら寒いおぞけを背中に覚える。……だが、良い剣だ。

(蛮勇を誇って野垂れ死ぬ)

 未来の予言など、信じぬ。

(怖くなって逃げ出す卑怯者)

 俺は、どちらにもならない。……今度こそ。

 クロウはその言葉を振り切るようにもう一度グラッシアの肩を軽く叩き押していきましょう、と促した。









 何故、と彼は言った。

 鮮烈なのはその目だった。きょとんとした眼差しで彼は目をしばたいた。自分の身に何が起こったのかを理解していない様子だった。それは相手に対する全幅の信頼を土壌にした善意的な心霊に満ちており、故に尚更強烈な罪を突き付けてくる。

「何故」

 彼はまた言った。その言葉さえ暫くの沈黙の後であり、その沈黙は重く沈んだものですらなかった。ただ本当に分からなかったのだろう、自分が今、何をされているのかさえ。

 何故、ともう一度声がした時、自分が薄い微笑みさえ浮かべているのに気付いた。可笑しくはなかった。笑いたかっただけだ。こういう時、人は笑うことしか出来ないのかも知れなかった。彼はもう一度何故、と言った。

 それに答える気など、なかった。

 温い雨が通り過ぎていく。その問いは二度と彼の口から出ることはないだろう。

 黙って立ち尽くして見つめ下ろす、泥にまみれて落ちた悲鳴。それはしだれる雨に凍り付き、大地に吸い込まれるように消えていった、あの日の、温く濃厚な、雨……











 ぬかるんだ足元が気になるのかグラッシアはずっと下を見てばかりいる。馬は山中に逃げ込んだ時に手放さざるを得なかったから全員が徒歩だが、明らかに彼だけが土壌を歩き慣れていない。文句を言ったりしない分彼が忍耐を強いられているのが分かってしまうのは、やはりグラッシア自身が気付かぬ内に放っている育ちの良さの香りなのだろう。

 クロウ、と呼ばれて周囲の気配を探ることを一瞬中断させ、主人の顔を見ると、それでも疲れがやや滲んだ色がそこにあった。

「また降りそうだ、嫌なものだね」

雑談か、とクロウは苦笑になる。そんなことでもしていなければ神経が緊張の持続に耐えられないのだろう。クロウは曖昧に頷いて天空を見上げた。グラッシアの言う通り、曇天は低い。濃厚な土の匂いが立ちこめていて、頬に当たる空気の湿り気がべたべたとまとわりついてくる。

 天候は神のものですから、とクロウは短く答える。巡り合わせは仕方がない。自分とてそれを望んでいる訳ではない。ただ人にはどうにもならないことがある。それだけのことだ。

 グラッシアは薄い苦笑を浮かべた。彼にも彼自身の臆病さ、世慣れぬ不器用さが分かっているのだろう。きっと、自分を置いて見捨ててゆくならクロウを含めた何名かはとっくに本陣へ辿り着くだけの力量があるということも。

 クロウはそれでようやくぬるんだ笑みになった。それを思った瞬間に、自分もまた押し殺した緊張を撫で回していたのにも気付いたからだ。グラッシアの気遣いを素直に受けて、クロウは降らないと良いのですがと話を合わせた。グラッシアがほっとしたような表情で頷き返した。クロウはそれに自身つい緩んだ笑みになりながら若、と言いかけてふと声を潜めた。

 何か……おかしい。背中の方向やや斜め右の後ろから突き刺さるような気配がする。感じる圧迫は……視線?

 クロウは思わず振り返った。何かと目があった。

 剣に手をかけるのと敵が飛び出してくるのがほぼ同時だった。クロウはグラッシアの肩を軽く突き飛ばし、その剣を抜いた。強く掴むと僅かに痺れに似たものが背を走った。それが何かを分からないままクロウは柄の冷たい感触を握り込み、敵に向かって振りかざした。

 背をびりびりと走ってくる快楽に似た痺れがある。それはあっと言う間に脳髄へと直接上がってクロウは微かに声をあげそうになった。目を見開くと自分の腕が既に反射の速度で剣を操り敵の首筋へと一撃を叩き込むのが見えた。

 次の瞬間、吹き上がった血が霧のように視界を満たした。掻き切った喉の傷口の線と同じ角度に血飛沫が飛んだ。それが最初の天からの一滴と同じような唐突さで頬にかかったとき、クロウは再び強い快楽を背に覚えた。

 血がとろりと頬を滑り落ちた。

 まるでそれは雨のように、優しく、ぬるかった。









 最後の兵士を倒してクロウはようやく震える手を直視することが出来た。驚愕というよりはどこかに暗いものを抱える怯みに似た諦観が一時クロウの全身を支配している。剣を握り締めた自分の右手はまだ微かに痙攣していた。それは恐怖ではない。他人を斬る度に遠く耳奥に吠えるような歓喜の雄叫びを聞いた。

 ぞっとするほど、自分は今、静かな興奮の中にいる。それが分かる。肉の手応えを骨に当たるきしみを腕に感じるたびに背をぞくぞくと駆け上がってきたあの涼ろやかな興奮を、それを手が覚え込もうとして震えている。

 良い剣だ、とクロウは呟いた。あれだけ人を斬って、一振りで血油が剥落し、白銀の抜身の輝かしさを取り戻している。刃こぼれもない。クロウの力のある打撃にもびくともしなかった。

 クロウはその剣を眼前に掲げてしみじみと見た。細い刀身はやや反りが入っている。大昔に滅びてしまった漢氏という民族があるが、伝えられている漢氏様の剣にその姿の鋭利さが良く似ている。彼らの風俗は特殊だったから見ただけで判別はつくのだ。どちらかというならば女物だろうか。細く、軽い。だが切れ味の見事なことも鞘滑りの良いことも、飛び抜けていた。

 ……そして、とクロウはやっと痙攣が治まってきた手を開き、刀身を左手で支えた。雲を透かした弱い陽光が一瞬反射して目の奥をぎらり灼いた。

 柄に、何か入っているのだろうか。剣を振る度にたぷんとしたものが中を移動している感触が手のひらに残る。それが神経をぞろ動く毎に何かがクロウの中に押し殺された凶暴な部分を掻き回して追い立てようとする……

「クロウ、大丈夫なのか……?」

その声に、クロウははっとした。我に返って振り向けば、彼の年若い主人が微かに眉をよせて彼を見つめていた。その瞳の奥に彼に対する不安を嗅ぎとって、クロウは何でもありません、と素早く言った。グラッシアはやっと吐息を下ろすようなぬるんだ笑みになったが、その奥に隠れた恐れをクロウは見た気がした。

 グラッシアが、自分を恐がっている。あるいは怖れている。ただそのクロウの行為が自分を救うという名分のもとの暴行だから何も言えずに優しい沈黙を弄んでいるのだ。

 何でもありません、と再びクロウは言った。グラッシアは首を振った。それは拒否や否定のものではなかったが、それ故にグラッシアの心をよく伝えてくる気がした。彼は気に入らないのだ。クロウが敵兵を皆切り捨てたことが。確固たる敵であるならともかく逃げようとした者までをクロウは追い打った。それは必要だった。不用意に情けを出してこちらの人数や人相や風体までを報告されては生き残る確率は一段低くなる。人倫を説いている場合ではないのだ。

 いや、クロウはまだそれでもいい。ただグラッシアを守るためにこちらも必死であるからには、それ以上を言わせてはならなかった。自身の中のあの悲鳴のような歓喜愉悦はともかく、他の騎士達の手前は主君であることを思い出させなければならぬ。年若いことは関係ない。それが彼の道であるからだ、これから先、幾千幾万の累々重なる屍の上に立つべき身であるということが。本人の資質に取っては恐らく不幸なことに。

「お怪我はありませんね」

クロウは出来るだけゆっくり、静かに言った。グラッシアは僅かに視線を外した。クロウの言葉の意味を分かったようだった。その覚悟が足らぬとしてもそれを自覚し心掛けようとする辺りは確かにグラッシアの美徳と言うべきであった。

 グラッシアは頷き、皆ありがとうと小さく言った。何を求められているのかを考えてくれるだけ有り難かった。

「ここがまだ戦場であれば、そこで敵に遭遇することもお互いに運命であると思います」

それが如何に理不尽に見えても、出会った瞬間に殺し合うことしか出来ないこともある。それはもう個人の意志の範疇を越える。ただもう運命であるという言い方しか出来ぬものだ。

 グラッシアは頷いた。……懸命に、頷こうとしているように見えた。