遣らずの雨6

 じりじりと人数は減っていった。一日が過ぎるのが異常に遅く感じられた。邪悪な罠に掛かったように時折敵は現れては戦闘を強いた。あるいは獣の音に驚いてこちらが神経を逆立てることも多々であった。グラッシアは既に殆ど口をきかぬ。それは疲労からくる自棄なのか、神経が過敏になっている証なのか。寡黙であっても不機嫌を部下に八つ当たりはしないが、その押し殺した顔の下にあるのが今にも焼き切れそうなか細い苛立ちであるのは一目瞭然というべきだった。
 この広大な野山にはまだ相当数の敵が残っているとクロウは結論せざるを得ない。そうでなければ遭遇の機会が過多である。グラッシアを中核にしたクロウ達がまだ完全には戦場を離脱できていないことや、グラッシア自身の人相、こちらの人数に特徴などが敵に知れているのか否かは分からないが、そうでないという反証がない限りは悪い方へ想定することが慎重というものであった。
 敵にこちらの情報を与えないという理由においての滅殺に既にグラッシアは何も言おうとはしない。ただ辛そうに目を伏せてこちらに気付かれぬように小さく震えている。その心を分かっていながらクロウは気付かぬふりで通した。
 優先すべきはグラッシア本人の生命だった。それを守るためには何もかもを注ぎ込んで良いはずだ……いや。
 クロウは微かに首筋に残る快楽の残り香を追って目を閉じた。
 ……確かに、何かが、決定的に、おかしい。こんなに人の血は甘かったか。人の肉は優しく軟らかだったか。上がる悲鳴は耳に美しかったか。肉を剥ぐ感触が剣を通して手に伝わる毎、骨を絶ち折る衝撃が刀身を伝って腕を震わせる毎、絶命の叫びが鼓膜に直接息吹をあててくる毎、快楽よりももっと強い何かが背を這い上がり身に絡みつきながら脳髄へと痺れ込んでくる。目の前が血飛沫の色に淡く煙って滅生の絶景へと転化する。
 それは絶対快楽だった。
 グラッシアの為にという理由がどこかへ吹き飛んでいきそうな強烈な麻薬に似た何かが確かにクロウの中に潜んでいるものを追い立て、引き回し、そして凶暴な獣性へと鞭を打ち下ろしてくる。それに痛みを覚えない。寧ろ、喜々として待っている瞬間なのかも知れなかった。
 その銀の輝きに肉が弾ける度に嫌悪でも恐怖でもないものがクロウの背をぞくりと粟立たせる。ぴりりという痺れが脳幹を駆け上がり頭の中を根を張るように犯してくる。こめかみを見えぬ触手がぞろ這い回っているような感触がする。それすら、圧倒的に……至悦。
 そして、それは命が散華する瞬間に最も鮮やかだった。命の火が消える瞬間が見える気さえした。喉で喘ぎそうになる。今まで抱いたどんな女よりも快感という意味において突き抜けている。絶対至福、目の前が白くなるほどの絶頂感。興奮などという言葉では最早追い付かない。
 剣を振り上げる刹那強い意志がクロウにそっと侵入してくる。それは声ではないが、声よりよりもその望みをはっきりと伝えてくる。
 もっと、もっと、強く、雄々しく、鮮やかに、圧倒的に、前を見て、前だけを見て、更に、更に、前へ、前へ、前へ前へ前へ前へ前へ!
 突き動かされる衝動が、高らかに吠えたてている。敵の脅えた視線に僅かに怯みかけるとそれは明らかにクロウの脳裏へと直接吹きかけてくる。
 もっと、もっと。更なる極みを見たくないか? 強い刺激を欲しくないか?
 それは声ではない。だが声より鮮やかで声より強烈な呪縛に満ちていた。欲しい。クロウの何も考えていない部分、本能に近いものが応えているのが分かる。振り下ろせ、命をその身に吸い上げて自らの愉悦にすればいい。微かに上げた声は悦歓の喘ぎであるだろう。生温い血が頬に掛かる度にそれが真実命の味であるというぞくぞくするほどの悦楽が快感を吠えている……
「クロウ……」
不意打ちのように聞こえた声がクロウをはっとさせた。弱々しい声はあの雨の日に打ち捨てた時の声音に良く似ていた。似ていると思った瞬間、それが過去のことであるともクロウは思い出し、過去だという認識が現実を急速に知覚させた。
 済みません、と対象の曖昧な謝罪を口にしてクロウは大地に縫いつけたままにしていた剣を引き抜いた。倒れた騎士の喉からそれがずるりと抜かれると、傷跡からぬるやかに血が溢れ、やがて泥中の涌き水のような穏やかな噴出へ変わり、それもすぐに止まった。
 クロウは軽く血糊を払って剣を鞘に納めた。柄から手を離した途端にようやく周囲の現実という事象が目に入ったような気がした。クロウは小さくため息になった。……何かは、確かにおかしかった。
 グラッシアがクロウ、と再び言った。何を言われるのかを分かっていた。自分は何か掛け違えた釦のようにずれている。
「私は……お前は甘いと言うだろうし、多分今の状況においてはお前の言うことが絶対に正しいとも思うけれど……でも、無駄に命を散らすことは決してお前の為にもならないと思うよ」
クロウは沈黙する。グラッシアの言うことは確かに甘い。だがそれは以前からのことでもあり、その若い詰めの利かない部分でさえ仕方ないという苦笑と共に許容してきた。……今になってその言葉に強い不服を訴えている部分がある。
 危険を犯しているのはグラッシアの為だ。何よりも彼の命を優先する為だ。その為に万全を敷くことが何故いけない。今の現実がその価値観に合っていないことが分かっていない。生き長らえるためには何もかもを仕方ないと受け入れざるを得ない瞬間があると何故未だに分からない。理解しない。
 クロウが黙っていると、グラッシアはゆるく首を振った。
「お前は、私がとても箱入だと思っているのだね」
大地に斬り捨てられた兵士や騎士達の死屍が積み重なるのを見ないようにグラッシアは視線をあらぬ方向へやりがながら呟いた。その声が思いの他に落ち着いているのを認めてクロウはまっすぐに主人を見た。グラッシアは寂しげな薄い笑みを口元へと浮かべていた。諦観というべき顔だった。
「それは事実だ、クロウ。今更出生を偽ることは出来ないし、私はそれをすべきでない。人倫がどう、とかではないんだ。私は、君が……どこかおかしいように見えて仕方がない」
「おかしい、と……」
「いや、戯れ言だよ。今言うことでもなかっただろうか。ただね……私は、君が君らしくあるために、私の為に何かをねじ曲げる必要はないと、そう思うんだ」
そう呟いて、グラッシアはいいんだ、と自らの言葉を忘れるようにと笑った。
 クロウは申し訳ないと低く言った。
 その瞬間に、しばらく止んでいた雨の最初の一滴が頬をなぞったのが分かった。




 何故、と聞かれて一番辛いのは?
 それは、自分自身にもその衝動の泉がどこにあったのかを分からない時? それとも、自身に理由に見えるものがなかった時? それとも……理由に見える尤もらしいものが全て言い訳でしかないと分かっている時?
(違う……)
 その答は全て間違っている。
 一番辛いのは……




 雷鳴が夜を裂いて落ちた。額に張り付く髪をかき寄せてクロウはじっと身動きせずに目の前の草の揺れだけを注視している。その動きに不自然はないか。誰か潜んでいやしないか。まさしく、文字通り命を懸けて睨み続けている。降りしきる雨がつうっと髪の中を滑っておちるむず痒さにクロウは目を細める。呼吸は一瞬たりとも乱さない。その乱れが草を揺らした瞬間に、向こうに敵がいたら。
 眼前の川を越えればすぐに第三国との国境の緩衝地帯へ入る。クロウはもう長い間黙っている。隣には主君と若い騎士の二人きりだ。
(どうやら人数は確認されているようです)
度重なる襲撃の末に瀕死の兵士から聞き出した情報において、クロウは自分たちがまだ戦場を離脱していないことが敵に知れているのだという確信を得た。戦闘の後始末を悠長に行っている余裕はなかった。そのせいできっと減った人数までを数えられているのだろう。残党狩りというには丁寧だ。きっと分割したもう片方の一隊は駄目だったに違いない。彼らの口から洩れたと考えるのが自然だ。
(喋ったか……)
それは、非難されるべきではない。騎士道というものに照らせば違うものだが、個人としての生命を優先すればグラッシアは特別に感化力に優れているわけではなかった。
 だが、それがクロウ達を窮地へとじりじり追い込んだのは確かだ。人数が知れている以上、その通りに律儀に行動するのは目立ちすぎる。未だにこの周辺にはクロウ達以外の敗残兵がいるはずだ。いっそ細かく人数を割って分散しなくては、固まっていては目印を教えるようなものだった。
 クロウは雨に紛れてゆっくり息を吐いた。冷たい水滴は容赦なく地上から、そして体から温度を奪い去る。気を抜くと奥歯が鳴り始めようとするのをクロウは柔らかく舌で懐柔しながらじっと前を見ている。敵がいるかいないか、そんな二者択一を楽観的に信じる気にはならなかった。
 実際、クロウは待っているのだ。偶然という天の好意を。
 喉を震わせない囁きがクロウ、と言った。ゆっくりした仕草でクロウは聞こえたのを示すために頷く。若い騎士の声だった。グラッシアは口数が極端に減ってきた。無理もない。いつかこの脱出行のことが彼の中に苦い記憶として根付くなら、それは将軍となるべき身としては悪いことではなかった。そんな希望めいたもので自分を誤魔化せるほどに大人になればいい。若いことが言い訳にして成長出来るなら好運だ。
 夜が明ける、と騎士が言った。東の空は丁度クロウの背を向けた側だった。雨はかなり強い。一時激しく鳴っていた雷鳴は今はもうなりを潜めているが、降り止む気配はなかった。クロウにも分かるほどに空が明るくなり始める兆しを見せた頃、それに気づいた。
 草波の一角が不意に風とは逆に揺れた。誰かいる。
 一人か。多人数か。いや、潜んでいるというのならそれは敵の可能性が高い。この川を越えればクロウ達がようやく緊張から逃れられるのと同じく、彼らにとってはここを逃しては失策となるだろう。敵との遭遇の位置関係を脳裏の地図に書き起こしてクロウはそうだろうと内心頷く。自分たちはこの待ち伏せの罠へ追い遣られてきたのだ。上手い方法だと唇だけで苦笑した。
 夜明けを知った鳥が離れた草むらから飛んだ。また、その草が揺れた。間違いがない。クロウは一瞬目を閉じる。
 決断、というよりも見切る瞬間だった。