遣らずの雨7

 お前と一緒で良かったよ、と彼は言った。それには答えなかった。その時は既に決意を固めていたからだった。どうした、と彼は気楽に笑った。もうすぐ国境だ、生きて帰るというのはいいね。お前も早く結婚しろよ、自分を待ってくれる人がいるというのは本当にいいもんだ。
 彼は目を細めて笑っていた。
 その瞬間まで。




 では、と視線を交わして頷き合った後、騎士がグラッシアにも一礼してそろそろと草むらを離れた。時折この川を越えようとする敗残兵を、待ち伏せていた残党狩りが追っていく。騒ぎはぽつりぽつりと五月雨のように間隔をおいてあった。
(我々はもっと川下へ降りる)
クロウは騎士にそう言った。
(若は俺が守る。君はもう行きなさい。国境はそこだ)
同じ陣営の兵が川を渡ればそちらへ追っ手の目が向く。その隙に川を渡るようにと言い含めてクロウは騎士の肩を叩いた。実際その方法で危険を分散しているのだろう。似た意匠の紋を付けた騎士や兵士たちが一斉に川を渡っていく。そうすると何人かは逃げおおせるのだった。
 騎士の背に向かってグラッシアが好運を祈る為の印を切っている。それが終わるのを待って、クロウはグラッシアに鎧を脱ぐように言った。
「あくまでも一般の兵士を装った方が宜しい。確率を高くするならディディアール家の紋章のことなどはお忘れ下さい」
グラッシアは頷いた。実際彼の首には家の格式と序列を証明する紋章飾りが下がっているが、それはこの河岸に置いてゆく方が良い。クロウは外された紋章飾りを草むらへ投げ捨てた。
 鎧を脱いでからお前はいいのか、とグラッシアはクロウに聞いた。クロウはゆるい笑みになって見せる。
「私は何かあった時の盾というものですから」
そう囁き、川上の方向を見た。次の騒ぎが連鎖的に広がっていくのが聞こえる。人数は少なくはない、程度だ。だがクロウはその中に浅い川を走る別れた騎士の姿を見つけた。
 若、とクロウは低く言った。
「絶対に動かないで下さい。私がいいと言ったらまっすぐに走って、国境を越えるんです」
「クロウ……?」
グラッシアの目が怪訝に見上げてくる。動かないで、とクロウは念を押した。戸惑いながら主人が頷いた。クロウはゆっくり立ち上がった。降りしだれる雨の音に負けないように大きく息を吸って、先を行く騎士に怒鳴った。
「若様!」
はっとしてグラッシアが身じろぎした。その瞬間にクロウが何をしようとしているのか悟ったのだった。
 クロウ、と叱責が入るのを無視してクロウは再び声を上げた。
「グラッシア様! お一人では危険です!」
騎士が思わずというように振り返った。それは呼ばれたことに反応したのでなく、自らの義務であったことを完全には見捨てられなかった習性というべきだった。
 ……だが振り返ったという事実がその瞬間、彼を功績を約束する残党狩りの特別の客、「グラッシア=ディディアール」であると断定した。
 殺到していく鎧の鳴り音がクロウと、その足元にかがんだグラッシアの側を駆け抜けていった。





「何故、何故クロウ?! 彼は仲間だろう?! 私の為に彼を使い捨てるなんてどうしてそんなことが出来る?!」
グラッシアが叫んだ。それは金切り声と言って良かった。クロウはそれを無視して敵兵の殺到していく先、必死で逃げていく騎士に向かってもう一度、逃げて下さいと叫んだ。
「クロウ!」
グラッシアが歪んだ顔で怒鳴った。
「何てことを、お前は、何故、何てことを、何故、」
狼狽と驚愕と激しい怒りに表情を染め替えながらグラッシアは叫んだ。それから首の紋章飾りに手をやって、唇を噛む。それを外させたのもクロウだったからだ。
「お前、最初から……」
言いかけてその真実をグラッシアはようやく気づいたようだった。震える手がクロウの服の裾を掴んだ。
「私とお前に加えて彼を選んだのは、私と年や髪の色が似ているからか!」
「背格好も、です」
付け加えることでクロウはそれを肯定した。グラッシアは蒼白になり、何かを呻きながら頭を抱えて嗚咽をこぼした。若、とクロウはそれに構わずに言った。
「走って、若。今なら安全ですから」
騎士を追って、川上では凄まじい騒ぎになっている。それを見越してこの瞬間に川を越えていく者たちは顧みられていない。それはそうだ、一般兵を一人捕虜にするよりもグラッシアの持つ「ディディアール」の姓の方が余程功績になる。
 グラッシアは首を振った。クロウは舌打ちした。若、とその腕を掴む。グラッシアは嫌だと叫んだ。
「私は卑怯者にはなりたくない! クロウ、彼を」
「いけません」
「嫌だ、彼の犠牲の上でどうして生きていける?!」
「生きていくんです、それがあなたの義務だ。今から参じたところで彼の命を拾うのは無理だ、あなたは彼の死を犬死にになさるおつもりか。あなたが生きていなくては意味がない」
グラッシアは喉で返答を詰まらせた。ここで飛び出していっても最早それは遅い加勢であるのはグラッシアにさえ分かる。多勢に無勢の言葉通りのことが起きるだけだ。
 グラッシアは唸りながら首を振ったが、それは事実を直視出来ぬ時の仕草であって、拒否ではなかった。
「走りなさい、まっすぐに」
クロウはグラッシアの肩を押した。グラッシアはクロウ、と弱い声を出した。それが何であるのかをクロウは理解し、グラッシアに低く囁いた。
「彼は、自ら志願してくれたんです。あなたに負担になるから教えないでくれと言われました……」
その言い訳が必要な時があるのだ。自分の中の生き汚い部分を直視出来ぬ場合には。グラッシアは頷き、何か意味のない叫びをあげながら国境の川へ走り出した。




 クロウはグラッシアを追う敵の姿がないことを確認すると剣の柄を握り締めた。興奮というには酷く残酷な衝動が吹き上がってくる。騎士がよってたかってなぶり殺されているのを助けに行くという名目の元の血の宴が今、始まろうとしている。
 もっと、もっと。
 背を押す囁きがけたたましい歓喜を歌っている。
 更なる極みを知りたくないか?
 もっと強い刺激を欲しくないか?
 答は、とクロウは剣を抜き放ちながらうっすらと笑った。
 答は、この戦闘が終わった時に体に残る快楽だけが、知っている。




 雨が降っている。凍えたように小刻みに震えている。立ち尽くした大地、穿たれた杭のようにただ一人だ。
 目を閉じよ。
 内部神経が雨のように優しく唄っている。
 深く―― 深く、目を閉じよ。呼吸を止めよ。
 従わなくては生きて行けない。そうしろと囁く声は甘たるいぬくみに満ちている。
 目を閉じ、呼吸を止め、視界を閉ざして息を殺せ。そうすれば見なくて済む。直視しないで済む。全てを、世界を、人の世の争いも、醜い自分自身も、裏切りだけの人生でも、足元へ横たわる、意志を以って見つめて返してきた眼差しの虚ろさも。
 全て、忘れることができる。
 一瞬だけでも。




 荒い息を吐き、クロウは剣を杖の代わりに地面で支えながら、ようやく座り込んだ。血の匂いが風にのって川面を払い追いかけてくる。クロウは顔をしかめ、それが自分の鎧にも多量に付着しているのに気付いて苦笑めいたものを作ろうとしたが凍えてうまくいかなかった。
 川の向こうでは折角の獲物を逃したいきり立ちで敵味方乱れての混戦になっている。全身を包んでいるのは確かに疲労だが、それもまた、興奮止めぬ神経の成せることだった。
 おかしい、確かにおかしい。けれどそんな異状などどうでもいいと心の内側に吠える荒々しい獣がいる。血潮の音が耳の中で潮騒のとどろきを響かせている。もっと、もっと。激しい海を見たくないか、強い快楽を知りたくないか、更なる至福を飼いたくないか。尽き動かされる衝動が血生臭い味になって口の中に蘇ってくる。だが……甘い。なんと甘いのか。
 もっと。
 手にした剣が声高に急かしている。クロウは握り締めた手を軽く自分で叩いてやる。まだだ。まだ、我慢しろ。今でなくても他にも獲物は沢山いる。震えるな。欲するな。今戻ってもそれは俺の命を縮めるだけの行為、もっと高みを望むなら今はこらえろ。
 何に対して呟き続けているのか、クロウにももう良くわからない。未だにたぎる熱が自分の深い場所に渦巻いていて、どろどろ掻き回される衝動が赤く焼けた肌をさらしながら呼んでいるのが聞こえる。それは敵を切り刻んだことで少しも解消されはしなかった。むしろ声はますます大きくなっていく。
 もっと、もっと。他人の血の犠牲の上に立つのが人生、勝利と栄光に包まれて酔うのが人生、腕を降り挙げてとどめを刺せ。更に深い欲求と背中合わせの快楽を与えよう。必ず、と。
 手はまだ微かに震えている。クロウは唾を飲み込んで立ち上がった。人の気配がする。獣が臭いを嗅ぐように、クロウはその気配に鼻を鳴らして剣を強く握った。
 味方か──それとも、敵か。敵だったら排除しなくてはならない。敵だったら。既に川を渡った緩衝地帯へ入っていることは頭の中にうっすら残っているが、そんなことは関係がない。敵であれば排除を……排除を……敵であれば。敵で。敵。敵。倒すべきもの。斬り捨てるべきもの。忌むべきもの。赤い飛沫が目の前にちらちらとし始める。背筋が悪寒に変わるほどの快感の予感に歓喜の悲鳴を上げ始めている。
 敵、敵、クロウは薄く笑う。
 背後からくるものは全て敵だ。
 敵はこの紅い剣を更に赤いもので飾りたてるための堆肥だ。背中が興奮を叫んでいる。けたたましい声で歓喜を唸っている。敵が来る! 敵が来る! また来る! 麗しい色彩が宙を艶やかに飾り優しく温い雨に似たものが頬にあたる、あの圧倒的に濃密で濃厚な閉鎖された世界がやって来る!
 衝動は最早体の一部であった。クロウは剣を握る手に力を込め、素早く振り返った。
 振り向きざま思いきりなぎ払った剣の軌跡の予測される先に、若い、そして驚愕に目を見張る青年を見つけた。
「クロウ!」
叫ばれた声の先をクロウは直視できずに目を反射で背けた。剣が風を切る、重い風音だけがした。