遣らずの雨8

 見開いた目は語っていた。何故。
 だが一番辛かったのはそれが素直な疑問でも裏切りへの強烈な憎悪さえなかったことだ。
 体がずり落ちた瞬間の泥を跳ね上げるぴしゃんという音が耳の奥にこびりついて取れない。それは雨の音を聞くたびに、どんな古傷よりも疼きながら痛みながら、胸まで侵食してくる……




 クロウは急な虚脱で片膝を泥へ付き、ようやく一つ、息を飲んだ。紅剣はやや離れた場所の柔らかいぬかるみへ突き刺さり、反動で小刻みに震えている。クロウは同じように痙攣している手をぼんやり見やった。よくもこれで敵の中を潜ったものだというほど血塗られていて、どす赤い。だが、それがとっさにグラッシアの命を救ったのは確かだった。
 血のぬめりが今更、剣が主君の首を断つ肝心のその瞬間、思い出されたようにクロウの手から滑飛した。紅剣はグラッシアの横を飛んで後方のぬかるみへ降りた。
 クロウはゆっくり息を吐いた。肺から空気が押し出されていく感覚と共に、どっと冷たい汗が腋下を流れた。
「申し訳な……いえ、あなたが、ご無事で良かった……」
 言いながらクロウはきつく目を閉じた。体はまだ震えており、心は凍えてまた、震えている。この手に主人をかけるところだった。手から剣が飛んだ瞬間にあれほどがなりたてていた身の内の喧騒は既に止んだ。倦怠に似通った疲労だけが残っている。
 疲れていると自覚した瞬間に、クロウは自分が病み疲れているのだと思った。思ったことが更にどっとよせる疲弊を感じさせた。落としたため息の重さをクロウは胸に受けて首を振った。何かを確かに否定したいのだった。
「……大丈夫か、クロウ?」
 問いかけてくるグラッシアの声は平坦を懸命に繕おうとした誠実さに溢れていた。ええ、と頷いてクロウはもう一度申し訳ないと呟いた。
 長い夢を見ていたような気分だった。クロウはまだ震えている片手で顔を覆った。ねっとりしたものが額についた。はっと手のひらを見ればそれも血、クロウは顔を歪めて拳を作り、鎧の表面に擦りつけた。
 クロウが沈黙しているのをグラッシアは自分に対する罪の意識だと思ったのだろう。私は大丈夫だから、と言った。
「……お前が無事に切り抜けてきてくれてよかった」
 グラッシアはそんなことを口にしてぎこちなく唇を歪めた。それは恐らくは笑おうとしたのだろう。だがうまくいかなければ意味がなかった。
 彼が何を気に病んでいるのかをクロウはやっと思い出した。そうだ、あの、犠牲にした若い騎士。追い詰められていたというのは簡単だが、しかし。
 ……本当にあれしかなかったのか。自分に問うのが恐い。
 だが繊細な主人のためにはそう繕うのも気遣いなのだとクロウは思い直した。そうせずにはいられなかった。
 川を渡ってから草むらに身を落としてお前を待っていたのだよと言ってグラッシアはクロウの奮戦を称えるつもりか彼の肩を叩いた。クロウはそれさえ受け止めかねてうつむいた。
 ……自分は騎士を助けに行ったのではない。どうしようもなく酔っていたのだ。現実とは思えない、凄惨な甘い闇に。
 グラッシアはクロウの返答がないことで間を持て余したようだった。主人もまた、騙し打ちに生贄にした騎士のことを仕方がなかったと擦り込んだ上で忘れたがっている。それを弱い、とは思わぬ。生きていくために自分を騙さなくてはならない時もある。全ては、自分の中の必然なのだ。
 グラッシアはそれ以上の言葉を掛けるよりも、行動にすることを選んだ。ゆっくりと自身の後方に突き立っている紅剣へ歩き、その柄に手をかけた。
「良い剣だね、クロウ。お前が山中で拾ってきた時もそう思ったよ。大事にするんだね」
 グラッシアがそう呟いた時、落ちる雷光より速くクロウの脳裏にはその剣を得た時のことが蘇った。
(野垂れ死ぬ愚か者か、それとも逃げる卑怯者か)
 グラッシアにこの剣を押し付けてしまえば逃れられる?
 あの到底了承し得ないと思った選択が突き付けてくる。どちらだ。お前は、どちらになりたい?
 俺はどちらにもならないと思っていたのが遥か悠久の過日に思える。どちらだ。クロウは目を閉じる。分からない。ただ、分かっているのは己が過去においては卑怯者であったという事実だけだ。そればかりは繰り返すまい。二度とあの苦役の果実を噛りたくない。
「良い剣ですが、若」
 クロウはゆるく首を振った。
「しかし、癖があって万人向きではありません。若には向きませんよ。このような剣をお求めなら都へ帰還した後によい鍛冶打ちをお呼びになればよろしい」
 グラッシアは少し、ほんの少しだけ笑った。クロウは殊更頷きながら、グラッシアの手から剣を受け取った。
 自分の手に触れた瞬間に、またあの身体を抜ける強い衝動が呼び起こった。クロウはそれを無理に殺した。この陰惨な、ひどく攻撃的な何かを呼び醒ます声に耳を傾けてはならない。それよりは愚かでいた方がいい。
 手にすると相変わらず柄の内側で液体がぞろめくのを感じた。それも無理に組み伏せていると、グラッシアがはっとしたように顔をあげた。クロウもその視線につられて振り返った。
 まず目に入ったのは真っ直ぐに駆け寄っていくグラッシアの背だった。それからその向かう先に目をやってクロウは軽く声をあげる。そぼ降る雨にゆれる川辺の立ち草から這い出てきたのは確かに犠牲にして置き去りにした、あの騎士だった。




 クロウ、と主人が呼んだ。振り返ったグラッシアの顔にあったのが予想していたような歓喜でなかったことにクロウははっとした。それは困惑、と呼んでよかった。川を越えた時に見切ったはずの事実が邪悪な形に蘇って罪を、そして自身の愚かさと焦りをつきつけてくる。
 クロウは自分もまた青冷めているのに気づいた。彼がやがてまともに体調を快復させればクロウの人生は実質的に終わる。終わってしまう。自らの愚かな焦りが招いた裏切りの罪を突き付けられて。
 折角命を拾った彼に対して少しの喜びも感じない。困惑と、理不尽だと分かっていながらの静かな怒りがこみ上げてくる。分かっている、それは自分が清算すべき自分の罪だ。他の誰が悪いというものではない。グラッシアは顔を背けて直視しないことでそれを黙認したが、彼にはそれを幾らでも繕える言い訳がある。だが、……自分は?
 クロウはため息をついて足を踏み出した。のし掛かってくる雨粒が、肩に重い。グラッシアの腕に抱かれてぐったりと身を横たえる騎士の体の脇に膝をつくと、その様子がやっと目に入った。
 脱出してきたのが奇跡と呼んで良かった。体のいたる所に残された傷跡の酷さが彼の生に懸ける執念を思わせて恐かった。赤い血の色がそぼ降る雨の包んだ色彩の薄い世界に強烈だった。深くて暗い、葡萄酒よりも甘い、目に灼きつく真紅の液体がちかちかと瞬いたようにさえ思えた。
 隣のグラッシアが長く嘆息した。彼も同じことを思っているのだと知った気がした。
 心臓が大きく音を立てた。駄目 ―― だ。いけない。それは、どうしても、やめなくてはならな
(もっと)
い、してはならない、これは許されざ
(その先の至福を見たくないか?)
ることだ、分かっている、そう、分かって
(強い刺激が欲しくないか?)
いる、これ以上の裏切りは罪以上の烙印を残す、自分の心にまた遣らぬ雨の音が満ちる、さあさあと降る雨、あの中、立ち尽くす孤独、後悔、それから、
(けれど……終わってしまう)
それから……!
 クロウは強く目を閉じた。自分の腕が何かに牽かれるように上がった。けたたましい歓喜の声が再び脳裏を支配した。その中に微かに抗議する弱い声を聞いた気がした。クロウは黙れ、と念じた。必死だった。その声が気圧されて怯んだようにふっと黙り込んだ瞬間、クロウの腕が打ち下ろされた。




 騎士の胸からゆっくりとナイフを引き抜いて、グラッシアはそれを草むらへ投げ捨てた。クロウは騎士の腹部を貫いた剣を同じようにその体から抜いてやった。グラッシアが抱いていた騎士の体がずるりと滑り落ち、一面の泥に沈んでぴしゃりという音を一瞬立てた。
「私は……父上の名誉を損なう事だけは、出来ない……」
 この騎士が快復した後に真実をさえずるか、それを口実に楽に人生を生きる道を選ぶかは解らなかったがどちらにしろ、それはディディアール将軍とその一門の上に汚辱の泥を塗る。
 そうグラッシアは呟き、そして自分の言葉を否定するように首を激しく振った。
 若、とクロウは言った。グラッシアは黙って立ち上がり、じっと、二度と動かぬ躯を見下ろしている。クロウは同じく沈黙をしながら紅剣をその鞘に納めた。柄から手が離れると急速に冷めるような感覚と共に理性の凪が戻ってくるのだった。
 グラッシアが不意にクロウに向き直った。あの山を出てから彼がクロウに真正面から対するのは初めてのことであった。
 絡む視線がすがりついてくるようだった。免罪の言葉が欲しいのか、それともクロウが自分のせいですといってくれるのを待っているのか、もっと違うことなのか。
 雷光が一瞬視界を焼いた。暫くを置いて間遠に轟きが落ちた。それを待っていたように、グラッシアの呟きがした。
「……彼は、川を、渡った時に、致命傷を、負って……」
 言いかけてグラッシアはゆるく首を振った。言い聞かせる物語を自分で作ることを始めている。ただ、どうしてもその先を紡ぐことができないのだった。
 しっかり、とクロウは低く囁いた。
「これで良かったんです。彼の命は川を越える時に尽きているものだ……お父上の名誉を損なうことは出来ません故」
 グラッシアは頷かなかった。
 だが、否定もしなかった。
 クロウは目を細める。グラッシアの肩が小刻みに震えている。それが大きくぶれ始めたと気付いた瞬間、グラッシアが膝を折って座り込み、髪をかきむしるようにして身を縮めた。クロウはその脇へ膝をつき、グラッシアの肩を抱いた。咽び泣く声の湿り気があの日の雨に酷く、似ている。
 それはもう、10年も前の物語だった。




 雨に嫌気を覚えてふとため息を漏らすと、隣で同じように疲れて座り込んでいた彼が視線を向けてゆるく笑った。よせよ、と言われてクロウは同じく苦笑になって頷く。そう、ため息など吐いていても仕方がない。少しもそんなものは自分たちを救ってはくれない。
 それは諦観ではなく少年期の終りをようやく抜け出した年頃の虚勢だったかも知れないが、それでも繕うことが出来るだけ、遥かにましだった。そうあらねば、という自制がどれだけ青臭くて幼いかをクロウも彼も理解はしているが、何にすがってでもいい、とにかく生きつなぐことだった。
 諦めるな、現実の前に卑屈になるな。その言葉にクロウは内心を委ねて頷く。今は生きて帰ることだけを考えよう。
 すまない、とクロウはもう何度目かも分からない謝罪を口に乗せた。彼は首を振った。
 ――― お前が気にすることじゃないよ。だがそう言われる度にクロウは自分の失態を苦く思うしかない。後陣を任された部隊にいたのは不運だった。何とか戦場から離脱しようと混乱と死の恐怖で滅茶苦茶に走り回ったせいで、かえって敵陣に近い山野へと紛れ込んでしまった。それもこれも自分のせいだという自覚はある。彼はクロウと初陣の時から一緒にいる騎士志望だが、クロウの混乱に彼も巻き込まれた形で共に災厄を被ることとなってしまったのだ。
 クロウはそれでも必要以上に謝らなかった。彼を引き込んでしまった責任は、何かの時に必ず返す。その未来をつかむためにも今、ここで、野垂れ死ぬことはすまい。全ては安全を確保してからだ。
 クロウは震えながら膝を抱え直した。
 ……雨は鬱に降っていた。か細い銀の線は音もなく静かに天井と地上をつないでいる。低くたちこめた雨の正なる罪はこちらの気分を真実追い詰めることだとクロウは首を振った。煙り霞む視界とむせかえるような土の泥くさい臭いだけが世界を一瞬支配して静寂へ押し込めている。沈黙のまま流れる時間、ちらりと空を裂く雷光、だが音はしない。遠いのだ。
 今夜は月がなく、星もない。暗い闇を時折稲妻が照らすが、瞬きするほどの間、光なき世界に恩寵を与え給うには決定的に足りない。どこまでも続く暗黒の闇に、ただ雨が、降っているのだった。
 ようやく敵の目を逃れて国境の峠を越す頃、疲労は頂点を迎えようとしていた。クロウも、そして彼も殆ど口をきかない。じりじり追われる恐怖、近づいてくる足音への過敏な恐れ、そんなものが背中に張り付いていて、どうしても足は早くなった。
 口をきかないのはお互いが限界近い神経の高揚を覚えているせいだった。だがそれは良いものではなく、むしろ絶望と隣り合わせの闇雲な希望でもあった。不安と希望は現実の裏と表に張り付いている。緩急を胸の内側に繰り返しているのは面白い所作ではなかったが、黙って歩く以上、一人で思惑に沈むしかなかった。
 衝突は不意に訪れた。山を越える道が別れている。彼はゆるやかに降りていく道を選んでいくべきだと主張したが、クロウは更に山中へ踏み込んでいく方へ登ろうと言った。どんな根拠がお互いにあったのかは言い争ううちに何処かへ消えた。じとじと降る遣らずの雨に、二人の間にあった戦友という陶酔を含んだ感傷は流され、姿を失った。苛立ちをお互いに感じながらも殴り合うような気力もなく、ただ言葉を連ねる。きりきりした刺が次第にきつく、強くなっていって最後に彼の口から吐き出されたのは殆ど脅迫であった。
 わかった。わかった、もういい、クロウ。お前のいい方にしてやる。その替わり生きて帰れたらお前の失態のことも部隊長に報告するからな。
 瞬間、自分が青冷めたのを自覚して、クロウは震えた。それは騎士を目指して戦を勝ち上がりたいと考えている青年にとってはまさしく恐喝であった。彼もそれがわからないはずはなかった。彼もまた、クロウとも同じく騎士位へ叙されることを目標においているからだった。それは、とクロウは低く呻いた。脅迫に屈するのかと自分を苦く思った。だが、騎士になることは結果を出すということだ。剣の道で生きると豪語して家を出た手前、騎士になれない、などという事態は論外だ。
 あんなほんの些細な手違いで。
 わかった、と今度はクロウが言う番だった。済まなかった。一瞬遅れて付け足した言葉に、彼は微かに笑った。満足そうな笑みだと思った瞬間、今までの苛立ちと膝をおった不服がクロウの中の堤防を切った。  決断、というよりは見切る瞬間だった。
 やがて道のりを過ぎてどうやら味方の陣だと思われる明かりを山の中程から川の向こうに確認した時、彼は勝ち誇ったようにほら、と指した。それさえ気に入らなかった。
 お前と一緒で良かったよ、と彼はそんなことさえ言った。クロウはそれには答えなかった。もう決意を固めていて、それを動かすような事象は何も欲しくなかった。彼はこの逃避行の無様な始まり具合が自分にあると話すだろうか。いや、今話さなかったとしてもいずれそれを降りかざしてクロウに卑屈を要求するのは目に見えている。
 どうした、と彼は言った。振り返った彼は気楽に、そして気安げに笑っているのだった。あの瞬間の脅迫が嘘のように。だが、どちらが本当なのか。……善人が悪を装うには無理があるが、偽善ならば誰にでも出来る……
 もうすぐ国境だ、生きて帰るというのはいいね。お前も早く結婚しろよ、待ってくれる人がいるというのは本当にいいもんだ。彼が結婚して間もない事は知っている。だがそんなことさえその時は静かな怒りに変わった。彼は目を細めて笑っていた。
 その瞬間まで。いや、その時さえ、彼はクロウが自分に何をしたのかをわからないというように微笑んでいた。
 それは絶望ではなく、激しい憎しみでも怒りでもなかった。ただ一度しばたいた瞳があまりに無邪気な疑問に満ちていた。何が起こったのかを理解していない、死ぬ直前の獣の目だ。
 何故、と彼は呟いた。
 悲鳴でもなくどす黒い問いかけですらなかった。
 クロウはそれに答えなかった。彼のぽかんとした表情はひどく間が抜けており酷く苛立たしかった。
 彼の胸からずるりと剣を抜くとあっけなく崩れてクロウの足元へと体が転がった。その体がぴしゃりと泥を跳ねあげた小さな音が雨に混じって耳に届いた瞬間、クロウははっとして思わず後ずさった。彼はもう、動かなかった。
 俺は、裏切った….のか。彼を。あの瞬間何の警戒もなくクロウに背を向けていた彼を。無抵抗というよりは信じられないというような顔だった。
 クロウは急激に上がってきた怖気に自分を抱いた。この彼の遺体をどうしよう。何と言い訳しよう。うろたえながら味方の陣の明かりを見つめていたとき、その回答は真実魔物に取り入れられたようにはっきりと脳裏に浮かんだのだった。
 彼は残党狩りの手にかかった。逃げ出したが手前で力尽きた。陣が見えていたのでせめて遺体だけでもと思い、そのまま連れて帰陣した。そのクロウの物語を疑う者はいなかった。
 彼の葬式には出なかった。彼の残した妻は主人を看取ってくれた方に是非と言ったが、そんな気分にはならなかった。
 クロウはそれを断り、しばらくの日をおいてからま新しい彼の墓へと訪れた。墓地には誰もいなかった。
 雨が降っている。凍えたように小刻みに震えている。立ち尽くした大地、穿たれた杭のようにただ一人だ。
 目を閉じよ。
 内部神経が雨のように優しく唄っている。
 深く―― 深く、目を閉じよ。呼吸を止めよ。
 従わなくては生きて行けない。そうしろと囁く声は甘たるいぬくみに満ちている。
 目を閉じ、呼吸を止め、視界を閉ざして息を殺せ。そうすれば見なくて済む。直視しないで済む。全てを、世界を、人の世の争いも、醜い自分自身も、裏切りだけの人生でも、足元へ横たわる、意志を以って見つめて返してきた眼差しの虚ろさも。
 全て、忘れることができる。
 けれど、それも一瞬だけの所作だった。追いかけてくる残像を振り切ることは、完全には出来なかった。雨の音が耳を叩く度に彼のぽかんとした言葉が甦る。
 何故。
 そして、それに答える明確な理由を、クロウは何も持ってはいないのだった。