遣らずの雨9

 クロウは剣を横へ置き、片膝をついて頭を垂れた。太い声がクロウ=カイエン、と彼の名を呼んだ。一段と低く伏したクロウの頭上でその声が淡々と続けた。
「本日を以ってディディアール家騎士団副長として改めて召し抱える。待遇については追って沙汰する。帝国上級騎士位の推薦を与える」
「有り難きご配慮の数々、肝に命じます。非才の身ながら一層の献身を閣下とディディアール家の名誉の為に捧げる覚悟にございます」
 クロウは答えて顔をあげた。前に立つ男の、老年にさしかかった年齢が作る皮膚のしわが窓を背にした逆光で更に深い亀裂に見えた。閣下、とクロウは言った。将軍はゆるやかに首を振った。クロウの言葉を拒否するのではなく、それは将軍自身の疲労の為だった。
 いや、と将軍は軽く手を挙げて続けた。
「そなたの働きには満足している。……あれのことを、宜しく頼む……正直どう扱ってよいのか、分からぬよ……」
 クロウは黙ってまた深く沈頭した。
 グラッシアはあの脱出行以来、具合が良くない。最初の十日ほどは将軍もじめじめと戦場を支配した雨にやられたのかとさほど重大視していなかったが、それがもう一月半を越した。
 いや、それが文字どおり寝台の住人であるならいいのだろう。グラッシアは殆ど他人をよせつけず、苛々の空気を噛み殺しながら一人の世界へ篭るようになっている。人が変わったようだと屋敷の誰もが言った。理由を知っているかと聞かれてクロウは色々なことがございましたからと最低限のことしか答えなかったが、それでも将軍は理由に見えるものを共有しているクロウを愛息の側につけることを決断した。
 クロウはグラッシアを守り戦場を離脱してきた功績によって昇格を得た。グラッシアの命を救った報奨ではなく、むしろ息子の未来を支えて欲しいとの将軍の親としての祈りなのだった。
 頼む、と再び将軍はつぶやいた。それに頷きながら、クロウは窓の外の、よく晴れた紺碧の空を見上げる。季節が移れば、空の色は鮮やかに変わる。
 だが、グラッシアの胸の中にはその美しい青はない。じめつく雨が、未だに降り続いている。




 やあ、とクロウを見て薄い微笑みを浮かべたグラッシアは確かに良くなかった。極端に痩せているし、第一、そげた頬にまつわる陰の色が酷く重い。眼光も強くはないがぞっとするほど深い闇が降りている感触があった。クロウはその顔を一瞬直視出来ずに下を向いた。これならまだ、最初に山中の洞窟へ逃げ込んだ時の青い顔の方がましだ。
 グラッシアは窓の側におかれた豪華な寝台の上で起き上がってぼんやりしていたようだった。
 父上からきいたよ、とグラッシアはクロウを見ずに窓の外を見ながら言った。クロウは頷き、お加減はいかがです、と聞いた。
 グラッシアはうっすらと笑い、そして沈黙した。笑みは限りなく暗い自嘲に似ていた。クロウは若、と出来るだけ優しい口調で言った。グラッシアは曖昧に頷いたがその瞳にあるのは未だに沈痛というにもえぐれた傷であった。
 若、とクロウはもう一度同じような声を出した。
「……あの事は、もうお気になさらないで。あれはあれで正しかった。若ができなければ私が致しました」
 グラッシアは小さく頷く。納得などしていないのはその表情でも明らかだった。それでも肯定したのはグラッシア本人が、そう思い込みたいからだ。クロウ、と微かに震える声が呼んだ。
「私は……彼の事を、裏切ったのか」
 一瞬クロウは答える言葉を持たない。グラッシアは暫く沈黙を守っていたが、やがてゆるく首を振った。
「彼が……何故と言う、夢を、見る、クロウ……何故と、そう聞くんだ……けれど一番辛いのはそれが素直な疑問でも私が裏切ったことへの憎悪でもないことだ……」
 グラッシアの声は限界に低く、掠れている。クロウはあの雨の中で身を折って泣いていた彼の、後悔の時間の長さをじっと思い返している。裏切りは卑怯だと解っている。それが戦略のことであるなら心は痛まないが、一番胸を斬りつけてくるのは他人の無邪気な信頼を償いようのない形でつき放した時でないか。
 グラッシアの痛みは良くわかる。完全な理解というには遠いが共感ならできる。それは似たような過去を殺して生きてきたクロウだけの痛覚だ。
 何故、と聞かれて一番辛いのは?
 それは、自分自身にもその衝動の泉がどこにあったのかを分からない時? それとも、自身に理由に見えるものがなかった時? それとも……理由に見える尤もらしいものが全て言い訳でしかないと分かっている時?
(違う……)
 その答は全て間違っている。
 一番辛いのは、その言い訳を繰り返して自分に擦り込みながらやがてそれを事実のように自分に擬態させることが出来た時。生き汚い自分を許してやりたくて、何故というその疑問にすらすらと答を用意できた、その瞬間。
 クロウは深い呼吸をして、若、と言い、グラッシアの返答を待たずに誰にも話さずにきた過去の封印を、自分の言葉でゆるやかに解いていった。




 のどかな午後だった。風を入れる為に細く開けた窓の隙間から流れてくる空気が暖かな熱をはらんでいる。クロウは自分の話を終えて唇を閉じた。グラッシアは黙っている。クロウもまた、話すべきことは無くして沈黙している。
 黙ったままの昼下がりを、蜜蜂が仲間を呼ぶ羽音が音楽のように流していく。窓から見下ろす庭園の夏薔薇、真紅の大輪。目に鮮やかで濃い芝生の緑。けれどその美しい光景は目を閉じた途端に消え去って、あの暗い濃紫色の空を裂く雷光と細く降る銀の雨が支配を始める。それは自分の心にある限り消えない。目を閉じると囁きはじめる。
 罪人よ。
 お前の犯した罪に真実罰を与えるならば、それはお前の心だと。
 不意に自分の名が呼ばれた。グラッシアがゆっくり顔をあげてクロウへ視線を与えた。浮いている色味にクロウははっとする。それは確かに同情を帯びた哀れみだったからだ。
「お前は……可哀相な男だね……」
 何を哀れまれているのか理解してクロウは顔を歪めた。グラッシアは自分との共通の事実を介在させてクロウに共感を寄せたのではなかった。自分の中に裏切りを飼い続け、正当化することでしか生きられなかったことに同情し、グラッシアに共感を訴えたこと、その痛みをなめ合う相手を持たなかったことを哀れんでいる。
 クロウはきつく目を閉じた。
「しかし、私はそうすることでしか生き残れなかった。あなたがお父上の名誉を遵守されたように」
「そう……だね。お前と私はとても似たことを知っているんだとは思うよ。だが、クロウ」
 グラッシアはクロウから顔を背けて口元を押さえた。蜜蜂の歌う平穏が、幽かな嗚咽にかき消された。
「私は、忘れられない。どうしても……どうしても、忘れることなど出来ない。私は、お前と違う……」
 この瞬間、お前は汚いと烙印を押していることにグラッシアは気付いていない。だがクロウにはその方がこたえた。胸がつまる。一度は記憶を都合よく塗りかえた過去の罪が降り注ぐ雨の冷たさに肌に甦ってくる。
 クロウはあの降り止まぬ雨の底冷えを体温で思い返してぶるりと一つ震えた。グラッシアが毛布を握り締めていた手を額にやった。痩せ極まった両手で顔を覆い、グラッシアは呟いた。
「だが、彼の体が落ちた時、泥跳ねの音がしたろう? それが、耳の奥にこびりついて取れない、クロウ……どうしたらいい、一体どうしたら? 雨音や水音がずっと……耳から消えないんだ。どうしたらいい、クロウ、教えておくれ……私は、まだ、あの雨の中にいるような気がしてならないんだ……」
 クロウには、やはり返答が出来なかった。黙っているとグラッシアはいいよ、と首を振った。
「私とお前は違うんだ。そういうことなんだな……」
 クロウはグラッシアの目に浮いた虚ろな闇と、その中に降る、その場を永久に去らないだろう遣らずの雨を見た。天候は神のものだ。誰にもどうにも出来ない。この瞬間、クロウはグラッシアの天運が雨の戦場に置き捨てられたことを肌で理解した。
 グラッシア=ディディアールが精神失調から食事を取れなくなり死に至ったのは、ここから2ヶ月ほど先の事である。









 雨が降っている。どこまでも続く死体の道の先に一人、男が見事な紅剣を杖のようにして体を支えようともがいているが既に右足はちぎれて無く、腹からも赤黒いものがはみ出している。それさえ引きずりながら男は低い喘ぎとも呼吸とも、それともうわごとともつかぬものを呟き続けている。駆け寄ってきた騎士が覚悟、と叫んで剣を降り下ろした。
 騎士はその一撃がどうやら致命傷になることを確信し、男の側に膝をついた。
 形見を、と言うと男は濁った視線を騎士に向けた。
「剣を……」
 掠れ声が最期の望みを絞りだした。
「剣を、捨てて……」
剣を、と騎士は彼が握り締めている紅剣をみる。刃身の鮮やかな形といい、鞘の精緻な細工といい、捨ててしまうにはあまりに惜しい剣ではあった。
 だが望みである以上は仕方がない。騎士は若干のもの惜しさを押し込んでわかったと頷いた。男は安堵したようにふと表情をゆるめてまっすぐに死へと進んで目を閉じた。
 騎士は死んだ男の手から剣をもぎ取ってほんの少し、未練に見た。良い剣だった。捨てるのには惜しいが、騎士の誓いは末期であれば神聖だと思うほどに彼はまだ若かった。
 騎士は剣を思いきり草むら遠くへ投げ捨て、それまで自分たちを散々苦しめた「狂騎士」クロウ=カイエンの首をかき落とすとその戦功を誇るために自陣へ向けて歩き始めた。



《紅剣物語 遣らずの雨 了》



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