序章・流転1

 彼には最初から父親がいなかった。
 彼はそれを多少寂しく思ったり、お父さんが欲しいなどと他愛のないことも考えたりしていたが、本心のところ、切実に父親たる存在が欲しいかどうかは分からなかった。
  誰かの家に行くと、夕方になれば帰ってくる父がいる。単純に他人と比べて足らないものが欲しかっただけなのかも知れない。
(お父さんが、欲しいよう)
 勇気を絞り起こして彼が言うと、母親はひっそり笑った。
(愛しているわ、私の可愛い子……)
 母の顔を見た時、多分父に関する事柄全ては口にしてはいけないのだと彼は知った。
 現実彼には母親しかいなかったし、母は彼を育てていくことで必死であったから、そのことも心に掛かっていたのだろう。
 生活はまるきり平穏とはいえなかった。母は時折、何かに追い立てられるように、全てを放擲して彼の手を引き、住む町を変えた。
 どこかに向かっているということではなく、それはまるで出鱈目な転居の軌跡であった。
 だが生活がそれほど苦しくなかったのは、母が隠し持っていた幾つかの宝石と、母自身の手から紡がれる美麗な模様の功績といえた。
 糸細工と呼ばれている手刺しの美しい刺繍の技術を身につけている者は珍しく、母の織りなす綾はよい値段で金に換わった。
 裕福というわけにはいかないが、不足はなかった。
 ――それは彼にしてみれば唐突に始まった物語であった。
 それを彼は、5才になったばかりの冬だと記憶している。突然の転居の数は多すぎて、それに対する感覚は完全に麻痺していたといってもいい。
 その晩彼が夜中にふと目を醒ましたのは、偶然という天の好意だったのかも知れなかった。
 隣室から押し殺した声がする。その声に籠もった緊張感に、彼は母親の異変を感じて寝台を滑り降りた。
「帰って下さい」
 寝室の扉のすぐ外で、母の声がする。
 彼は出ていこうか否かを迷って一瞬立ちつくした。子供ながらに刷り込まれてきたことは足かせになる。
(髪を染めていないときは、絶対に外に出ては駄目よ)
 彼の髪は瑠璃石のような、純粋で鮮やかな青をしていた。
 母はそれを隠蔽した。髪はいつでも黒に染められて、少しでも青い色が覗くときは、決して外へ出しては貰えなかった。
 彼がそれを押して外へ行きたいと泣いてだだをこねる日は、寝室に閉じこめまで母は彼を外に出さなかった。
 そのために寝室には外側からかかる鍵が取り付けられていた。
 母の頑なさを不思議に思っても、彼は何故かを聞いたりはしなかった。彼は年齢に似合わず聡い部分があった。
 髪をどうしよう、と彼は自分の肩の辺りで揃えた部分に触れながら考え込む。
 今夜は風呂を使ったから、染め粉は全部落ちてしまっている。
 明日の朝にまた染め直すことになるはずだったが、今は地毛の青い髪そのものだ。 外に出ては駄目、というのは他人に姿を見せてはいけないという言葉そのものだったし、彼はそれくらいなら理解していた。
 それに、どうやら自分が無戸籍児であることも。
 年齢の同じ子供たちは昼間学校へ行っている。満で5才になれば誰でも迎え入れてくれる公立学校から、彼は招かれていない。書類がないのだ。
 無戸籍の子供はそうした国からの保養一切合切を受け取る権利がない。
 何もかもは戸籍証明と引き替えで、彼にはそれがなかった。
 だから、彼は自分がどうやらこの国の制度から浮いた存在であると感じていたし、髪のこともその一部なのだと考えていた。
「あの子は、私の子です……」
 母の声が、一層低くなる。扉の向こうで誰かが吐息で笑った気配がした。
「あの子は私の子です、私の大切な子なんです、お願い、許して……」
 お母さん。彼は呟く。
 これほど切羽詰まった母の声音を聞くのは初めてだった。
 どうしようか逡巡のままに立ちつくしていると、突然扉が開いた。薄い闇に慣れた目には光は強烈で、思わず彼は手で眩しさを遮る。
 かすれた吐息がした。
「これは……」
 知らない男の声で、まだ光に馴染まない目を懸命に眇めて彼は自分の前に立つ影を見上げる。
 目があったような気がした瞬間、影はふっと下へ沈んだ。
 それが自分に膝をついているのだと分かるまで、ほんの少しの時間が必要だった。
「カース様でいらっしゃいますね? ああ、本当によく似ておられる……」
 彼は後じさる。明らかに自分に向けた言葉であっても、その名には聞き覚えがなかったからだ。
 困惑して母を見ると、そこにあったのは淡く歪んだ表情だった。
 お母さん、とそちらへ行こうとすると、男がその身体で遮った。
「いけません。あれのことは、マリアとお呼びになりますよう」
 彼は明らかに蒼白となった母を見、そして男を見た。
 多少の時間を混乱に過ごし、彼はやや俯く。考え込むような顔になってしまった彼に気遣ったのか、男が再び、彼を聞いたことのない名で呼んだ。
 彼はぴくりと聡明な額を上げた。
 まっすぐに向かう視線のしなやかさに、男は僅かに居心地悪く背を正した。あるいは、怯んだとも言えた。
「どうして?」
 彼は男を見つめながら言った。男は何度も頷いて見せた。
「それが身分というものであるからです。あれのことは、母とお呼びになりませんよう。母君が悲しまれます」
 言葉の意味が彼にはよく分からなかった。黙っていると、男は練れた笑みを浮かべた。
 その表情に浮かんでいる優しさだけを鵜呑みにするのが危険だという、本能のようなものが、彼の内側で叫び始める。
 駄目だ。彼は見切る。
 こいつを信じては、いけない。
「お探しいたしました。どうか、非才と共に帝都へご帰還を。お父上も、兄君も弟君も、カース様のお姿を見る日を心待ちにしておりますよ」
 信じてはいけない、といい聞かせていた彼にとっても、父、そして兄弟という言葉は十分に不意打ちだった。
「――いるの……?」
 思わず呟いた言葉に、彼は自分で驚愕していた。
 父。兄。弟。
 この母以外に自分に連なる者がいたということが、処理できなくて混乱している。駄目、と彼は首を振る。
 男の口調からは甘く誘う、そんな執拗さが感じられた。
 例えば甘いものをくれるとか、高価なものを買って上げるとか、そんな囁きに負けて暗い路地へ消えていった子供の話を彼は母から執拗に聞かされていた。
 母は半ば神経質ともいえるしつこさで、彼にそれを刷り込んだのだ。
 知っている人からでも、声をかけられてついていっては駄目よ。
 どんなにいい話でも、お母さんに話してくれなくては駄目。いいわね、約束できるわね?
 何を言っても、絶対に、ついていっては駄目よ……
 そう、多分今考えなくてはいけないのは、この言葉の方だ。
 彼は鼓動が上擦ってきた胸を押さえる。目を逸らさなくてはと思う傍らから、男の囁いた単語がぐるぐると脳裏を回った。
 父? 兄? 弟?
 ――それは一体、何の話なのだろう?
 男の言葉は更にそれをあおるものであった。
「ええ、勿論。皆様お元気ですとも」
 更に男が何かをいおうとするのを、彼は片手を上げて遮った。
 待って、というと男は穏やかに黙り込んだ。
「僕は、お父さんに会えるのかな?」
 男は破顔する。これはまさしく、歓喜の顔であった。
 彼は思う、後10年経ってこの笑顔を見ればきっと自分はこう名付けただろう――舌なめずり。
 このときの彼はそれを表現する言葉を知らなかったが、男の見せようとしない部分が酷く混濁した闇であることを、肌に感じていた。
 だから殊更笑って見せた。彼の顔立ちは同年代の子供たち、更にいうなら少女たちの中に混じってさえ、輝くように美しく、くっきりと整っていた。
 それまで満面の笑顔を向けて彼への矛先をゆるめなかったのは、母だけだったのだ。
 案の定、男は呆気にとられたような顔をした。僅かに頬に血の気が上がってくる。
 彼の笑みは、長じて大人と呼ばれる年齢に入った後でも万人を動かす最大の魅惑であった。
「僕……お父さんに会いたい」
 彼はそう絞り出した。声が若干震えていたのを、子供なりの幼い惑乱のせいだと思った男が、満面の笑みで頷く。
 視界の隅で母が両手で顔を覆ったのが見えた。
 男が自分を抱き上げる。母の脇をすり抜けて外へ出ようとした時、彼は待って、と言った。
「リーリーを連れて行かなきゃ。僕がいてやらないと、あいつ、眠れないんだ」
「リーリー?」
「猫だよ。黒いの」 
 男は軽く頷き、彼を一端腕から下ろして奥の寝室へ入っていく。
 その姿が寝室の闇に紛れた瞬間、彼は母親を見上げてお母さん、と囁いた。
 その一言で母の目つきに炎がともったように見えた。険しく真剣な母の顔を見るのは初めてで、彼は多少それに感嘆を覚える。
 半ば表情は怒りに似ており、それが自分を連れていこうとした事実に対するものであることを、彼は感覚で読みとっていた。
 母は素早く部屋を横切り、寝室の扉を閉めた。外側から鍵を回す。
 彼に謹慎を矯正するためにつけられていた鍵だから、内側からでは開かないようになっている。それまで散々嫌な思いをさせられてきた外鍵に助けられて彼は少し口元を歪めた。
 寝室の扉は激しく叩かれて、中から何かを吠えている男の声がする。
 意味はよく分からなかったが、籠もる声音が良くない種類であることが感じ取れれば十分といえた。
 母はぼんやりなどしていなかった。彼に沢山の服を着せて髪をスカーフで捲いて中に完全に押し込み、自分もまた最低限の荷物を作った。
 この街を出ていくのだと彼は悟った。今までも、こんな事はたくさんあった。
 だから、彼はそれには驚かない。母がいつものように宝石と現金を小さな鞄に押し込むのも、自分の手を引いて足早に階段を駆け下りるのも、いつものことだ。
 外に出ると、きんと冷えた夜だった。下には男が乗ってきたらしい馬が繋がれている。
 母は手綱を解くと鞄で思い切り馬の尻を叩いた。驚いた馬が一声いなないて、街のどこかへ野放図にかけ去っていく。
 それを終えると母は家から離れた場所で辻馬車を拾った。
 夜明けの船という単語が聞こえたから、少し離れた河岸の街からは乗船するようだった。
 大河ユーエリを下る船は3日に1便、乗り込んでしまえば取りあえずは追っ手を振りきることが出来る。
  御者が急ぎだねと暗に小金を要求してきたから、それも母の思惑の範疇であった。
 ただ、彼がこの辺りの事情を理解したのはもう少し先のことだ。この時、彼は馬車の窓から遠くなる街を眺めてこみ上げてくる涙をこらえるので精一杯だった。
 リーリー。僕の黒猫。
 それはあまり外に出して貰えず、転居が多く、学校へ行けなかった彼の唯一の話し相手であり、友達であったぬいぐるみに彼が与えた名前だった。
 それを置いて行かなくてはならなかった悲しみが、彼の全てだった。
 街の明かりが闇に消えて、彼は窓から離れた。
 諦めなくてはいけないことが、それまでも沢山あった。置いて行くしかなかった友達のことも、きっとその中の一つになってしまった。
 彼が黙って俯いていると、母が自分を抱き寄せたのが分かった。
 豊かな胸に顔を寄せて啜り泣いていると、ごめんね、という声が聞こえた。
 彼は首を振り、そしてお母さん、と泣きくれた後特有のかすれた声で言った。
「お父さんとか、お兄ちゃんとかって、なんのこと……?」
 母はじっと彼を見つめた。
 ……長い、長い時間が流れた。
「……ごめんね、今はまだ、あなたは知るべきじゃないのよ。でも、15才になったらね。そうしたら教えてあげる。だから、それまではいい子にして、お母さんの言うことを聞いて頂戴」
 彼はもっと何かを聞きたいのをこらえて頷く。
 母の身体が小刻みに震えているのに気付いたからだ。馬車の中は温められていて寒くはなかった。
「でも、覚えておいて。お前の母親は私よ。私一人よ。お前は私の子よ、私の子なのよ……」
 母の声音には反駁を許さないような逼迫があり、彼はそれに頷くしかできなかった。
 そうだよね、と囁くと、母が彼の小さな身体をきつく抱きしめた。
 その腕がまだ痙攣するようにぶれていること、私の子なのよとひたすら繰り返す細い声、その2つが延々と彼の周囲を取り巻いていった。
 それはもう、8年も前の物語。
 彼が初めて、失うことを悲しんだ夜。