序章・流転3

 やがて2年が経過した。戸籍の上で彼はその初夏に10才になり、秋になった頃に真実その年齢に達した。
 彼は天才を通り越して神童という称号を得ており、彼は一層厚みを増した庇護の情と取り巻きに囲まれて幸福であった。
 不足が無いという意味に置いては。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 全ては彼の思うままに進んでいた。
 成績は危なげなく学年主席を通し、運動系と魔導の実践科目の替わりに魔導理論の研究をと促されて書いた論文が賞を取る。
 実績を積み上げればますます周囲は彼を丁重に扱い、更に高度な課題が現れ、それを片づけ、更に前へ先へと進まされた。
 6年の年限分の履修科目の内の中級までを取り終えて上級課程に混じると、そこは彼よりも7、8才は年上の連中が殆どだった。そこでも同じように彼は神童たり続けた。
 彼の足下をすくおうとしたり、意味のない嫉妬の視線をぶつけられるのも最初のうちだけで、彼が微笑むと日向の氷のように、それはぬるく溶けていった。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 魔導と次元換算は既に履修する科目が残っていないことを理由に特例として高等学院の講義の聴講が許された。行ってみれば更に年齢の離れた青年期の学生ばかりだった。彼はその学生たちと対等に講義の内容を検討することが出来た。
 青年たちはまず最初呆気にとられ、感嘆と僅かな奇異の混じった目で彼を見、そして年齢を尋ねて一様に複雑な顔をした。彼は、そこに学ぶ彼らの半分も生きていなかったのだ。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 大人たちはこぞって絶賛した。賞賛と特例が彼に夕立のように降った。
 特賞金、奨学金、奨励金、論文の賞金。降り積もる金と記念品と賞と名誉。中等学院長の自慢げな笑み。
 級友たちは揃って崇拝した。思慕と渇仰が夕立のように降った。手紙、贈り物、花束。降り積もる憧憬の証。彼と近しくしようとする者たちの、奇妙なほど、媚びを含んだ笑み。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 嫉妬ややっかみもまた存在したが、それを排除するほどの分厚い庇護がいつでも与えられた。中等学院では彼は既に絶対存在であり、高等学院では保護対象者であった。悪意はそれらの濃厚な取り巻きで遮られ、彼を直接傷つけなかった。
 彼を包む大人たちも子供たちも、彼の周囲に群がっては彼の美貌と叡智を賞賛した。
 全ては上手く回っていた。
 誰も彼を傷つけなかった。
 誰からも特別に愛された。
 辛い事など何もなかった。
 ――なんて、馬鹿馬鹿しい!
 彼はいつも穏やかな笑みを絶やさないでいる内に、その形に凍えてしまったような頬を思い切り不機嫌に歪める。自分がまだ、他の表情が出来るのを確かめるように。
 苛立ちのままに唇を軽く噛むと、血の味がする。級友たちが見たこともないほど険しい表情で俯いたまま、彼は足早にタリアと呼ばれている一角へ入っていくのが最近になりつつあった。
 貴族の子弟が中等学院の生徒には多い。級友たちはそもそも、タリアのかなり手前の、下町と呼ばれている辺りから先は貧民窟だと思っているらしい。見咎められる可能性はなかったし、この街の外郭をぐるりと回ると家に戻るための近道にもなった。
 タリアは色町であると同時に、この国の闇の部分を引き受ける者たちの巣でもあった。表通りは妓楼、飲み屋、連れ出し用の貸し部屋などが並び、裏通りには非合法のものを含めて何でも揃う闇の市場がある。金さえ積めば自分の楽しみのために他人を殺めることも出来る。猥雑でどこか危うい空気は、日暮れが近くなると一層強まった。
 通りに並ぶ妓楼に一斉に火が入ると、妓楼の目印である朱色が照らされて、落日よりも尚赤く染まった。大通りを歩いているだけで、彼を娼婦だと思ったのか声をかけてくる男たちは数え切れないほどいた。じろりと睨むと彼らは怯んだが、そんな反応でさえ面白かった。
 学院の大人しい羊の群たちに囲まれて、壊れ物のように大切に扱われて、それでも足りない、満たされないものがどこかにある。
 優しい人々。愛情に満たされた日々。
 そこへ美しく自分をはめ込むことだけに執心した。他人の目にどう映っているのかだけに腐心した。彼はひたすら可憐で聡明な少女を演じることだけを考え、――そして多分、考えすぎたのだ。
 この街に身を置くとほっとするのは何故だろう。美しくも清潔でもなく、安全でもなく、平穏でもない街にいて、気の抜けるほど楽なのは何故。
 それを思うと彼はひどく悲しく、そして自棄ばちな気分になった。繕った表面などよりも、遙かにタリアの方が自分に近い気がした。内面に巣くう魂は、享楽と隣り合わせの地獄との微妙な均衡を感じて高鳴る。彼はこの街の徘徊によって、自分の中にある、飢えるものを満たしたかった。
 それはあるいは無防備とも言って良かった。彼はそれでも慎重にタリアの奥には近寄らず、安全ともいえる大通りの周辺ばかりをうろついていたが、背後から軽くぶつかってきた少年が彼の鞄を持って逃げたことで、かあっとなったのは事実であった。
 鞄の中には身分証明書やら財布やら本やらの、大切ではないが失うと困るものが入っている。……ただのスリかと思ったのだ。
 彼は全力で少年を追いかける。運動能力の差異が明らかになる前にと母は中等学院へ運動科目の見学を承知させていたが、中身は少年だった。普通の少女より、余程足は速い。
 路地を回ったところで少年に追いつき、鞄を掴む。返せと言う替わりに強く鞄を取り上げようとすると、そちらも渾身で引きかえしてきた。この、と彼は膝で回し蹴りを食らわそうとした。
 何が起こったのか、一瞬理解できなかった。相手の身体に当たるはずだった足が見事に空中を蹴ったのと同時に、ふわっと身体が浮いた。
 次の瞬間、まともに後頭部を打ち付けて彼は喉で呻いた。周囲でせわしなく、囁いている言葉がある。
 美人だぜ。処女かな。売り物だろ。遊ぼうぜ。金に……女の……薬が……
 それらが目眩と混沌の中でぐるぐる回っている。小さな羽虫のようでうるさい……
 僅かな時間、彼は意識を閉ざしていた。
 気付いたのは、なま暖かい吐息が、頬にかかったからだ。 悲鳴は喉で凍ったが、それは習性だったかもしれない。
 制服の上着は前がはだけられ、引き出されたブラウスの下から手が潜り込んでいる。自分に被さろうとしていた少年の肩を思い切り突き飛ばして立ち上がると、酷い目眩がした。
 よろめいた彼の制服の襟が捕まれて、乱暴に後ろへ引き倒される。
 一瞬目の前が暗くなるほどの恐怖を感じ、そしてそれはすぐに怒りに替わった。彼は自分の意志を通すことに慣れており、それを無視されることは屈辱的な出来事といえた。
 身をよじり、彼らの手をすり抜けて壁際へ立つ。
 ――全員、焼き殺してやる。
 魔導は彼の得意だった。それほど長い詠唱がいるわけでもない炎の誕生を促す呪文を口にしようとして、彼ははたと止まる。
 口をきいてもいいだろうか。
 炎の誕生自体は難しい呪文構成をしていない。最初の義務教育の際に、魔導の例示として教えるくらいだ。攻撃をするための手段としては他に沢山の稼働が必要になるから上級となって構成も緻密になって行くが、炎を呼ぶことは難しくはない。
 だが、一辺に多人数を相手にすることは難しい。
 自分が話せることをこの連中に教えていいのだろうか。
 それは一瞬の躊躇であり、十分な間であった。上着の袖が掴まれる。乱暴にふりほどこうとすると、更に乱暴に引き倒された。袖がちぎれた音がした。
 彼はそれでも必死でもがく。万一のことを恐れて言葉は喉の奥に引き込んだまま、遂に出そうになかった。
 何とかしなきゃ。家へ帰らなきゃ。
 それだけが脳裏を渦巻いている。
 自分の呼吸が大分上がってくるまでさほどかからなかった。元々彼は、母親が言ったとおりに虚弱な部分があった。体力もない。動きが止まったときが、全部が終わるときだという思いが彼をひたすら突き動かしていたが、じりじりと身体から力が失われていくのは分かった。
 空気がふと変わったのは、そんなときだった。自分を押さえつける少年たちが一斉に沈静した。何か話し声がする。
 それに耳を傾けるほどの余裕はなく、転がったままで体力を少しでも回復させるために何度も深く呼吸をする。
 そうしていると、誰かが自分の頬を掴んで強引に正面を向かせた。意地でも顔を見てやるものかと彼は目を伏せる。煙草の匂いがするから男だろう。
 なるほど、というかすれた声は、男が自分の美しさに興味を持った証拠のような韻であった。
 彼はあざ笑ってやろうかと目を上げる。非難というなら罵倒でぶつけてやりたいし、他人を連れ込んで強姦するような連中に掛けてやる情けもなかった。どれだけの者かを試すように、彼は目の前の男を睨んだ。
 彼の前にいたのは、顔立ちの整った、だがひどく陰気な空気をちらつかせる男だった。年齢は分からないが、二十歳には届いていないだろう。
 男の言葉を僅かな仕種を、この場の少年たちが息を潜めて見守っている。これが「頭」なのだと理解したのは早かった。存在感が確かに違うのだ。
 手はつけるな、と男が言い置いて出ていこうとする。歓声があがり、自分を押さえていた手が再び肌に潜り込んでこようとする。
 彼は身体をよじってうつぶせた。スカートの中に入った手が、違和感にぴたりと止まった。
 あ、というぽかんとした声がした。彼は思い切り足を跳ね上げた。少年の横面を強かに撲った感触がして、一瞬手が動く。
 彼を脅すつもりだったのか抜き身になったままのナイフが、置き捨てられている。素早くそれを拾って、「頭」の方へ突進した。
 男は自分の所作に僅かに後ろへ下がった。彼は男の喉へナイフを押しつけながらその背に素早く回る。勝った、と思った。これで自分が優位に立てるのだといく確信が、次第に誇らしく上がってくる。
 鞄と上着をよこすように彼は言った。正体が知れてしまえば後は失うものなど無かったのだ。
 だが彼の優位は長く続かなかった。男は落ち着いていた。命の危機などまるで感じていなかったのだろう。男の背中越しに簡単に投げ落とされたのは、実戦の経験の違いでもあったし、そもそも持っている力量の、明らかに広大な差でもあった。
 男は少年たちのように彼を襲いはしなかった。子供には興味がないという顔をしている。
 あしらわれたのは悔しいが、この男に頼む以外にこの少年窟から帰還できる方策を、彼は思いつかなかった。別部屋へ隔離された彼の様子を見に顔を出した男に、彼は言った。
「俺を家へ帰してくれ」
 口にすると、失笑と言うべき表情を男が浮かべた。
 それは当然だった。彼をどうするかはこの男の胸一つだが、逃げないようにと肌を傷つけない帯で縛られ、丁寧に扱うところを見ると、自分はどうやら誰かの愛玩物に売られるらしい。それくらいは想像が出来た。彼は自分の顔立ちに絶対の自信を持っていたし、そうした陰惨な話ならタリアの中で幾らでも耳にすることが出来たのだ。
 そんなことをちらつかせると、男は沈黙へ戻った。男は口数が少なく、黙りこくると頑として全てを受け付けないような空気を放っていた。
 どうやら男から何かを聞き出すことは出来ないようだった。雑談のふりで言葉を振りまいてみても、ぶつりと途中で途切れてしまう。多少の知識と知恵を総動員して取引をしようという思惑はどうやら使えそうにない。
 適当なことを喋りながらそんなことを思っていると、男が不意に言った。
「思いついたことをべらべら喋るうちは、お前もまだ子供だということだ」
 彼は一瞬言葉を失う。怒りなのか悔しさなのか、こみ上げてくるもので口がきけない。
「俺がさっきの言葉に食いついてきたら、適当に翻弄して取り引きして自由にしてもらおうと思っていたな」
 これはまさしく図星というものであった。男は何故か不機嫌だった。家に帰りたいか、とからかわれる。彼は頷く。それだけが今の望みであり、その為には何を差し出しても良いような気にもなっていた。
 暫くは雑談のような、微妙な会話になった。何故男がそれで自分を解放する気になってくれたのか、正直なところ、彼には分からなかった。
 本当に良いのかと聞き返して藪蛇になるのもおかしな話であるため素直に好意に甘えることにしたが、それが何故であったのか、彼には今でも分からない。
 だが、男のくれた通行証代わりの細刃刀は役に立った。男は徒党を組む少年たちの上にいる立場のようで、男の名と、細刃刀をちらつかせればどんな少年たちでも怯んだのだ。
 彼は殆ど毎日のように、タリアの間奥、深淵に近い路地へ足を向けた。男の周辺には彼と同じくらいの年の少年もおり、彼とは妙に気があった。お互いに言葉数が多く、よく喋り、よく笑うたちであったのが良かったらしい。
一度自分が男であることが知れてしまった以上、ここで口をきかないで微笑むことは無意味であり、彼にとっては愚劣ともいえた。
 学院を出てから家に戻るまでのほんの短い間、チェインと呼ばれている少年たちの巣窟にいる時間だけ、彼は思うままに言葉をふるい、悪態をつき、大声を上げて笑っては下らない話に熱中した。
 楽しかった。本当に、楽しかった。
 そして彼は自分を幸福だと思った。