序章・流転4

 例えば、不意打ちの言葉が。例えば、何気ない日常が。
 そんなありふれたものたちの無意識の悪意を感じる瞬間は、ひどく無口になる……――
 彼は黙って雨を見つめる。いつもじゃれつくように遊んでいた少年がどうしたんだよと不思議そうに、雨の中を数歩先へ行きかけて戻ってくる。
「どうしたんだよ、傘、持ってないならさっさと帰ろうぜ? トリュウムへ戻って何か喰おうよ。俺、腹減ったし」
 彼は黙って首を振る。分かっている。これは神の悪意で自分のせいなのだ。少年から貸してもらった服の肩口にぽつんと黒い染みが出来ている。それが見えないように首を傾げて殊更俯いた。
「なぁ、そんなに酷い雨じゃないじゃん。走っていけばすぐだよ、すぐ」
 更に彼は首を振る。顔が強ばっているのが分かる。
「なぁ、俺の鞄に傘が入ってるんだ。それ、取ってきてくれないか。頼むよ」
 彼が言うと、少年は不機嫌そうに顔を歪める。頼むよ、と彼は繰り返す。そうしてしばらく見つめ合ってから、少年が貸しだからな、と叫んで雨幕に霞む路地へ消えていった。
 彼はほうっと溜息をついた。雨。雨。これほど、憎らしい。
 彼は濡れないようにと身を寄せた軒先で、更に身体を壁に押しあてる。水滴から、彼から全てを剥がすものから身を守るように。
 黒い髪は彼を安全に保つ魔法であった。その下に隠れた真実がさらけ出さないように、彼を守ってくれる。青い髪が持つ意味を、彼は既に知っている。学院にも沢山いる。――沢山、いるのだ。
 記録は既に千年以上前のことになるらしい。魔導革命の頃とほぼ時期的に一致するからそのせいだというものもいるが、確証ではない。確かなことは誰にも分からない。ただ、皇族を筆頭とした貴族たちに青い髪を持つ者が頻出する事が事実だった。地位がすりあがるほど、青みは濃く深くなっていく。
 彼は雨を見上げる。魔導は今は使えない。呪文の詠唱には音律を刻む時間の長さ速さも関係するため、指針となる特殊な振り子か時計がないと効果が期待できず、それは鞄の中にあるのだった。  
 髪。俯いたまま、彼は首から下げた細刃刀を、これをくれた男が無意識のうちにかいつもしているように弄り回す。
 ……男は死にたがっている。それは男が文字通り全身全霊をかけて崇拝していたチェインの先の少年王が暗殺されたのを自分のせいだと思っているから、らしい。そしてその後継争いでチェインの少年たちはひどく殺気だってもいたし、浮かれてもいる。そわそわとして落ち着かないのだ。
 男がいなくなれば、彼はこの街に出入りする口実ときっかけを失う。それだけはどうしても承諾できなかった。だから彼は男にこの街を支配するための手段を吹き込んだ。それで少年たちの抗争に弾みがついて死人も出ているようだったが、そんなこともどうでも良かった。
 この街にいたい。自分が自分として在り得る場所に。その為には何でもする。どんな事でも、自分の身に危険が及ばない限りは首を突っ込むし、口を出した。
 そしてそれは成功しているようだった。男は彼にあからさまに感謝を唱えたり礼をしたりはしなかったが、彼を保護する意志は見せてくれた。男の体面にかけても守ってくれるだろう。
 ……けれど、髪。自分の話していない秘密、話す気さえない秘密が知れたらここも出て行かなくてはならない。
 青い髪は貴族の血を引く証明だ。彼を庇護する男が最終的に少年たちの王として君臨すれば問題はないが、現実、男はそれらの8割程度を統率しているに過ぎない。大勢は決定しているともいえるが、堅固な組織だとか成文化された規範がない故に個人の技量でそれは大きく左右される。
 簡単に言えば、男に従わない勢力の頭たる少年が、男を殺すことに成功すれば再び大きく勢力図が変わってしまう。確定がしていないということは、未来に渡って絶対保護があるか否かがまだ分からないということだ。
 彼は大勢を決めるために幾つかの助言をして効果を得ているが、結局のところ、男の器量次第であった。他の勢力が自分を歓迎してくれるかどうかなど、今は考えたくない。が、男に入れ知恵をしていたのが知れたら今度こそ稚児に売られるに決まっている……
 彼は大きく溜息をつく。男のことも、いつも一緒に遊んでいる少年のことも彼は気に入っていた。失いたくなかった。何があっても。
 だから、男にもう来るなと言われたとき、彼は最初ぽかんとした。自分は何か失態をしただろうかと考えて、それが遂に見つからなかったとき、脳天から血が引いていく音が聞こえた。
「なんで。俺の言うとおりにしてうまくいったじゃないか。それとももう俺には用がないって訳?」
「俺は死ぬかも知れない」
 男は淡々と言った。どんな事態であれ状況であれ、男の声には極端に抑揚が少なく、感情もあまり波立たない平板さばかりだったが、死を覚悟していると言うにはあまりにも静かだった。
 男の言う意味は分かっていた。結局、抗争中のもう一派閥の主と直接対決することになったことは、少年から聞いている。 男はどちらでもいいのだろう。死ぬのも、生き残るのも。そんなことを思うと苛立ちのようなものと諦めが同時に沸いてきて、彼は無口になる。
 食い下がってみても結果は同じだった。男は自分の意志を通すとき、頑として譲らない。一歩もそこから動こうとしない。それまでの経験で彼は男の頑なさを知ってもいたが、納得出来なかった。
「俺、あんたに必要とされているんだと思ってた」
 悔し紛れにそんなことを言うと、男はそうだな、と頷いた。男が自分に掛けている希望の種類を、彼は知っていた。彼の助言も意見も考察も、男にとっては付属物だ。
 男が欲しかったのは男が守るべき対象であって、それは先に死んだ少年王の身代わりという意味でもあった。
 彼は不愉快だった。自分が誰かの代わりだという侮辱など、受けたことがなかった。
 少年王のことに関しては男は酷く衝動的で、いつにも増して頑なになる。死人に心を連れて行かれがちにか男の彷徨う視線が、いつでも面影と幻影を探しているのは知っていた。不愉快だった。とても。会ったこともない死者を嫌うのも馬鹿馬鹿しいとも思うが、彼にとっては不機嫌きわまることでもあった。
 そして、それにも縋り付くほど自分は動揺している。
 離れたくない。ようやく見つけた呼吸の楽に出来る場所。生まれて初めての男同士の連帯感や共通を感じられる友達。笑い合ってふざけあった、ぬるく柔らかな日々がこれからも欲しい。どうしても欲しいのだ。
 何をどう言っていいのか分からないまま、彼は唇を噛みしめて俯く。
 考えろ、と叫ぶ声が胸の奥から聞こえてくる。考えろ、考えろ、首から上は他の奴らの観賞物じゃないんだろう!
 だが、その声がふっと消えた。彼は顔を上げる。彼は信じられない言葉を聞いたのだ。
「お前、髪、青いんだろう」
 例えば、不意打ちの言葉が。例えば、何気ない日常が。
そんなありふれたものたちの無意識の悪意を感じる瞬間は、ひどく無口になる……――