序章・流転7

 翌日寝不足のままで中等学舎へ行くと、例の殿下は既に来ていた。挨拶代わりに微笑んでみせると、そちらも頷く。他愛なくノートの端で雑談を交わしながら2人で微笑み合っていると、級友たちの目がこちらへちらちらと向いているのが分かった。
 皇子はその生まれと年齢の若さ故に孤独たることをある程度覚悟していたのだろう。同じ年齢の子供がいるとは思っていなかったようで、それが嬉しかったようだった。
 崇められる孤独というものを彼が感じているのも皇子は分かったらしかった。それは恐らく、皇子も身に覚えのあることなのだろう。
 皇子がこの学年に編入してきたのはどうやら偶然ではなかった。皇子の孤独というものに学院が配慮し成績の良さも加味した上で、彼と競わせあるいは共同で魔導の研究にいそしませるつもりがあるのだろう。
 彼と同じく皇子も魔導にはよく通じていた。体力の問題があって詠唱は殆ど行わないようだが、皇子はその気になれば魔導士を借り出すことが出来る。
 殆どの科目を皇子は中級から始めるようだった。恐らく、すぐに自分に追いついてくるだろうと彼はほくそ笑んでいる。接する機会が多くなればそれだけ皇子の周辺について知る機会が増えるからだ。雑談の端々から皇子が後宮でそれなりに教育されてきたことが窺えた。
 まるきりの他人ではない。自分たちは似すぎているし、魔導の資質は遺伝する。皇族を中心とした筆頭の貴族たちはそれが不得手ではないのだ。兄弟であることは間違いないだろうと彼は思っている。
 問題は自分が何故今まで放り出されていなくてはならなかったのかということだ。その疑問が解けるまでは様子を見なくてはいけない。何よりも、母があれだけ怯えているのだから。
 午前中の科目が全て終わり、昼食の時間になると再び皇子と同じ教室になった。本当に仲の良い兄妹のようによりそう自分たちを見て、全員が溜息になっている。絵になるのだろう。
 ノートの端の雑談。本当に、何の変哲もない光景に見えているだろうか。彼は既にそれが癖になりつつある、「他人から見た自分」の検証に余念がない。ほころびがないかどうかをいつでも確かめているのは最早習性に近かった。
 午後に入って最初の科目は運動で、これは彼は免除されている。いつものように魔導論文の続きでもと彼は図書館へ向かった。司書も心得ていて、彼の来る時間にはいつもの籍に、魔導呪文用のタイプを置いてくれているのだった。呪文用の記号は日常の言語とは全く異なる字体を使用するため、専用のタイプがある。
 秋も少しづつ深まっており、所々に落葉が彩る中庭を彼は図書館へ急ぐ。今手に掛けている論文が当選すれば、賞金が出る。金は幾らあっても邪魔にはならないものな、と内心で皮肉に笑っていたとき、後ろから呼ぶ声が聞こえた。
 皇子の声だとすぐに分かった。
「私も運動は免除で。昔から、身体が弱くてね」
 だろうね、と彼は心で深く納得する。自分もそれほど強い方ではない。体質も似ているのだ。自分はそれでも環境で鍛えられた部分を持っているが、皇子の場合は国で最高の医師団がおくるみについている。耐性がついていないのだった。
 図書館はいつものように司書以外は誰もいなかった。ここが学生でにぎわうのは基本的に放課後のことだ。司書は彼と皇子を認めて頷き、いつもと同じように何かあったら呼ぶようにと言い残して奥の司書室へ消えた。本の整理や管理は彼女の仕事だったし、彼がいつもここで魔導論文を書いているのを知っていたから配慮でもあろう。タイプはいつものようにいつもの場所へ置いてある。
 彼は前回の続きをタイプに差し込み、資料を揃えて普段と同じくそれを打ち始めた。 静かな図書館に、彼の打つタイプの音だけが響く。必要な資料を取りに行って戻ってくると、離れた席で進級試験のための参考書を読んでいたはずの皇子が自分の打ちかけのタイプを覗き込んでいた。
 どうしたの、と彼は皇子の肩をつつく。皇子は少し笑い、そして司書室の方を見、図書館全体を見回した。
 彼は曖昧に首を傾げて微笑んでみせる。資料の本を机に置こうとしたとき、皇子の声が細く言った。
「一つ聞いてもいいかな」
 魔導の話だろうかと彼は頷く。自分の椅子に腰掛けながら隣を勧めると、皇子は素直に従った。
 筆談を、と雑記用のノートを取りだしていると、その手を皇子が押しとどめた。彼は怪訝な顔で皇子を見た。皇子は苦笑していた。
「何故、女の子の格好をしているの?」
 ――息が、止まる。
 彼はしばらく皇子の顔を見つめていた。指がゆるんでノートが床に落ちる。軽い音が僅かに広がった後は、静寂になった。
 皇子は彼と同じに美しく瑕疵のない顔でゆるく笑った。
「女の子のふりをしているのは何故? 喋らないのはそのせいだね?」
 微かに唇が震え出すのが分かった。 今、貧血で倒れてしまえば全部聞かなかったことに出来るかも知れないのに。彼はそんなことを思ったが、僥倖は訪れそうになかった。凍り付いたように身体全てが動かない。
 彼が黙っていると、皇子は微かに、彼を宥めるように笑った。
「誰にも喋らないと約束する。何か事情があるんだろう? 私は立場上、魔導士を借り出すこともできるし軍務と王宮に関することならどうにかなることも多い。このままでは君は、とてつもなく不幸になるよ」
 彼はぎこちなく首を振る。皇子の最初の言葉だけがぐるぐると渦を巻きながら胸に落ちてくる。胸内の深淵にそれが沈んだとき、彼は喉をならした。身体中の血液が冷えたようだった。
 この皇子は一体何をどこまで知っているのだろう。どこで、いつ、どうして勘付いたのか。そんな疑問と、この言葉自体が何かの罠ではないのかという疑念がせめぎあって、瞬き一つできない。
 彼が痺れたように硬直したままで震えているのを見て、皇子はますます柔らかに笑った。多分それは自分が他人に向けていた笑顔そのままだった。自分のしてきたことを正確に打ち返されて、彼はすとんと観念する。
 一番深い場所に覚悟が座ってしまうと、ひどく気が抜けた。
「……何故……」
 皇子以外には絶対に聞こえないほどの小さな声で、彼は呻く。皇子はそうだね、と笑うと彼が取り出しかけて床に落としたままのノートを拾い上げた。
「君の魔導論文、昨日おおまか読ませてもらった。とてもいい論文だと思う。特に新機軸といわれている時間の生成は面白かった。実に興味深い。あれを読めば誰でもそちらへ目がいくと思うけどね」
 通常、時間というのは等しく流れていくものだ。魔導もそれを歪めることは出来ないとされる。彼の論文というのは層次元換算の数値をあらかじめ導いた上で次元軸に理論上存在するといわれている時間軸を融合させて魔導に組み込む、というものだ。
 魔導士はおしなべて身が軽いが、これは身を軽くするための沢山の魔導の力と本人たちの鍛錬の成果で、同じ一瞬でも動作をより多くこなすことによって、常人からは驚異的に見える身体能力を生み出している。
 彼の唱える理論は時間軸を魔導の力で調整するもので、簡単に言うなら時間を無理矢理個人の裁量で引き延ばすことが可能であるとするものだ。数字的には未知数が多いとしながらも実験の価値はあるとまとめられたそれは、魔導理論の中では数十年ぶりに出てきた新理論であった。
「でも、あれはいくら優秀でも女の子の書く論文ではないよ」
 皇子は呆然としたままの彼の肩を軽く叩き、魔導理論の最新の本を広げた。
「男性と女性では詠唱可能な呪文の範囲が違うよね」
 魔導とは音階と韻律で自然界との契約を為し、力を自分なりに組み合わせて使用するものだ。呪文は知識のないものが聞けば歌に近く聞こえるはずであり、音域の幅に関わらず一つの効果を生むための絶対音階が存在するため、男性と女性では明確に得手と不得手があった。子供でもまた少し違う。
「――君の論文は明らかに男性向けだ。低い音が沢山出てくる。女性向けの呪文でも構成さえ変われば同じ事が出来るはずなのに、それには一言も触れていないよね。自分で使うことをまるで想定していない術者って、いるものなのかな? それに魔導の呪文を構成するときって、無意識に自分の性別に沿うものだ。本能に近い部分で、自分に出来る方を選ぶんだよ。私は最初にこの論文を見たときとても面白いと思った。そして読み返して呪文の構成を見たときに、男性向けだなと思った。でも本当は」
 皇子は苦笑する。
「昨日君の腕を掴んだとき、少し変だなって思った。だって、君は細くて痩せている割に腕にちゃんと筋肉がついているから……女の子の腕はもっと柔らかい。力のある女の子であるなら、もう少し大柄だ。だから君の魔導論文を読んだとき、この子は男の子じゃないのかと思った。喋らないのも、運動に出ないのも、全部それで分かった気がした。喋らないのは声が変わるからで、運動に出ないのは女の子とは明らかに記録が違うのが分かっているからだ。君は……」
 皇子は彼が打ちかけて止まったままになっているタイプに視線をやる。彼は喘いで額を指で押さえた。
 そこにあるのも、隠しようもなく男性向けの呪文構成であった。人は呪文の構成をするとき、誰でも自分の性別に添う。絶対音階に照らして少しでも自分の楽になるように、頭の中で詠唱しては無意識に調節しているのだ。
「君は、徹底して男性向けの呪文しか書かないんだね」
 彼は立ち上がる。もう駄目だ。 この皇子が気付いたことを他の誰かが気付かないと言う保証はどこにもない。
 彼の論文がひどく複雑な呪文の構成と長い詠唱と、煩雑な次元換算の知識がいることがどうやら幸いして今まで論文の理論を確かめるような実験は行われていない。
 だが、それもいつかはやってくる。論文の筆者が女性なら、最初の実験に選定される詠唱者は女性の魔導士になるだろう。そして、それはこの疑問の露呈だ。似たような疑いを持つ人間が必ず現れる。
 母さん。終わりだ。
 襲撃者たちがそれを見過ごしてくれると言う甘い期待を彼は抱いていない。皇子に接近して自分の身の上を知ることも、その上で自分の選択を決めることも、全ては身の安全の確保が前提だ。自分の命と母の平穏を賭けてまで欲しい答えではなかった。
 諦めろ。この、理性の声がするうちに。今までのように。鮮やかに。
 彼はゆるく首を振り、それまで打っていたタイプから用紙を引き抜いた。皇子が彼を見上げた。
「逃げるんだね」
 皇子の声が言った。彼は皇子を見る。同じ顔の、同じ色の瞳に映るのは哀れみだった。彼は顔を歪める。憐憫など欲しくなかった。
 皇子もまた立ち上がった。背丈はほぼ同じくらいだった。真向かって立っていると、まるで鏡に映ったようだと彼は思った。
「私は君が可哀相だと思った。君はこのままでは一生日の当たる場所に出ることが出来ない。公職はもちろん、まともな仕事にだって怪しい。君には沢山の才能があるはずで、それを自分でも知っていると思うのに君には何一つ、正当なものは手に入らないだろう」
「……うる、さい」
「そうだね。これは余計な世話というものだ。だから私は君が逃げていくことを知らないふりをしよう。君は少し気分が悪くなったから早退するんだ」
「……あんた、」
 彼は声を絞り出す。押し殺した声は緊張で震え、自分でもおかしいほどかすれて男らしい声に仕上がっていた。
「俺を強請っても何も、出ない、ぜ……」
「ああ、そんな風に喋るんだね」
「うるさい」
「ごめんよ。私はそんなに大ごとだと思っていなかったのかな。でも私のせいで逃げていくというのなら、謝ろう。これを」
 皇子は自分の髪を留めていた金のピンを抜いた。さらりと瑠璃色の見事な髪が肩を覆ったように落ちた。
「地金の純金と、ついている石は本物の紅玉だから」
 彼は泣きそうになる。皇子は確かに善意で言っているのだ。彼の正体を暴いてやろうという気はなかったのには違いない。
 だから餞別を躊躇いなく受け取るには抵抗があった。
「いらない」
 彼は皇子の憐憫を払いのけ、図書館の出口に向かって歩き出した。数歩行って振り返り、掴んだままだった書きかけの論文を机に置く。
「殿下の指摘してくれたことは、俺には救いだった。礼を言っておくよ。気付かなかったら間に合わなかったかも知れないから……でも、何かをしてくれるというならこの論文を、処分してくれたら嬉しい」
 皇子は頷く。ありがとうと彼は呟き、まっすぐに出口へ、再びの迷走の中へ、流転の旅へと向かうためにその場から立ち去った。