Beloved Wife

 僕の彼女は可愛い。名前はミユキという。もうすぐ二十三になるはずだけど、ふんわりした雰囲気と大きな目が僕の好みというやつを直撃するのだ。二年半ほど付き合っているわけだが、僕は文字通りミユキに夢中だった。誕生日とクリスマスの二大イベントはもちろん、一通りの記念日はスケジュール帳にびっしり書き込み、せっせと贈り物をし、東に新しいテーマパークがオープンするとなればプレミアチケットを取り、南に話題のレストランがあれば予約を入れ、情報誌を週に三誌読み回して新しいデートスポットを探し、彼女の好きな車に買い替え、内部を彼女の好きなキャラクターで埋め尽くし……とにかくミユキのためにありとあらゆる事はした。
 僕の部屋でテレビを見ていたときにミユキが、たまたま映ったブランドの春の新作バックを可愛いと言ったので早速取り寄せたこともある。ミユキはびっくりしていたが、彼女が喜んでくれるなら僕は幾らかかっても構わないし、労力と努力は絞り尽くす所存だ。
 ミユキも僕を好きだと言ってくれる。僕はこれだけで有頂天である。毎日が楽しくて嬉しくてたまらない。始終ハイになっているので友人達は僕がおかしくなったのかと思っているようだが、そんなことさえどうでもよかった。出来れば一生このままハイでいられたらどれだけ幸せかと、僕はミユキにプロポーズした。ミユキもすぐに頷いてくれた。僕は幸せの絶頂だった。さっそく結婚情報誌を買って僕の部屋で二人で眺めていると、ふと、ミユキが思いだしたように言った。
「タッちゃん、そうだ、お互いの両親にご挨拶しなくちゃね」
 僕はちょっと改まって頷いた。僕はミユキを両親に紹介してあるが、僕はミユキの両親に会ったことはなかった。父親が厳しいらしく、そのせいで家まで送ることも出来なかったし門限は厳守だったし電話もしづらかった。電話は携帯でするからいいとしても、何となく機会をやり過ごしてきた感じはある。ミユキのお父さんに会うのだと思うと僕はものすごく緊張してきて、長い長い溜息になってしまった。
「……ミユキ、お父さんってどんな人?」
 おそるおそる切り出すと、ミユキは少し考えるような顔をした。
「ううーん、そんなに変わった人じゃないんだけど……無口かな」
 む、無口……それはとっかかりを見つけるのが難しいという意味である。
「趣味は? お酒はいけるクチ?」
「趣味は俳句と詩吟かな……お酒は全然駄目。すぐ泡吹いて倒れちゃうから……」
 泡を吹いて倒れるとは尋常でない。僕はお土産に買おうと思っていた高級洋酒を諦めた。それに俳句と詩吟とは何という接点のなさだろう。当たり障りのない世間話するにも気が折れそうである。ミユキのご両親に会う前から僕はちょっと暗澹とした気分だった。
「大丈夫よ、タッちゃん。お父さん、ちゃんと話せば分かってくれるから」
 ミユキは頑張れ、と僕に笑ってくれた。
「そ、そうだよな。話せば分かってくれるよな。そうだ、『うちの娘は誰にも渡さん』って言われたら、『お父さんだってお母さんを貰ったじゃないですか』って言ってやる!」
「タッちゃん頑張って!」
 僕たちはしばしミユキのお父さんの言動を予測し、それになんと答えるかをシミュレートすることで盛り上がった。話題はどうあれ、ミユキも僕と結婚したいのだと思うと何となく、じーんとしていたのも事実だ。
 そしてその日、僕は張り切って一番上等のスーツを着込み、身だしなみを整え、お父さんが好きだという鰯の丸干しとお母さんに花のお土産を抱えてミユキの家に向かったのである。ミユキの家は普通を絵に描いたような、典型的な一戸建てだった。小さめの庭、一応屋根のついたカーポート。玄関の付近にはプランター、優しそうなお母さんとしゃきしゃきした感じの妹……そして。
「あのう……ミユキさんの、お、おとう……さん?」
 居間のソファに陣取って新聞を読んでいるのはどう見ても蟹であった。それも高級な方だと思われる松葉蟹だ。先月接待で食べたから間違いない。僕は慌ててミユキを振り返った。
「やだお父さん、タツオさんを連れて来るって言ってあったでしょ」
 ミユキはむくれたような顔で言った。蟹は面倒そうに新聞を読むのを止め、
「いつもミユキが世話になっているそうで、どうも」
と言った。
「い、いえ、あの、こちらこそ」
「今日は、何しに来たの」
 ぼそぼそという口調で蟹は言った。どこから声が出ているのか僕には全く分からなかったのだが、それを聞くと全てが終わることは分かっていたからその疑問のことは自分で見ない振りをした。
「何しにっていうか、その、ぼ、僕とミユキさんのことで、大事なお話が……」
「ふうーん」
 気乗りしない返事をして蟹はまた新聞に向き直った。僕が来ていることを少しも歓迎していないのは確実だった。ちらっとミユキを見ると、彼女を含めて他の家族は全員凍り付いていた。僕が特に非礼だったというわけではなさそうであった。
「そ、そうだ、お酒が足りないから二人でお買物に行ってきてくれないかしら」
 焦ったお母さんが助け船をくれて、僕は玄関を入ってから十分もしないうちに外へ行かされる羽目になったのである。
「ミユキ、お父さんのことなんだけど……」
 スーパーへ歩きながら言うと、ミユキはちょっと悲しそうな顔をして溜息をついた。
「ごめんね、お父さん、ちょっと機嫌悪いみたい……」
 僕が聞きたかったことと微妙に違うのだが、僕はそれに頷いておいた。蟹という非日常をどう理解していいのかも分からなかったし、誰もお父さんが蟹であることに疑問など抱いてなかったし、そもそも蟹なの? と聞いて余計な火種を抱え込むのはごめんだった。もう十分に嫌われているらしいのに、これ以上嫌われなくてもいい。
「普段はもうちょっと話、するんだけど……」
 娘のことで話があると言われたら、男親なら面白くないだろう。それは分かる。ミユキは二十三だから嫁き遅れというわけでもない。ミユキが三十三なら僕はきっと大歓迎して貰えるのだろうが十年待てと言うのは僕が辛い。結局お父さんはミユキを取られることが我慢ならないのだ。とにかく頑張って、とミユキに励まされて僕は彼女の家に戻った。寿司をごちそうしてくれたのだが、くだんの蟹は無言のままマグロやイカをちょっとつまんだだけで書斎へ引っ込んでしまった。何をしているんだろうと思ってそっと覗いてみると、自分の書き溜めた俳句の整理だった。とりつく島が無いというのはこういうことなのだろう。僕は結局殆ど話もできないままミユキの家を出なくてはいけなかった。
 それからも機会を見てミユキの家に電話したり遊びに行ったりしたのだが、例の蟹は僕をさっくり無視した。僕の忍耐力も流石に限度がある。怒鳴り散らしたりはしないのだが、ミユキと会っていてもその話ばかりになり、次第にミユキとも気まずくなっていくのが分かった。
 最初は味方だったお母さんも、あまりに白けた雰囲気に押されて最近は僕を放置するようになってしまった。お父さんとまともな会話もないままこの話はなかったことにした方がいいと思うのよ、などと切り出され、僕はもう不機嫌に黙りこくって帰るしかなかった。
 しばらくの間、僕はひたすらヤケ酒を煽って過ごした。ミユキの携帯は全然通じないし、自宅に電話する気はしないし、もうどうにでもなれと思っていたのは確かだ。
 ある晩そうやって行きつけのバーで飲んでいると、涙がこぼれてきた。これは言うまでもなく悔し涙である。僕の何が気に入らないのか、多分何もかも気に入らないんだろうが彼女の父という権威を振りかざしやがって。悶々と飲むだけ飲んだ酒は微妙に涙の味がしたかもしれない。が、涙にくれるうちに、僕はそれがだんだん怒りに変わってくるのに気がついた。
 ミユキとこのまま別れたくない。出来れば結婚したい。好きなのに、こんなに僕はミユキを愛しているっていうのに、お互いにその意志はあるはずなのに、結婚できないってどういうことだ!僕は通勤用の鞄を掴んでバーから走り出た。酔った勢いで直談判して玉砕しても良かった。とにかく一度、びしっと言ってやらなくてはもう気が済まなかったのだ。
 最寄り駅からミユキの家まで小走りに走っていくと、その近所でアスファルトを横にかさかさ、鞄を引きずりながら歩いていく蟹がいた。遠目からでもばっちり分かるのはありがたかった。
 僕が追いつくと、蟹は心底嫌そうに
「儂は結婚なんか絶対絶対認めないからな、大体まともにハサミもついてない奴にミユキをやれるか」
と言い放った。どういう基準でそんな話になるのか良く分からなかったが、かあっと僕の頭に血がのぼったのは確かだった。
「ハサミハサミとおっしゃいますが!」
 僕はひっくり返った声を気にせずに言った。
「ハサミが無くても立派に生きている人は沢山います!」
「ミユキは大切な長女なんだ! 君は養子に入ってくれるのかね!」
 養子という言葉に僕は少し怯んだ。実は僕も長男なのである。が、これで引き下がったら僕はただの馬鹿だと思った。
「そんなお話今初めて伺いますが! でも僕はミユキを愛してます!」
「俺の娘を呼び捨てにするな!」
 蟹は思い切り僕のすねを抓った。流石にハサミだけあって滅茶苦茶に痛かった。僕は思わず飛び上がり、やめて下さいと怒鳴って足を振り上げた。勢い余って蟹はぶうんと放り出され、少し先のアスファルトに甲羅側から落ちた。ぐちゃっという嫌な音がした。
 僕が慌てて駆け寄ると、蟹はぴくぴく痙攣していた。ざあっと血の気の引く音がして僕が蟹を拾い上げると、絶え絶えな声が呟いた。
「覚えてろ、若造め……絶対……ミユキとは……認めんぞぉ……」
「腹が減ったな」
 僕はそう呟いて、蟹をかかとで潰した。アパートで食べた鍋は出汁が効いてとても美味しかった。胃袋に葬った秘密はサラリーマンの行方不明事件として取り扱われた。父親の行方不明で動揺するミユキとその家族を僕は献身的に支え、一年後、僕たちは結婚した。
 僕は幸せだった。定期入れにミユキの写真を入れ、仕事の合間に取り出して眺めてはニヤニヤしていた。同僚や上司から時々からかわれたが、僕は気にしなかった。とにかくミユキと結婚できたこと、その障害を自分で排除したことは僕の大きな自信になった。相手が蟹であったことであんまり罪悪感も感じなかったのは確かだ。新婚生活で浮かれている僕を更に幸せにしてくれる出来事が起こった。ミユキが妊娠したのである。超音波検査で女の子だと分かったから、僕は早速名前辞典を三冊買い、そこら中の占い師に通って名前を考えた。
「うちはつくづく女系なのかしらねぇ」
 男の子が欲しかったのかミユキのお母さんはそんなことを言っていたが、僕はもう幸せの配牌が満貫でテンパっている感じだった。ミユキに似ているはずの可愛い娘と遊園地や動物園に行くことを想像しただけでも顔がにやけてくる。
 ミユキの出産の一報を聞いたのは出張先だった。なるべく側にいたかったし出来れば立ち会いもしたくてビデオカメラまで買ったのに、と僕は少しがっかりしたが、母子共に健康だと聞かされて気持ちを直し、早速病院へ向かった。ミユキに案内されて新生児室を覗き込んだ僕はだが、ぎくりとして視線を止めた。他の家の子供に混じって……蟹がいる……
「タッちゃん」
 ミユキがうっとりとした顔付きで僕にもたれかかり、呟いた。
「すぐに分かるでしょ、死んだお父さんにそっくりなの」
「そ、そうだね」
「お父さんが生まれ変わったみたいで、嬉しくて……」
 ミユキはそれだけ言って涙で喉を詰まらせている。買い物に出ていた妹が帰ってきて、
「女の子だって聞いてたからあたしたちみたいのだと思ってたけど、女の子でも、ちゃんとハサミ、付くんだもの。びっくりしちゃった」
などと言った。女系ってそういう意味だったのかと僕はぼんやり、他の子供よりはやや茶色っぽい僕の娘を見つめた。
 所属課でお祝いを貰ったときも、祝賀会と称して飲み会に雪崩れ込んだときも、まだ僕は呆然としていた。
「まあ、これで君も一人前に父親になったわけだねぇ」
 課長が僕のお猪口に日本酒をつぎ足して言った。僕ははあ、と曖昧に返事をした。何故何がどうしてこうなったのか良く分からないのだが、呪いとか自業自得とか因果応報とか、そんな単語がぐるぐる頭の中を回っている。
「どうよ、父親になった感想は」
 課長にせっつかれて僕は嬉しいです、と呟いた。丁度その時、誰かが頼んだのだろうカニミソがつまみとして小さな桶で出てきた。
 それを見た瞬間、僕の目に涙が溢れてきた。神様、あんまりです。ミユキに似ていなくてもいいし特別美人でなくても良かった。ただ五体満足というか、普通に娘でありさえすればよかったのだ。
 僕は神様と呟きながら、そんなに嬉しいのかぁと一人うんうん頷いている課長の横で泣き続けた。
《終》


icon-index