BetterHalf

 私の夫はカニである。越前ガニだ。3年ほどまえ旅行で金沢にいった時、海岸でナンパされてそのまま付き合い始め、そしてそのまま結婚した。私は当時24才だったが田舎の両親が見合いばかりを勧めたがってうざったかったのもある。
 最初に夫を連れていった時両親はさすがに仰天したらしく、しつこく人生のやり直しはきかないんだと迫ったが、そう言われるとかえって意地になってしまい、今に至る。
 夫はカニであるという一点を除けば、ごく普通のどこにでもいるサラリーマンである。毎朝、ラッシュで押し潰されないように網棚の上にのって会社へ行く。会社には夫専用の水槽があり、そこにときどき浸かりながら仕事をしているそうだ。あんまり水の外にいても泡をふいて倒れてしまうので、水槽は必至なのだ。
  ある日、何気にドアを閉めると、背後で夫の甲羅のなるぎりぎりという音がした。あわてて振りかえると、丁度ドアの隙間に夫の右の一番上の足を挟んでひねりつぶしてしまっていた。
「ご、ごめんねっ、ごめんねっ」
 私が涙目で言うと、さらに涙目の夫は口から激しく泡をふきながら、
「大丈夫、俺、甲殻類だからそのうちまた生えてくるし……」
そう言ってよろよろと水槽へと戻っていった。
 私はそこに落ちている夫の足を拾いあげた。新鮮だからまだぴくぴくと動いている。見ているうちに我慢できなくなって、ぱくっとやった。
 甘海老なんて比較にならないくらい、ねっとりとあまくてみずみずしくて、美味しかった。カニカマボコで無理に自分を誤魔化してきたが、濃厚なカニの風味が口一杯に広がる。
 くくっ、これ一本しかないのだ。3年ぶりのカニ肉の味をしゃぶりつくそうとして殻ごとばりばり噛み砕いていると、背後から
「ち、チカちゃん?」
おびえたような夫の声がして、私は自分が夫の足をくわえて殻までなめまわしていたことに、ようやく気付いたのである。

 あれ以来、夫は少し無口になってしまった。夢中だったからもう言い訳も出来ない。だけど、あの時の魔の味は忘れられなかった。こっそり友人とカニ料理専門店へ行ってみたりもしたのだが、鮮度が違うからあのめくるめく味には巡り会えなかった。
 なんだか悪くて、夫の夕食にいつもの煮干に鰹節をサービスしたりしてみるのだが、鰹節の時は
(カニすき……)
そのことばかりで、お晩酌にビールをつければ
(渡りカニの老酒漬け……)
となり、挙げ句、肉屋でコロッケを見ては
(カニクリームコロッケ……)
もう、そればっかりである。
 いや、夫のことは変わらず好きだがカニも変わらず好きだということに私は気付いてしまった。
 その日、夕飯を食べ終えてビールを嘗めている夫をみながら私は酔っ払いカニのことをぼんやり考えていた。夫はふと顔をあげて私を見、それから甲羅をせわしなくがしゃがしゃとゆすりながら言った。
「チカちゃん、俺の足、食べたい?」
 そんなこと、と言おうとしたのだがそれよりもとっさに頷いていた。
 夫は悲しげな目つきで私をみると、
「一本だけならいいよ」
と言った。反射的にほほが緩むのを必死で抑えて私は首を振るが、ごくっと喉がなった。生唾がいくらでもでてくる。それをごくごく飲み下していると、夫がハサミをばたばたふりながらいいんだよ、と言った。
「あの時チカちゃん、すごく幸せそうな顔してた。俺と結婚して一番嬉しそうな顔だったもんな。いいんだ、俺、ほら、この前の足ももう生えてきてるし……」
 確かに失った足のあとから赤ん坊の小指くらいの大きさに足ははえてきてる。これがまた美味しそ……いや、痛々しくて見ていられない。
「いいの。我慢するもん。食べたくなったら外でたべるもん。だから無理しないで、あなた」
 私もけっこう無理に我慢しているのだし。やっぱり夫の足をちぎってしまうのは勇気がいる。
 夫は目を潤ませながらチカちゃんありがとう、と言った。私は頷きかえしながら一世一代のチャンスを棒に振ったのだと泣き出しそうだった。
 もう寝ようよ、と夫が言うので私は居間の片付けを始めた。夫は先に水槽へと帰っていく。マグカップを洗って私も寝室へこうとした時、夫の
「うぎゃー!」
という壮絶な悲鳴が聞こえてきた。
 寝室へ駆け込むと、隣で飼ってる半野良のネコが夫をくわえてふりまわしていた。
「むぎゃー!!」
 私は訳のわからない奇声をあげてネコに飛びかかった。ネコが夫の甲羅をばりっ、と小気味いい音をたてて噛み砕いた。夫は一瞬はげしく痙攣したが、口からこれでもかと泡を吹いてだらりとハサミを落とした。
「このやろーっ!」
 私はがなりたてながらネコを睨んだ。ネコはものすごい悲鳴をあげて夫を更に振り回した。頭がかぁーっとなって、私は思わず夫の甲羅をがっちりくわえこんでいる猫の鼻面に噛みついた。
 この、はなせ、これはあたしンだ! お前が食べるもんじゃないんだ! お前なんかに足一本やるもんか!!!
 気付くと猫はもういなくて、私はぽつんと寝室の床に座り込んでいた。夫の足はまだゆっくりと動いていたが、その動き方は居酒屋で出てくる活魚の造りにそっくりだった。
 うわーん、と声をあげて泣きながら夫を持ち上げると、新鮮なカニの肉のいい匂いがした。そっか、これは越前カ二なのだ。甘くて、柔らかくて、美味しい最高級のカニなのだ。 半べそでむしゃぶりついたカニ肉はまさしくあの時の禁断の味だった。食べながらたかがカニじゃん、と思っている自分に気づいて私は少し可笑しくなった。夫であったカニでも、カニはカニだ。
 なんだ、私ってけっこうしたたかな奴だ。夫がいなくても生きていけるし、まだ30前できちんとお化粧すればそれなりに誤魔化しがきく。それに、生き物のちゃんとした供養って食べてあげることだもんね。そう思うとなんだかとても気が楽になってこの新鮮な越前カニの足をむしり取ってしゃぶりつくし、最後に甲羅の中のカニ味噌を日本酒に溶いて飲み干した。
「くぅーっ、やっぱりカニ味噌には日本酒が一番ねっ」
 そんなことを呟いて私は合コンの予定がないかどうかを聞くために、友人の携帯の番号を押しはじめたのだった。
《BetterHalf 終》


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