第2章 赤い小鳥2

 日常はたゆまず流れていった。少年は時折彼女に珍しい茶や砂糖菓子をくれた。それにリボンや派手すぎない髪留めなども。何を貰っても彼女は嬉しかった。少年がほんの少し自分に心を選り分けておいてくれることが、暖かく、幸福な気持ちにさせてくれた。
 それに、物を渡すときに一瞬触れる手が、手の温もりが。それが何よりも彼女に熱を与えてくれる。
 彼女の部屋は屋根裏で、傾いた屋根の斜傾を切り取るように窓と腰台がある。腰台には鏡と両親の写真が飾ってあり、それが彼女の部屋で一番良い場所だった。光が射し込むとそこだけぽっかり明るくなる。
 硝子の小鳥が部屋の一番良い場所に飾られるようになってから半年で、少年からの贈り物はその場所を占領するようになった。リボンだけは色褪せてしまうのが怖くて、やはり彼から貰った小さな疑似宝石の付いた小箱に仕舞ってある。少年が持ってくる品物は大抵日常には身につけられない物ばかりであったが、それでも譬えようもなく嬉しかった。
 彼女が自分の供物を使えないことに少年が気付くのが遅れたのは、彼と彼女の決定的な生活の差であった。少年は末端とはいえ貴族の範疇にあり、働いたことなどは皆無であった。
 少年の仕事は今は勉学であり、そうでなければ収穫時の収益の計算を手伝う程度のことだ。長じて家の仕事と名の付くものをするとすれば、それは肉体労働ではなく、奴隷達を監督しきちんと利益を上げることなのだ。
 ごめんよ、と少年はそれをすまなそうに言った。彼女は激しく首を振った。
 少年の持ってくる物はどれも繊細で美しく、砂糖菓子一つにしても壊したくないと思えるほどに上等だった。それらを見ているだけで、彼女は自分の手の届かない遠い世界を夢想することができた。きらびやかで華やかな夢を描いているときだけは、彼女は完全に幸福であったのだ。
 つっかえながらどうにかそんなことを説明すると、少年は苦笑したようだった。
「……お前がそれでいいというならいいんだけど」
 それでも少年は自分の気持ちを何かに託したいと思ったのだろう。やや思案の後に、自分の襟元から銀の細い鎖を指で引き出した。その先に揺れる複雑な紋様板と中央に埋まった真珠で、これが少年の祈る神の持ち物であることが分かった。
「じゃあ、これを持っておいで。神様のご加護がお前にあるように、僕も祈っておくから。首からかけて服の中へ入れてしまえば、誰の目にも付かないだろう?」
 ほら、と手渡された銀の薄板にまだ少年の体温が残っていた。彼女はそれを握りしめた。神様、と呟くと少年は頷いて笑った。
「そのうち、聖句や祈りの作法も教えてあげるよ。信仰を馬鹿にする人もいるけど、僕は好きだな。心がとても落ち着くんだ」
 彼女は深く頷き、促されるままに鎖を首に掛けた。微かにこすれる金属の高い音が、心の奥を高揚させる。
 紋様板がちょうど胸の淡い谷間と鎖骨の中間辺りに止まったのを、彼女は服の上からそっと押さえた。その部分に泣きたいほど温かな物が宿った気がしたのだ。
 それから彼女は顔を上げた。信仰の道具を簡単に他人に譲るというのは如何にも不埒なことのような気がしてならなかった。
「あの……若様、こんな、頂いてしまったら、ご迷惑なのではないでしょうか……」
 少年は軽く笑い、いいんだよと言った。
「来週は僕の誕生日だから、父上からまた新しいのを頂くことになっているんだよ。もうそれは要らなくなるし、引き出しに仕舞っておくよりはお前に持っていて欲しいんだ」
 はい、と頷いた時に彼女の胸を占めていたのは圧倒的な幸福だった。
 少年の眼差しや言葉が優しく自分をからめる度に、竦み上がってしまうほどに幸福な気持ちになる。他に何も要らないと思えるほど、この一瞬が永遠に続かないだろうかと思うほど。
 嬉しくて嬉しくて、他には何も考えられない。
 あまりに幸福で、それを逃がしたくない一心で彼女は目を閉じる。祈りをするようにうなだれていると、そっと頬に少年が触れたのが分かった。
 ふっと視線をあげると少年が自分の頬に指をまつろわせながら、じっと彼女を見ていた。
 瞳があってしまえば、捕らわれたように動けない。少年がゆっくり顔を自分に寄せてきたとき、彼女は怯えるように目を閉じた。
 初めて他人と交わす口付けは、ひどく長い時間のような気もした。彼の唇は少し乾いて暖かく、触れた箇所から全てが抜け落ちていきそうな安堵を彼女は覚えた。
 唇が一瞬離れた瞬間、掠れた声が好きだよと囁くのを聞いた。彼女は頷き、僅かに涙ぐみ、もう一度頷いて少年が再び寄せる唇を受け止めるために目を閉じた。
 2人で持った秘密は、秘密だと思うことで尚更大切なものになった。仕事の合間に時折彼女は少年と逢うようになった。抱きしめられれば嬉しく、口付けを受ければ嬉しかった。彼の胸に甘えていることも、彼の腕にまかれていることも、全てがきらめくような幸福だった。
 少年はその年齢特有のまっすぐさと生真面目さでいつか彼女を妻としたいと誓ってくれた。無邪気で無垢な約束事を交わす度に彼女は悲しくなった。自分と少年では明らかに身分に差があった。
 奴隷から自由市民になるには沢山の金がいる。市民になったからといって、その先にはまだ騎士階級を越えた上で少年の家門が位置する下級貴族というものに辿り着くのだ。あり得ない。
 だが、そうと分かっているからこそ少年の情熱も真摯な言葉も嬉しかった。嬉しくて悲しくて、その二つがいつもない交ぜになって、眠りに落ちる前はいつも惑乱の中だ。
 夢を見ているときだけが彼女を癒してくれた。身分差など考えず、2人で微笑みあっていられさえすればそれで良かった。
 だが現実はやはり悲しいことが多い。少年が沢山の物を彼女に降り注ぐように彼女はどうにかして自分から何かを差し出したかったが、自分に持てるものは何もなかった。
 庭の薔薇の世話の折りに拾っておいた花弁で作った香袋、女主人の使い残したレースで編んだ小さなタイ。でもそのどれもが彼が最初から持っている物に比べ、なんてみすぼらしくて見劣りがするんだろう。
 何も持たないことがこれほど恥ずかしいと思ったことはなかった。少年が自分にしてくれるように、同じように気持ちを返したいのに何も出来ない。彼はいつでも優しくしてくれるのに、自分ときたら色々な思惑に足を取られてぎこちなく、彼の言葉に頷くしかできない気がする……
 彼女はそんな自分が厭わしくなる。人を好きになればなるほど欲張りになる。物欲しがるようになる。少年を慕い見つめる気持ちが純粋であればあるほど、彼に似つかわしくないことが重くのし掛かってくるのだ。
 せめて自分がもう少し美人であったら良かったのに。奴隷じゃなければ良かったのに。
 けれどそれを思っても何も変わらない。目覚めれば窓の外にはいつもと同じ夜明け前の紺青の空、薄汚い寝台の上―――
 悲しみは少年と逢う僅かな時間にだけ、姿を見せなかった。彼女はそれを念頭から追い払うことだけを考えた。その時間は確かに満ち足りていたから、余計なものを入れたくなかったのだ。
 そしてなるべくそれを脳裏から追い払うために彼女は益々仕事に熱心になった。食器も調度品もいつでもきちんと磨き、丁寧に掃除をし、料理の手伝いをし、女主人のする糸細工と呼ばれる手刺しの刺繍絵の糸を紡いだ。働いて働いて、誰かの役に立ちたかった。
 14になる頃には彼女は誰からも重宝される小間使いになっていた。特に女主人は彼女をよく可愛がった。糸細工には細かな神経を必要とするし、丁寧に紡いだ色糸の具合が出来を左右する。
 時折配色の相談などを受けるようになり、女主人の手から彼女はそれを教えられた。貴族の女達の間では教養ともされているそれを自分の手が生み出すのは不思議な奇跡だった。
 自由にして良いと与えられた絹地に、彼女は硝子の小鳥を刺繍した。それは人生で最初に目にした、何の混じりけもなく純粋に美しいものであった。小鳥を刺し終わった後で彼女は僅かに考えて、その横に一回り大きな小鳥を寄り添いあうように刺した。これが彼女に出来る、精一杯の表現であった。
 刺繍の入った絹地を切り取り、縁を丁寧にかがってレースで装飾すると、みすぼらしくはない程度のタイにすることが出来た。彼女はほっと息を付く。ようやく何か返すことが出来るのだと思うと嬉しかった。
 少年はそれをとても喜んでくれた。こんなものしか出来なくて、と俯く彼女に何度も首を振り、有り難うと言った。
「こんなものだなんて、あんまり自分を卑下するのはおやめ。今のままでいいんだよ」
「若様……」
 言葉が詰まるときは、胸も詰まる。どう言葉にして良いか分からない。
 いつの間にか定まった2人の密会場所は滅多に人の来ない機織り小屋だった。昔は織布もしていたが綿花を手広く始めたせいで手が回らず、いつの間にか止めてしまった家業だ。糸紡車や織機などはまだ残っているが使う者もいない。
 いつものように唇をよせ、彼の胸にじっと身を預けていると精神全体が弛緩するような安らぎを覚えた。彼の鼓動も息づかいも、全てが彼女を包む世界になってくれた。
 何度目かの口付けを交わしていると、少年がふうっと溜息をついた。彼女はじっと、彼女の神様を見上げる。
 少年は彼女の黒髪に手を差し入れて、ゆっくり愛撫しながら呟いた。
「……でも、何かをくれるというなら……少しの間目を閉じていてくれないか」
 彼女は素直に従った。少年の腕が自分の肩を抱き寄せ、いつもよりも丁寧なキスをした。
 何度も離れては重なる唇が、ついばむように自分の同じ箇所を撫でる。最初の頃のぎこちなさは既に抜けて、彼女は全く警戒心なく心を預けていた。
 不意に唇を割って何かが入ってきたのが分かった。驚いた身体が一瞬、反射的に離れようとするのを少年の腕が押さえるようにして遮った。
 それが彼の意志だということをはっきり悟って、彼女は微かに身を縮めた。不意打ちの荒々しい仕種はただ恐れに変わるものであった。
 きつく目を閉じてなされるままにしていると、やがて唇が離れた。うっすらと目を開けると少年の唇が赤く、ぽってりと濡れているのが分かった。きっと自分も同じようだろうということに気付き、彼女は羞恥に俯いた。どんな顔をして良いのか分からない。
「――ごめん……」
 少年の声は苦しげで、ひどく痛々しかった。わずかな間をおいて、彼女はいいえと細く答えた。
「あの、私……驚いただけで……」
 言い訳がましく口にして、彼女は僅かに首を振った。少年の謝意が何に向けられたものかを理解したのだ。彼は自分が怯えていたのを分かったのだろう。だから謝っている。それが嬉しくて、彼女はようやく微笑んだ。
「若様、私、本当に驚いただけなんです……あの、わ、私に出来ることってこれくらいしかないのかもしれないですし……」
「そんなことない!」
 反射的に少年が声を荒げ、彼女は微かに怯えて呼吸を止めた。自分の語気が彼女を怖れさせたのに気付き、少年はやや長い溜息をついて首を振った。
「ごめん、怒鳴るつもりじゃなかった……でもお前はいつもそんなことばかり言うんだね。僕はお前がお前の言うようにつまらないものだなんて、思ったことはないよ」
 彼女は俯いて首を振る。
 少年の周辺にあり集うものはみな繊細な技巧を凝らした優美さばかりで、そこに自分がぽつんと混じるのはどう考えても不自然だった。闇のように閉塞した重い色の髪、同じ色の瞳。頬にぽつぽつ散る淡いそばかす。全てが不調和なのだ。
 彼と、彼の持つ世界の空気とは。
 彼女が黙っていることで少年は再び溜息になったが、それ以上を続けようとしなかった。若い2人にも薄々分かりかけている。いずれにしろ、このままでは限界があることを。
 ぎこちない空気を残しながら、彼女は夕方の仕事へ行かなくてはならなかった。仕事の最中は敢えて他のことは考えないようにしているが、この日は払っても払っても沢山の悲しみが沸いてきて手に負えなかった。
 自分はこんなにも若主人を恋していると思うと息苦しくなる。
 何が悲しくても切なくても、その気持ちだけは持っていていいはずだ――と思う。明日逢ったら謝らなくてはと彼女は決意し、その晩、いつものように神様に少しだけ祈りをして眠りについた。
 それから時折、あの深い口付けを交わすようになった。最初あれだけ驚いたのに身体は順応する。少年の望むようにすることが自分に出来る精一杯なのだと思い定めてしまえば、後は彼の言うがままにするだけで良かった。
 味わうように舌を絡ませ、吐息で呼吸する心地よさ。優しくて穏やかな海に投げ出されているようなゆらめく安堵感。縋り付いていられる安心感。そんなものの全てが好きだった。
 彼の手が自分の薄い胸を服の上からそっと触るようになったのも、自然な成り行きだった。大切な、壊れやすい卵でも扱うようなやわい手の感触を彼女は目を閉じて受け入れた。心臓の音が掌から彼に伝わってしまうのだけが怖かった。
 少年はそれから先には進もうとしなかった。いつか、その時がきたら僕に全てを預けて欲しいといわれてただ頷いた。自分は大切にされていたのだと、本当に彼女が思い知るのはこれから随分先のことだ。
 その時は、彼の体温と呼吸を近く感じていられればそれで良かった。他のこと一切が自分に合わないと分かっていても、いずれは住む世界が違うことを知らねばならないことも、全てを忘れていられた。幸福だった。
 いつまでもそんな日々が続いて欲しいと願っていたのは幼い証拠だったろうか。彼女は主人の家業については全く知らなかった。綿花の不作や麦の不出来から重なった借財がかさみ、軋んでこの家を押し潰してしまうまで、その暗い足音を聞くことなど出来なかったのだ。
 ある朝に全ては消えていた。今までのことが夢のように。