第2章 赤い小鳥3

 最初に不審に思ったのは、いつもの時刻に料理人が来なかったことだ。料理人は几帳面な性格の初老の男で、時間には正確だった。準備が少しでも出来ていないと不機嫌になったから、彼女はいつでも彼よりも早く起き出して、厨房の掃除やら言いつかっている下準備やらをしておくのが日課だった。
 主人達の起きてくる時間になっても、料理人はやってこなかった。彼女は迷いながら、それでも仕事を優先すべく厨房を出た。準備は整っているから自分がいなくても良いだろうと思ったのだ。
 女主人の部屋の扉を叩いても、返答はなかった。まだ起きていないのだろうかと彼女は不安になる。が、絶対に起こせといわれていない日は主人達の眠りを妨げるべきではなかったから、彼女は首をかしげながらも馬小屋へまわる。餌をやりブラシをかけておくのも彼女の習慣だった。
 馬達だけは相変わらずで、いつもの世話係が来たことを理解したようだった。獣特有の温かさに触れながらブラシを丁寧にかけ、蹄鉄の具合を見、餌をやる。
 それが終わって館へ戻ると、先程まで誰の気配もしなかった屋敷の中に人の気配があって、彼女は心底から安堵しながらそちらへ歩いた。
 だが、そこにいたのは見知らぬ男達だった。今まで彼女が触れたことのない、どこか薄暗い雰囲気を持っている。背負う空気が尋常でないことに、彼女は怯えて立ちつくした。
 男達のうちの一人が彼女に気付いて振り返った。ああ、と軽く頷いて歩み寄ってくる。数歩あとずさって彼女は足を止めた。圧倒的なものに呑まれてしまったように、身体が動かない。
 男は彼女を覗き込んでこの家の娘か、と聞いた。彼女は首を振った。家付きの奴隷かと聞かれてそれにはようやく頷く。男はそうかと頷き、来るように手招きした。
 連れて行かれた先はこの家の一番に良い居間で、そこには自分と同じく奴隷階級の者たちが集められていた。どうやら自分が最後であるらしかった。一緒に座るように促されて彼女はいつも可愛がってくれた母親替わりの中年女の隣へ腰を下ろした。
「どうしたんでしょうか」
 そっと聞くと、女はぎゅっと渋面を作って囁き返してきた。
「旦那様が、破産なさったらしい。夜のうちに現金と宝石だけ持って逃げたんだって」
「ハサ、ン……?」
 ぽかんと彼女は聞き返した。耳慣れない言葉だった。そうだよ、と女は溜息になり、これからどうなるのかねえと呟いた。彼女はまだ良く分からなかった。
 前の晩に眠るまでは特に変わったことなど何もなかった。主人一家はごく普通に過ごしており、ごく普通に就寝したはずだ。一夜が明けただけで劇的に何かが変わることなど感覚として馴染まなかった。
 それに、と彼女はそっと周囲を見渡す。少年はどうしたのだろう。一緒に行ってしまったのだろうか――自分を置いて……置き捨てて。
 それに気付いた瞬間、目の前が暗くなった気がした。同時に鼓動が大きく激しく打ち始める。主人の破産という事実よりも、少年に会えなくなったことの方が彼女にとっては重大だった。
 捨てて、と呟くと唇ごとが震えだした。ようやくその意味を全身で理解したのだ。
 屋敷の中を我が物顔に検分している男達はどうやら債権者であった。
 主人一家が持ち去った軽量の宝石類などは諦めて、この館にある絵画や骨董、それに勿論土地と屋敷全て含めての金額の打算に余念がない。半日ほどかけてそれを終えるとそれぞれ荷造りをするように言われた。
 この屋敷を出て行かなくてはならないのだと彼女は悟った。この屋敷に付随するものは全て処分して金に換えるのだろう。奴隷というのは物と同じだ。自分たちもどこかへ売られていくのだろう。
 そのことに対する嫌悪や拒絶は、自分でも驚くほど少なかった。どこに行っても仕事の内容まではそう変わるまいという達観に似た諦めであったかも知れない。
 早朝から深夜まで、沢山の仕事に手を染めて身を粉にして働くことに今更抵抗はなく、だからどこへ売られていっても大丈夫だという確信のような物があった。
 荷造りをしに一度自室へ戻ると、夕日が丁度窓から腰台にまっすぐ差し込んでいた。
 落ちかけた西日の淡い灯火色が、硝子の小鳥に映えて切なくなるほど綺麗だった。
 若様、と呟くと微かに嗚咽が上がってきた。
 住み慣れた屋敷を出ていくことよりも、どことも知らぬ土地へ行かされることも、そんなことはどうでも良かった。
 自分をまっすぐに見て笑ってくれた優しい瞳が二度と得られないのだという悲しみだけが、彼女の全てだった。
 僅かな時間を泣いた後、小さな袋に彼女は簡単な着替えと両親の写真と、硝子の小鳥を入れた。これに詰められるだけだと渡された袋は酷く小さくて、それだけを入れると他の物は諦めるしかなさそうだったのだ。
 荷造りを終えて階下へ降りると、既に他の女達は馬車に乗り込んで行くところだった。その最後に加わろうとした腕を、債権者の男が掴んで首を振った。
「お前さんはこっちだ、いいな」
 彼女は素直に頷いた。出ていく馬車に乗っていた女たちが彼女に向かって手を振り、何か叫んでいたがよく聞こえない。困惑したまま傍らの男を見上げると、男の方は彼女に何かを答える気はないのだろう、黙って首を振り、別の馬車に乗るように促した。
 他の奴隷達と別れた先の旅路は、そう長くはなかった。
 馬車で僅かに北へ2日、見えてきた巨大な城壁に彼女は目を見張った。遠くから見れば距離感さえ分からなくなりそうな、高く分厚い壁が街道筋の遙か先に立っている。呆然とそれを見つめていると、あれが帝都だと債権者の男がつまらなそうに言った。
「帝都……ザクリア、ですか……?」
 それは何かの話にしか出てこない、華麗で風雅な幻であった。美しく着飾った人々が行き交い、目に麗しい通りが並び、昼間の明るい光の下ではきらめき夜の淡い灯火の中では幻想に揺れるはずの、夢のような都。
 だがそれを包むはずの城壁はあまりにもいかつい色をしていた。
 中に入れば尚更落胆は激しくなった。確かに色を揃えたタイルや繁った街路樹などの優しい光景ではあるが、そこにいる人々はごく普通で、話に聞いていた華やぎとはまるで違うことを分からざるを得なかったのだ。
 だが、流石に帝都というべきだろう。その人波も商店の数、通りの数さえも圧倒されるような奔流であった。それによく見れば歩いている人々の服装がどことなく垢抜けているし、化粧も地味ではあるが上手い。少女達の明るい美しさは同性であっても目を奪われた。
 馬車は蜘蛛の巣のように張り巡らされた街路を抜けて、迷わずにどこかへ向かっているようであった。窓から見るもの全てが珍しく、彼女はじっと外を見続けた。
 やがて馬車が止まり、降りるように言われて彼女は従った。周囲の様子は最初に帝都に入ったときよりも格段に薄汚い。恐らく下町と呼ばれている区域であろうと察しは付いた。
 男に手を引かれて街の一角のアパートに入っていく。誰かの家だろうかと思ったら中には帳簿を付けている男が一人いて、どうやらそれは事務所であるらしい。奥の部屋には更にもう一人男がいて、こちらはやはり書類の整理であるようだった。
 しばらく男達が話しているのを聞き流し、彼女は窓の外の帝都の光景を見つめる。季節は盛夏をようやく越したばかり、陽射しはまだきつい。光の反射が作る路地土の白い輝きと、建物の落とす濃い影がそれを能弁に語った。
 小鳥が枝にとまり、枝がしなる。もう一羽が横へ並ぶ。ついばみかわす嘴の仕種に彼女はふと胸の辺りを押さえた。そこには少年から貰った銀の紋様版が下がっている。
 一所懸命に自分が刺繍した硝子の小鳥たちのタイは、一体どうしたのだろう。彼は持っていってくれただろうか。私が、あの人の拠り所に小鳥を持ってきたように。
 そうでないなら悲しかったし、そうしてくれたならなお、悲しかった。
 彼女が唇をきゅっと結んで下を向いたとき、男達がじゃあ、と別れの挨拶を交わしたのが聞こえた。一緒に出ていこうとした彼女の腕を、事務所の男が掴んだ。男の手は酷くひんやりしていた。
「お前は残るんだよ。……暑いかい? 冷たい物でも飲むかね? 少し休んだらお前の行く先を決めなくてはいけないが、なあに、今日の夜にはお前専用の寝台でぐっすり眠れるようになるともさ」
 宥めるような声音が優しく聞こえた。債権者の男はぶっきらぼうで、彼女に対しても殆ど口を開こうとしなかったから、こうした何気ない会話で安堵もしたのだろう。彼女がほっと唇を綻ばせると、男は良いね、と笑った。
「お前は決して美人じゃないし、これから先飛びきりになる保証はないが、笑った顔がとてもいい。素直で素朴で、まっとうな感じがする。なに、化粧の方法さえ覚えればすぐに美人に化けられるようになるさ」
 彼女はそれにも少し笑う。自分が人目を引く美人でないことは分かっている。女の子は残酷なほど、容姿の差は幼い頃から出てしまうものだ。当人の努力などで追いつく部分もあるという希望を与えようとする男の言葉はいたわりに満ちていた。
 日が落ちる前に、と男に促されて彼女は事務所を出た。乗ってきた馬車の影はもうどこにもなかった。
 しばらく歩くと地面から生えたように立つ、二本の柱が見えた。そこを通過すると周囲の様子は切り替わるように変化した。
 今までもそう綺麗とは言えない町並みであったが、そこは更に汚かった。煤けた赤い格子の店棚と、やけに毒々しい色の金泥の紋様だけが目に付く。古びた塗りや剥げかけた模様がみすぼらしく、どこか生々しい。
 これも帝都の一部なのだろうかと思うと足が竦んだ。怖かった。
 怯えた様子の彼女に男は宥めるように笑った。
「この町はお前と同じで、素顔はあんまり美人じゃないんだ―――だけど、夜になってちゃんと化粧をすれば違う、すぐに分かるよ」
 男の朗らかさに押し切られるように、彼女は頷いた。
 男はさあと殊更に明るい声を出して彼女の手を引き、柱をこえてまっすぐに続く通りに面した大きな格子棚の店に入っていった。
 中は女達ばかりであった。美しく着飾った衣装は何故か揃ってみな赤い。意匠は少しづつ違うのか、金糸でかがられた刺繍の模様が多様だ。
 女達は一斉に彼女を見たが、誰も近寄ってこようとはしなかった。奥から中年よりも多少年齢のいった女が出てきて彼女をちらと見、そしてすぐに首を振った。
「駄目だよ、若い娘が欲しいとはいったけどね、もうちょっと見栄のするのでないとうちにも格ってものがあるんだから」
 はっきりした拒絶に彼女は僅かに怯んだ。それに追い打ちをかけたのは、女達の一斉のささめきのような笑い声だった。
 男は舌打ちし、彼女の手を引いてその店を出た。
 次に行った店でも、その次でも、殆ど異口同音に出てくるのはもっと綺麗な娘でないと駄目だという拒絶だった。彼女は次第に重くなってくる足を引きずるように、自分を連れて歩く男についていった。
 5軒目に断られたとき、とうとう彼女は啜り泣き始めた。
 前から自分が美しくないことくらいは知っていた。人よりも少し大きい瞳だけが特徴の、何の取り柄もない平凡な顔立ち。あの少年の優美さに気圧され、今日出会った沢山の女達に圧倒されるだけの惨めさをなんと表現して良いかさえ、分からない。
 かぼそく泣き続けることだけが出来た。
 男は足を止めて溜息になった。
「泣くな泣くな、あのかあさん方はちょっと見る目がないね。俺はお前さんがきっとよく稼ぐ娘になると思ったから良い所へ連れて行ったのに」
 それでも嗚咽の止まらない彼女に、男は明るく笑いかけた。
「いいかい、確かにお前は目を引く美女じゃない。それは分かってるだろう?」
 諭すような穏やかな声音に、彼女はこくりと頷いた。良い子だねと頭を撫でられて、自分がとても幼くなった気がする。
「だが、お前には何かがある。――自分の容姿が気になるかい? そばかすがいやならあまり日に当たらないことだ。もう少しちゃんと肌をお磨き。お前は肌が白いし、白い肌に黒髪はよく映える。ねえさんたちに化粧の方法を教わって綺麗にして着飾れば、お前を気に入る客はたくさんいるだろうよ」
 彼女は頷いた。男の言葉は慰め以外の何でもなかったが、自分の気を休めてくれることの方を優先したのだ。ぎゅっと唇を噛んで嗚咽をどうにか飲み込んでいると、男がやあ、と明るい声を出した。
「ほらごらん、タリアに灯りが入る」
 言われて彼女は顔を上げ、微かに吐息を漏らした。
 遠く晩鐘が響いている。それが合図なのだろう、通りに面した赤い格子の店棚に一斉に篝火が焚かれていく。
 炎の色が街角に立ち始めた途端、先程まで汚らしく古びた色を呈していた赤い色が沸き上がるように濃厚になった。金泥がきらきら、灯りに映える。
 通りごと朱泥に浸かったように赤い。赤い中に黄金の川が流れるように、金色の沢山の紋様が踊る。
 化粧を終えると先程男が表現した意味が分かった。
「すごい……」
 思わず漏らした呟きに、男はそうだろうと満足そうに笑って彼女の手を引いた。大通りの店を諦めたのか、男は路地の方へ入っていく。路地といっても同じように明るく火が焚かれており、通りはやはり濃い赤に染まっているのだった。
 最初に連れて行かれた店よりは小さめの店の扉を男は押した。今までと同じように奥から出てきた中年の女は彼女をじっと見つめ、ふうん、と首をかしげた。奥へ上がるように言われたのは初めてだった。個人の部屋というよりは応接室であろう。そのソファに座るように言われて従うと、女は改めて彼女をまじまじと見つめた。
 先程の女達の淡い笑い声が耳に戻ってきて、彼女はつい俯く。女はすかさず、顔をお上げと言った。強い語調に僅かに身をひくと、女は今度は苦笑になった。
「……どうだいかあさん、悪くはないと思うんだが」
 男の声に女はそうだねえとゆるく笑う。かちかちいうのは火種石だろう。この女は煙草のみらしい。
「悪くはないが。化粧しだいかね……ねえ、お前、名前は」
 彼女はやっと顔を上げた。名を聞かれるのは元の屋敷を出てから初めてだった。
「……リィザ、です」
「ふうん、『矢車草』か。可愛い名前だ」
 父の命名を誉められて、ようやく彼女は少し笑った。その控えめな笑みを見て、今度は女は大きく頷いた。
「なるほど、笑うとちょっと違うね……いいだろう、貰うよ」
 男と共に彼女もまたほっと息をついた。
 男を帰した後で、女はこちらへおいで、と手招きした。彼女は素直に女の側に寄った。化粧の匂いがぬくやかで、安堵を呼び起こした。
「ここがどんな店だかは分かる?」
 聞かれて彼女は首をかしげる。入ってきた一階には酒と料理の匂いが満ちていたから料理屋ですか、と聞くと女は困ったように笑った。
「違うよ。料理も酒も出すが、本当の売り物は娘達だね」
 意味が良く分からない。彼女は急に不安になって、あの、と細い声を出した。女は軽く頷き、あたしのことはかあさんとお呼びと付け加えた。
「うちに限らずどの店でも、女将はかあさん、遊女は娘、先に入った方がねえさんで後から来たのがいもうとだよ、覚えておおき――で、何だっけね」
「あの……娘たちを売るって、どういう意味ですか……?」
 女将はその質問に暫く考えていたようだった。彼女は首をかしげて自分の雇主となった女を見つめた。何だか、肝心の部分にもやが掛かったようになってしまって良く分からない。困惑しきって俯くと、女将の生温い吐息が聞こえた。
「……お前は何も知らないんだね。男と女のことは分かる?」
 微かに彼女は赤面しながら頷いた。一応のことは初潮を迎えたときに、女中頭から聞いている。ただそれはいつか結婚したらという注釈付きで、決して売り物になるようなことだとは思われなかったのだ。
 少年のたどたどしい手の動きが不意に身体の奥から戻ってきて、彼女は震えた。あれだって怖かった。相手が彼だからじっと耐えていたというのに――
 そこまできて、やっと彼女ははっとした。自分の仕事が何であるのかを理屈でなく悟ったのだ。
 微かにあげたはずの悲鳴は喉で凍り付き、掠れた吐息にさえならなかった。
「わ、わ、私、私は、下働きだと……」
 言葉までが小刻みに震えていて、既に文脈にさえならない。女将は首を振り、やや困ったような表情で彼女の頬を撫でた。
「ここに来るまで誰もお前に説明しなかったと見えるね――まあいい。お前の仕事は客と寝ることだ。ここの仕組みなんかが分かるまでは暫く下働きの真似でもしてもらうが、いずれ、そうしてもらうからね」
 言葉を誤魔化したりしないのが女将なりの優しさだと、彼女が気付いたのはずいぶん後のことだ。
 この時は女将の一言一言が突き刺さるように耳を打つだけ、ひどくそれが胸に痛いだけであった。
 お願い、と彼女は女将の袖を掴む。その手はどうにもならないほど痙攣し、白く蝋けていた。
「それだけは、お願い、他のことなら何でもします、本当に何でも……」
「何でもする、何てことを気軽に言うんじゃないよ。幾ら泣いてもこれは決まったことだからね、恨むならお前を売った相手にしな……でもね、いくら恨んだところで何も変わりゃしないんだから、もっと他のことに頭を使う方が得だよ」
 そんなことを言って女将は彼女の睫の辺りをそっと撫でた。押されるように目を閉じると、微かににじんでいた涙が目の周辺を濡らした。
 女将の指がそれを丁寧にこそぐ。指先の熱が優しく思えて、彼女はお願いです、と胸の底から声を絞り出した。
「私、好きな人が……」
「そんなのはどの娘も同じだよ」
「でも約束を……」
「みんなそうだよ。お前だけ特別というわけにはいかないんだ、分かる? あたしが今ここでお前を可哀相だと思って赦せば今まで同じ事を言った娘たちにどう言えば良いんだろうね?」
 それは、と言ったきり彼女は黙った。女将の言葉に何かを返したいとは思うものの、何を言って良いのか見当がつかない。たった一つ分かることは、自分の論理では女将に太刀打ちできないということだけだ。
 彼女は俯いた。女将の袖を掴んでいた手がそっと外されて、しっかり握り込まれた。
「泣くんじゃない。いいかい、泣いてどうにかなることなんて、世の中には無いんだよ……」
 それに頷いたかどうか、彼女ははっきりと覚えていない。顔を覆って泣き出したのは確かであったが、その後のことは曖昧なままだ。
 女将がゆったりした優しい声で、気が済むまで泣けばいいかと言ってくれたのは呆れていたのかいたわりなのか、そんなことも判別する気力無く、彼女は泣いた。
 ひたすらに泣き続けた。
 ――これが彼女、リィザ=ラグロゥのタリアでの第1夜となった。