第2章 赤い小鳥 5

 どれくらいの期間を泣き暮らしていたのか、リィザは数えていなかった。
 悲しい、と思う。思えば涙が出る。切ないとも苦しいとも怖いとも思えば女将が呆れるほど容易く涙がこぼれてくる。自分はどこかがおかしくなってしまったのではないだろうかとリィザは泣きながら思い、でも、と強くその度に胸の間にひっそり収まる銀の紋様版を握りしめるのだ。
 ――会いたい。きつく目を閉じれば、瞼の裏には遠い面影が微笑んでいる。彼の優しい手がそっと触れた以上のことを、更に進んだことをこの身体に加えるのかと思うだけで、身体の真芯から冷える。未だに知らぬ領域への本能的な恐れと共に、根深い嫌悪が身体を縛り上げてしまうようで動けない。
 凍り付いてしまった四肢の内側の、泣き続ける心にだけ、血が通っている。
 リィザは自分の首から下がったままの紋様版を硬く握りしめる。これをくれたときの少年の微笑みや紋様版に漂っていた彼の気配を思い出したいと願いながら。
「――神様……」
 喉嗄れてしまったような声でひたむきに繰り返す言葉は同じだ。助けて欲しいとそれだけを願っている。いつもと同じ言葉を呟くと、また目の奥が熱く潤んできたのが分かった。
 その前日まで、彼の様子に全く変化はなかった。リィザは予兆さえ感じることが出来なかった。どこへ行ってしまったのだろうとか、何故だとか、そんな疑問は既に流されて見えなくなってしまっている。
 無事でいるだろうか。今、何をしているのだろうか。その二つばかりが交互に脳裏を浮かんでは沈んだ。
 少年は両親と共に行ったのだろう。債権者が押し掛けることを思えば親戚筋は危険だし、親の元に子があるのが自然だ。それに、親を捨て家を失った上でリィザ一人を連れて逃げおおせることは不可能だ。
 もう会えないだろうと薄く感じていることを、リィザは自分で認めたくなかった。そう思ってしまったら最後、本当に再会できない気がして怖い。明るすぎる未来ばかりを描けたわけではないにしろ、少年との恋が彼女を支えていたのは確かだったから。
 少年の名を呟き、リィザは自分の唇をそっとなぞった。そこにいつかあった優しい温もりを取り戻したかった。
 微かに熱っぽい吐息を落としていると、与えられた小さな部屋の扉が叩かれた。外から呼ぶ声は女将の声であった。慌てて扉を内側に開くと、女将はリィザの顔をちらと見て大仰に肩をすくめた。
「また泣いていたと見えるね。よくもまあ、そんなに泣くことがあるものだ」
 声音はさほど不機嫌でもなければ苛立ってもいない。呆れているのだ。リィザは俯き、小さく済みませんと呟いた。女将は溜息になったようだった。
「泣いてたって何も変わりゃしないんだって、何度言ったら分かるのかね、この子は」
 リィザはそれには返答をせず、ただ更に深くうなだれた。女将はいいよいいよと軽く言い、彼女の肩を数回叩いた。
「それはいいから、今日こそはもう働いて貰うよ――そんな怯えた顔をおしでないよ、いきなり不意打ちで水揚げということは私は嫌いだからね。お前がちゃんと事情を飲み込んでくれるのが一番いいんだ」
 一瞬強張った表情をリィザはやっとゆるめ、黙って女将を見た。騙しうちにはしないという言葉を信じる程度には、女将の人為が飲み込めてきている。そうしない、と彼女がいったならそれは本当だろう。
「――仕事……ですか」
 遊女でない者の仕事というものが何であるのか良く分からない。リィザが困惑したように首をかしげたのを見て、女将は軽い溜息をついた。
「今日は若い連中の貸し切りになってる――他の娘達のお使いと、下準備をね。字は大丈夫って言ってたから、宴会の給仕もしてもらうよ」
 てきぱきと指示されて、リィザは頷いた。使役奴隷であったせいなのか、他人から指示を受けると無条件に頷いてしまうところが彼女にはあった。
 遊女達から買い出しの希望を聞き、それを簡単な書き付けに起こしてリィザは妓楼を出た。一人でそこを出るのは初めてだった。泣き暮らして涸れて死んでしまいたいと思っていた頃に数度、女将が外へ行くときに同行している。
 女物の小物や化粧品を扱う店はタリアの中に分散しているが、大抵は妓楼に出入りする特定の業者がいる。彼らの持ってくる見本帳をめくって遊女達は自分の欲しいものを指定するのだ。店の方には女将と共に足を運んでいるから地理は問題なかった。案内ということだけであれば。
 店はタリアの最浅部周辺にある。頼まれた小物の名を店員に告げて店先の椅子に腰掛ける僅かな間、店の硝子窓から目をやればすぐそこにタリアと通常の世界の区切りである二本の柱が立っているのだ。
 ――あそこを抜ければ。
 リィザは僅かに瞬きをする。
 あの2本の柱を抜けてしまえばそこは彼女が以前住んでいた世界だ。僅かに息を潜めて駆け抜けてしまえばあの温かで幸福だった日々が待っているような錯覚さえ呼び興ってくる。それは幻覚だ。幻覚だと、自分の夢想だと、頭のどこかで弱々しく囁く声を聞くことが辛い。
 辛さはすぐに痛みに変わって胸を貫く。細く。
 リィザは微かに唇を噛み、柱から視線をもぎはなしてじっと俯いた。
 帰りたかった。自分の帰還できる場所などもうどこにもないと知っていても、ここではないどこかへ帰りたかった。逃げ出したいという衝動が僅かに足下から忍び寄ってくる。
「……お嬢様?」
 強く呼びかけられてリィザははっと我に返った。注文の品を入れた籠を持った店員が、所在なく立っている。お嬢様というのが自分のことであると気付かなかったのだ。慌てて立ち上がり、中身を確認して外へ出る。代金は商店から月末にまとめて請求が来るのだ。
 外は薄暮にかかり始めていた。宴会は通常日が落ちてからだから、下準備をも手伝うならばもう帰らなくてはいけない時間だ。
 けれど、どこへ。
 リィザはじっと柱を見つめる。あの向こう側、僅か数十歩の先に走り出せば助かるかも知れないという囁きは、先程よりも遙かに大きく、強かった。
 帰りたい。呟いた瞬間に、脳裏に再び恋しい面影がよぎった。
 帰りたい。帰りたい、あのなだらかで平和だったあの日々へ。あの人の腕の中へ。身体の温度で癒されて幸福だと信じていられた遙か、――遙か、遠い過去へ。
 帰りたいと繰り返して呟いたとき、自分の声が低く濡れているのに気付いた。逃げ出したいというよりは、それは遙かに回帰衝動に近かった。今居る場所がどうしても自分の身に合わない、その現実からも目を背けてしまいたい。
 帰りたい。帰りたい。その言葉だけが胸の底から、心の奥から、ただひたすらに込みあげてくる……
 ふらりと最初の一歩が出た。いけない、とリィザは思う。だがその制止はひどく弱くて自分を止めてくれる力にはなり得なかった。
 何かに酔ったようにふらふらと柱の方へ行こうとした、その時だった。
「――お前、見習いだろう?」
 低い声と共に肩に置かれた手が、リィザの意識を現実へ引き戻した。ぎくりとして立ち止まり、それから恐る恐る振り返るとそこにいたのはまだ年若い男であった。左側の袖が肩から軽く風になびいている。そこに中身がないとすぐに分かった。
 リィザの視線がそこへ行ったのに気付いたのか、男は苦笑した。
「左腕は2週間くらい前に無くしたんだ。生えてくるのを待ってる」
 まるで財布を落としたのだというように軽く言い、男は右手でリィザの腕を掴んで僅かに自分の方へ引き寄せた。
「……どこかの妓楼の見習いなんだろう? あの柱を越えたら酷いことになる、あまり遅くならないうちに自分の店へお帰り」
「あの……私」
 何かの言い訳を探して唇を動かし、リィザは俯いた。ここから逃げ出したいという瞬間の思考を、まるで見透かされていたような男の口振りに微かに恐れが忍び寄ってくる。女将に知れてしまったらと思うと、叱られるという恐怖よりも信頼を裏切ってしまったという罪悪感の方が胸を刺した。
 リィザが黙っているのに男はゆるく笑い、ちゃんと帰れよ、と念を押した。
「その白い衣装は妓楼の見習いの印だから、あそこを出て1日もたたないうちに掴まるよ。タリアの自警衛士ならいいけど、脱走した女を専門に狩る連中だっている。そんな連中に掴まったら終わりだ」
 淡々と語られる内容に、過剰な恫喝は感じられなかった。だからこそそれは事実であると信じることが出来た。リィザは僅かに身震いし、尚更深く俯いた。
 今リィザが着ているのは白い簡素なワンピースだ。遊女達の衣装は赤地に金と定まっており、いずれ遊女となるべき見習いは白となっている。それはタリアに店を構える妓楼全体に共通する規範であった。
 この衣装はそうしたときの目印でもあるのだ。いつか客を取る身であることを報せるための、どこかの妓楼の抱える身であることを教えるための。
 リィザは男に深く頭を下げた。逃げられないのだと思った瞬間にまた、涙が上がってきそうになったからだ。それを無理矢理飲み込もうとしていると、男が大丈夫か、と宥めるような声を出した。
「道が分からなくなったのなら、送っていこう。お前はちょっとぼんやりだな」
 こつんと額を指で叩かれて、リィザは首を振る。迷っていたのは道ではなかった。
「大丈夫です。あの……あ、ありがとう、ございました……」
 それだけを言い捨てるようにして、リィザはくるりときびすを返した。早足だった歩調がすぐに小走りに変わった。
 走りながら息苦しくリィザは目を細める。
 逃げたかった、帰りたかった、どこでもいいから投げやりに全てを放擲したかった。それを見透かしていたように、男は自分を呼び止めた。多分、あれも運命だったと思えるほどに。
 殆ど逃げ帰るようにして妓楼へ帰り着くと、女将がお帰りと微笑んだ。この場所こそが帰るべき所なのだと念を押されたような気持ちになり、リィザは僅かに切なく目を細めた。女将は籠の中身を簡単に確認するとさあ、と彼女の背をさすった。
「あっちで顔を洗ってあたしの部屋へおいで。化粧と髪を直してあげようね、ご褒美だよ」
「ご褒美……?」
 そう、と女将は笑い、下働きの少女にリィザの持ってきた籠を渡して遊女達に中身を振り分けるように言いつけた。少女が頷いて消えるのを待って女将はリィザの頭を丁寧に、優しく撫でた。
「お前はちゃんと帰ってきた――ここへね。良く戻ってきたね。逃げ出したってすぐに掴まるんだってことを、10人に一人くらいは経験するんだよ。お前は逃げなかった。だから誉めているんだ。……お帰り、あたしの娘」
「……私……」
 逃げようとはしたんです、という言葉は喉に引っかかって発することが出来なさそうだった。リィザの様子に女将は少し笑い、いいんだ、と簡単に流した。
「顔を洗っておいで。綺麗になれる魔法をかけてあげよう。――今日の宴席はタリアの裏のチェインって辺りに溜まっている若い連中のだから、年齢の近いのも沢山居るよ。気楽に話くらいしておいで」
 僅かにリィザは怯む。既に店に上がり込む客としての彼らを見知ってはいたが、彼らは一様に年齢若い者特有の残酷さを持っているように思われた。この店に辿り着く以前に男に連れられて巡った妓楼で聞いた、微かに哀れむような女達のさわめきが耳の奥に蘇ってくる。
 僅かに青ざめたのが分かったのか、女将はどうしたの、と彼女を覗き込んだ。
「そんな顔をするんじゃないよ。折角可愛い顔立ちだっていうのに、台無しじゃないか。お前はもうちょっと自信を持った方がいい。だから魔法をあげようと言っているんだから早いとこ顔を洗っておいで」
 ほら、と背をつつかれてリィザは頷くが、不安は拭えない。丁寧に顔を洗ってふと鏡を見ても、そこにいるのはいつもと同じように怯えた目つきの痩せぎすな少女でしかない。
 黒い髪。黒い瞳。
 少年はいつも黒曜石のようだとか夜闇の静かな美しさに譬えてくれていた……
 いけない、と思ったときにはもう涙になっている。これほどまでに恋しい気持ちを抱えてこれから先、どうして生きていけばいいのかリィザには分からない。
 だが、今すべきことは明らかであった。リィザは帰りたいという呪文が再び浮かんでこようとするのを押し込め、もう一度、今度は冷静になるために顔を洗った。