第2章 赤い小鳥 6

 宴席というには無秩序な享楽であった。彼らのために用意されたたっぷりの食事も酒も、腹を空かせた獣が貪るように、あっという間になくなっていく。遊女達への戯れも直裁だ。
 元々遊女の服だから、その衣装は結び目を一つか二つほどいただけで簡単に脱がせることが出来るようになっている。半裸に近く剥かれた遊女たちの、それでも華やかに笑い交わす声と相まって1階の食堂と待合室を全てつなげて作った即席の広間は酷い喧噪だ。
 それでも彼らはましな方なのだ、と女将に言い含めてもらっていなければ怯えて広間に入ることさえ出来なかったろうとリィザは思う。
 それほど彼らは無遠慮で、粗野の塊のようにさえ見えた。
(あいつらはそれでも大分ましだよ。あの連中を締めてる頭がうちの馴染みだから、そう無体すぎることはしない――チェインにもまあ沢山の派閥があるようだが、今日のは正真正銘、チェイン王の宴席だからね。連中も、自分たちの頭の機嫌を損ねることはしないから安心して行っておいで)
 チェイン王、と聞き返すと女将は苦笑し、それを少年達の上に立つ少年王の呼び名だと教えてくれた。
 タリアを束ねているのがタリア王でこれが大人達の王であるとするなら、タリアの中の更に真奥に位置するチェイン地区にたむろする少年達の王はチェイン王であり、即ち少年王なのだ。
 少年王自らの臨席というのがどれほどの意味や価値を持つのか良く分からない。だが、この宴席に出入りしている少年達の数は半端ではない。
 席を持ってくつろいでいるのが十数名いるがその下にもまだ配下がいるようで、おこぼれを貰いに入れ替わり立ち替わり目が回るような人数が行き来している。少年達の数は全体で2000人を越す程度と聞いているが、それよりも遙かに多い気さえした。
 酒や食事の追加を聞くだけでも目が回るほど忙しい。これが一体どれだけの金額の宴席なのかは知らないが、少年王の懐だとするなら感嘆するばかりだった。
 言いつかった酒を持って広間に戻っていく度に、場は乱れていた。男女のことを一応程度に知っていたリィザには刺激の強い光景で、一体どこへどう視線をやったらいいのか困惑することしきりだ。
 戯れ程度に身体のあちこちに手を伸ばしている者、泥酔している者、そして他人の目など気にならないというようにか遊女にのし掛かる者。普段外から内側の遊女達を観賞できるようにと作られている赤い格子には全て簾が降りてはいるが、声は漏れているはずだ。
 大分ましというのはどこがどう「まし」なのか、女将にもう一度聞いてみたくなる。
 リィザはなるべくそうした連中に目をやらないように給仕に専念しようとした。そうやって忙しく立ち働いていれば目に留まらないと思ったのだ。
 が、それも甘い考えであった。女将が上機嫌に可愛くなったよと誉めてくれた鏡の中の自分は、いつもより更に目が大きく肌が美しく見えていた。魔法といった意味がそれで分かった気もしたが、目立たない方が良かったと少年が腕を掴んで無理矢理座らせたときに思った。
「新入り? ねえ、水揚げはまだ? なあ、座って酌くらいしてくれたっていいだろ?」
 酔った吐息に思わず顔を曇らせると、少年の癇に障ったのか、いきなり引き倒される。悲鳴さえ出ない。
 怖くて怖くて、身体全体が凍ってしまったように固まっている。
 怯えた獲物の様子に少年は意地悪く笑い、共にいた仲間達に目配せをした。あっという間に取り囲まれてしまった輪を抜けようとしても、ぴったりと身体を寄せてきて尚更彼らの輪の奥へ押し込められる。
「いいじゃない、そのうち客になってやるからさ……」
 そんな呟きが聞こえた瞬間に、腰がぐいと引き寄せられ、ワンピースの上から胸の膨らみが掴まれた。
 一瞬走った電流のような痛みに思わずリィザは呻き、慌てて身体をひねった。やめて下さいとやっとの思いで絞り出した声は、彼らの奇妙にはしゃいだ声にかき消されて殆ど聞こえなかった。
 口を塞がれてがっちり押さえ込まれた身体を、幾本もの手が這い回る。やがてそれがスカートの中へ潜り込み、一番奥の部分をまさぐり始めてリィザは喉を鳴らした。嫌悪よりも遙かに強い恐怖が駆け上がってくる。
 ふりほどこうと必死でもがいていると、突然それが止んだ。少年達の嬌声が一瞬止んで、すぐさま怒りの吼音に変わる。離れた手からやっとすり抜け、リィザは服の裾を掴んでじりじりと後ずさりながら彼らを見つめた。
 目に入ったのは少年達の周囲に散らばる氷と、そして遊女の証である赤い衣装の裾だった。
「あんたたち、適当も程が過ぎると良くないわよ」
 声はまだ若い。リィザが視線をあげていくと、不機嫌な表情で佇んでいたのは先輩の遊女だった。源氏名はシアナという。きつめの線で構成された顔立ちの、美しい少女だ。
 シアナはリィザを見て、行きなさいと顎をしゃくった。助けてくれるのだと悟ってリィザはよろよろ立ち上がった。年齢は変わらないと知っているが、既に彼女の方は客を取り始めて3年ということもあって、少年達のあしらいも心得ているようだ。
「――向こうへ行って、着付け直して、髪もほどいておいでよ。こんな連中に着飾るのも馬鹿馬鹿しいったらありゃしないわね」
 斜な口でそんなことを言い、シアナはふん、と鼻を鳴らした。その言い草に少年達が殊更に怒り立てようとしたとき、更にその後ろから低い声がした。
「見習いに手を出すくらいなら、女を取れ。馬鹿だな、何のための妓楼だと思ってる」
 新たに出現した男の声に、少年達が一斉に沈黙した。ちらちらとお互いを俯いた視線で見交わし合っていたが、やがて一人が済みませんでした、と呟いたのが聞こえた。
 男の声には自然な威圧が備わっていた。これがチェインの王だろうかとリィザは声の主に目線をやり、軽い驚声をあげた。
 それはつい先程彼女の衝動を止めた男であったのだ。
 男の方はそれでリィザに気付いたらしい。ああ、と小さく笑った。
「なんだ、お前か。……大丈夫か、とお前に言うのは二度目だな。ここの妓楼の見習いだったのか」
 見習いかと問われれば頷くしかない。こくりとすると男は苦笑した。
 ねえさんにもお礼を言いなと付け加えられてリィザは助けてくれた遊女を見た。シアナの方はつまらなそうに肩をすくめると、ぼんやりしてるからよ、と口にして彼らにぶちまけてくれた氷桶を拾って戻っていこうとする。
 リィザは男に軽く会釈してそれを追った。追いついてねえさんと呼ぶと、シアナはちらっとリィザを振り返り、溜息をついた。
 気に入らないことをしたのだろうかという反射的な怯えでリィザは僅かに怯む。主人達の機嫌を敏感に察していた毎日の積み重ねが、他人の不機嫌にひどく鋭い反応を引き起こした。
「あの、私、何か……」
 言いかけるとシアナは別に、とすらりと口にした。冷淡というよりは無関心であるような響きであった。リィザがそれにも過敏に反応すると、シアナの方はやや困ったような顔をしてリィザに向き直った。
「あんたね。びくびくするの止めてよ。あたしが何か悪いことでも言った? 言っておくけどね、目を付けられたのは不運だったけどその後はあんたがびしっとしないからよ? 若いほど歯止めが利かないんだから、最初にもっと適当にあしらうべきね」
 忠告してくれているのか怒っているのか、その口調からは推し量れなかった。
 シアナの言葉はどれも鋭くて、はっきりとしている。それでも咄嗟に氷を彼らに浴びせてリィザを救ってくれたのは事実だったから礼を言うと、今度はシアナはくすりと笑った。
 細い線で美しく構成された端正な顔立ちは、そうすると悪戯っぽくなって煌めきを増した。綺麗な人、とリィザは眩しくそれを見つめる。リィザは大きな目と素直な雰囲気を持っている、どちらかというなら純朴な可愛らしさの少女だったが、シアナの場合は逆だ。匂うように華やかで、揺らめくように美しい。
 少女である年齢を超えていけば、いずれ相当な美女になるだろうと思われた。
「……あんたはさ、周りを気にしすぎなの。お礼をしてくれるなら氷、取ってきてよ。その前に着替えて、髪をどうにかしといで。かあさんが折角してくれたんだろうに、馬鹿な奴らのせいで台無し」
 冗談なのだろうか、自分の言葉に小さく笑うとシアナはじゃあね、とリィザに背を向けた。彼女の侍る席を記憶につけて、リィザは一度自室へ戻った。
 彼らの仕業で髪は乱れ、衣装も滅茶苦茶になってしまっている。女将がしてくれたようには自分では出来ないから、髪はほどいて丁寧に櫛を入れてとき流すしかなかった。
 新しい衣装に着替え、氷を持ってシアナの所へ行くと、ご苦労様、と先輩の少女はそれだけを言った。彼女の中では先ほどのことは全て終わっているようであった。彼女は同じ席に着いている少年と雑談に熱中している。馴染みなのだろう、その様子はとても気安く楽しげであった。
 邪魔をするつもりはなかったから、リィザはすぐにそこを離れる。目の端に誰か手招きしているのが入って視線をやれば、それはあの男であった。
 自由になる方の右手でリィザを招き、自分のグラスを軽く指で弾く。
「酒を作ってくれ……さっきの連中のことは気にするなよ」
 穏やかに言われてリィザは頷く。
 恐怖と嫌悪でどうにも身体が動かなかったのは自分の臆病さのせいかもしれない。シアナはもっとしっかりしろという意味のことを言った。いつまでも泣き暮らしている自分を、遊女の側から見ればもどかしいのかも知れない。
 男に酒を調合して出すと、男は少し笑って口を付けた。
 男には備わった風格のような気配がある。それに、リィザを側にとりとめのない話をしながら飲む男にはひっきりなしに少年達が挨拶に訪れた。その誰もが敬語を使い、この広間全体に満ちている野卑た空気など払拭した顔で現れる。
 男は大抵ディーと呼ばれていた。挨拶が一段落ついたあたりでリィザは男を見上げた。彼は体格が悪くはない。左腕がないことだけが欠陥のような、よく引き締まった、鍛えられた体つきをしている。美形というわけではないが精悍な空気がよく似合った。
 チェイン王であるのかという質問に、ディーは一瞬面食らったように目をしばたき、そして笑い出した。
 その声は朗らか過ぎはしなかったが十分明るくて、リィザは安堵を覚えた。
「俺はただの幹部だ……ただの、といっても幹部は6人しかいないがな。だから俺の所に顔を繋ぎたい奴が来るのさ。俺についていればライアンに近いと思うんだろう」
 ディーはそんなことを呟いて皮肉げに頬で笑った。それに何と返していいのか分からずにリィザは俯く。沈黙をどう埋めていいのか見当がつかない。
 何か言った方がいいのだろうかとそわそわそんなことを考えていると、ディーの方はゆるく笑った。
「……お前は本当はこんな商売には向かないのかもしれないな。何も考えないのも時には手だが」
 リィザは曖昧に返事をする。向かないというならば確かなことであるように思われた。自分に出来ることは主人の機嫌を窺うことであって、取り持つことではないのだ。主人の命じたことに素直に従っていればそれで良かったはずなのに、どこで何が狂ってしまったのか、まだ理解が出来ない。
 ディーはリィザが客慣れしていないのを分かったのだろう、それ以上は特に話しかけては来なかった。暫く俺の側にいればさっきみたいな馬鹿どもは減ると言われて彼の酒を作り足したりこまめに料理を取り分けたりだけをしていると、ふっと音がやんだ。
 それは劇的な瞬間でもあった。今まで聞こえていた嬌声も、明るくも淫猥でもあった笑い声もがなり声も、何もかもが聞こえない。一瞬自分の耳が聞こえなくなったのかと思うほどに、しんと静まり返っている。
 と、隣で酒を飲んでいたディーが立ち上がった。
 それを合図にしたようにか、全員がそれに倣っていく。今まで戯れに遊女達にしなついていた彼らの面差しから浮ついた気分も酒精さえも抜けて、緊張という糸に引かれるように誰もが背を伸ばして立ちつくしている。
 ぱたん、という軽い音がした。静寂になってからそれが初めての物音であった。妓楼の扉が自然に閉まった音であろう。それが再びの沈黙に馴染んだ頃、足音がした。木張りの床を踏む足音は、ごく小さい。
 だが、注視の塊がゆっくり歩いてくるのは分かった。
 リィザは伏せた面輪をそっとあげて、その音の方向を見た。
 広間を奥へまっすぐに歩いてくる影は、まだ青年期の初端に連なる年齢の男だった。脇に何か大きな、細長い荷物を抱えている。
 薄い茶色の髪は首筋にまつろう辺りで乱雑に切られており、端正と言って良い整った顔立ちではあったが、底冷えするように重い視線だけが目に付いた。
 ――怖い。
 リィザが感じたのは、ただ恐怖であった。表情が殆ど無いことも、少年達の息詰まるような注目を全く介さない無関心さも、その恐怖を煽った。
 何より、彼の身に付いている厳しく凍り付くような、壮絶な空気が怖い。
 迂闊に触れれば切れそうなほど。
 微かに震えているリィザの前を通りかかったとき、男はふと視線を流した。ディーが会釈するのが見えた。
「この前は災難だったな」
 聞こえた声も低く、抑揚もほとんど無かった。ええ、と頷くディーの声音には一種の緊張と心酔の入り混じったものが紛れている。
「しかし、腕1本でどうにかなるなら安いものだ。そうでしょう、ライアン」
 小さく男は笑ったようだった。
「お前の新しい腕だ、受け取れ」
 男はそう言って抱えていた包みをディーへ投げ寄越した。一部が解けて中から人の手が覗く。女達の小さな悲鳴が上がったが、それを手で均して男はまっすぐに広間の最深部へと歩いていった。一番の上座が今まで空いていたことに、やっとリィザは気付いた。
 そこは王の席としてはあまりに小さく、ぽつんと一つだったからだ。
 男がチアロ、と呼んでいる。それに応えるように先程までシアナと雑談に興じていた少年が彼に駆け寄っていくのが見えた。
 その途端にほうっと周囲が溜息をつき、以前のような雑多なざわめきへと急速に空気がぬるんでいったのが分かった。
 リィザは再び座って先程の包みをディーが開けるのを手伝う。人の手だと思ったのは半分当たりだ。それは良くできた義手で、何のせいなのかひどく重たかった。
 リィザがどうにか悲鳴をあげなかったのは、彼女が一番近くでそれを見ていたからであろう。さすがに人の肌であるか否かは分かる。
「あれがチェインの……俺達の王だ。ライアンという」
 ディーが先程のリィザの誤解を丁寧にほどくように言った。リィザは頷いた。確かにそれは桁が違う。存在感も、空気の重さも、何もかもが誰よりも重い。
 王という古風な呼び方の意味さえ、身に感じるようだった。
 ディーはライアンから渡された義手を検分していたが、やがて頷いた。いい手だな、と呟く声には仄かな感謝が滲んでいる。
「……生えてきた、んですか?」
 リィザが囁くと、ディーは淡く笑った。
「そうだな。この腕のいいところは斬られても殴られても痛くないことと、駄目になったら生えてくるところだ――しかも大体はライアンの奢りときてる」
 リィザはついくすりと喉を鳴らして笑った。彼の持つ空気はなだらかで、ようやく安堵できるほどの会話になった気がする。
 ――と、不意にディーの視線が自分に向いたのに気付いてリィザは不思議に目を瞬いた。
 お前、とディーは言いかけ、そして苦笑した。
「……お前、笑うと少し感じが変わるな。そう言われたことはないか」
 この妓楼へ売られてきた初日に女将も、そして自分をここに連れてきた男も同じ事を言った。それを思い出してリィザは怪訝に思いながらもこくんと頷く。
 そうか、とディーは唇で笑い、義手を彼女の目から隠すように押しやった。伸ばした指先が、リィザの頬に触れる。
 源氏名は、と聞かれてリィザは首を振った。女将は考えておこうと言っていたが、それがつくということは即ち客を取るということだ。楽しみにしているとは言い難かった。
 名を名乗ろうとするとディーはいい、と苦笑して遮った。
「普通、遊女の名は源氏名でしか聞かない。源氏名がなければありませんと答えるのが普通だな……気に入った相手には教えてもいいがそれは特別だ、そのうち源氏名がついたら教えて貰おうか」
 リィザは首をかしげる。意味を測りかねたのだ。リィザの反応が薄いと見て取ったディーは再び苦笑になった。
「その内お前と寝てみたいという意味……」
 言いかけてディーは言葉を途切らせた。大丈夫かという3度目の言葉にリィザは頷こうとするがままならなかった。震えが止まらない。
 全身に打ち返ってくる、圧倒的な恐怖。先程の少年達の声がぐるぐると周囲を回っている。冷たい汗が吹き出てくるような怯えが遊女になるのだと聞かされたときの恐怖にまで遡って、目の前がちかちか点滅した。
 気分が悪い。胃の辺りが締まるような痛みにリィザは喘ぎ、思わず両手で顔を覆った。大丈夫か、と自分の肩を揺する男の手の温度が熱い。その熱さも痺れるような痛みになる。
 ずるずると彼の膝に縋るように身を崩すと、ディーが微かに舌打ちしたのが聞こえた。
 怒らせてしまったのだろうかとリィザは震えながら彼を見上げた。ディーはさほど不機嫌な顔付きはしていなかったが、困惑気味ではあった。
「ご、ごめ……んなさ……い……」
 呻くような声を絞り出すとディーは彼女を安心させる為だけの薄い笑みになり、いいからとリィザの背を軽く撫でた。
「――男は嫌いか?」
 密やかに落とされたその声に、リィザはようよう首を振る。
 嫌いだというよりは遙かに恐怖に近いものであったし、怯えにも惑乱にも似ていて、自分で上手い言葉を見つけられない。
 ディーは自分と寝たいと言った。それは実に簡単そうな響きだった。目に留まったから、気に入ったから、だからいつかお前を買うのだと。
 違うそうじゃない、という反発は強かったことで尚更自分を怖れさせた。
 いつかと囁いたときの少年の声ばかり思い出された。それはこんなに簡単で呆気ないものであってはいけない。いつかという甘い響きに込められていた万感が、溢れてくるような思いが、いつかという夢に集約されて結実していくはずだった――そうなるはずだったのに。
 僅かにリィザは震え、胸の前で手を組み締めながらうなだれた。怖かった。
「……怖い、か」
 呟いたディーの声には苦笑のような響きがある。リィザはのろのろ首を振り、ごめんなさい、と小さく言った。いや、とディーは更に曖昧に笑い、傍らにあった彼のグラスに手を伸ばした。中で氷が高く澄んだ音を立てて回った。
「だが、いつかは水揚げもその後のこともやってくる。ここに来た以上は例外はない。……さっきも言ったな、何も考えない方がいいこともあるんだ」
 リィザはぎこちなく頷く。ディーの言葉の真意とそこに潜む気遣いは本当だ。言われていることもその理屈も正当性も理解できるのに、心だけが頑として折れない。ひたすらに懸命に、過ぎてしまった過去だけを探している。……帰りたい、と呟きながら。
 帰りたいのだと思った瞬間に目が潤んできたのが分かった。いけないと慌てて手をそこへやるが、零れてくるものは止まらない。
 これをどうしていいのか分からずに唇を押さえて肩を震わせていると、ぐいと肩が掴まれてふり起こされた。リィザは振り返り、女将を見つけて反射的にごめんなさいと呟いた。
「ごめんで済むかどうか、自分で良く考えな。――奥へおゆき。今日はもういいよ」
 明らかに含まれているのは怒りであった。リィザはごめんなさいと繰り返した。宴席で泣き出して、相手を不愉快にさせたというなら確かに罪であった。
 ほら、とせかされてリィザは立ち上がり深々と頭を下げて広間から走り出た。
 帰りたい、とだけ脳裏を巡った。