第2章 赤い小鳥 7

「……本当に、ごめんなさいね」
 改めて彼についた遊女が苦笑しながら作ってくれる酒を飲み干し、ディーはいやと曖昧に笑った。
 怯えるばかり、震えるだけの小鳥。あの小鳥は一体どんな声で啼くだろう。そんなことを考えると笑みが零れてくる。
 遊女に向かない性質であろうことは分かったが、それに配慮しすぎるほどディーもまた、優しい男ではない。珍しい毛色の女であるとは思うが、尚更自分の腕の中で啼かせてみたいと思うのは性であろう。
 それに、笑うとどこかが違う。含羞のような淡く大人しげな気配が立ち上ってきて、思わず抱きたいなどと言ってしまった。
 いずれ水揚げが終われば買ってみようという魂胆は既に出来上がったから、誰かが彼女の涙を謝ることではなかった。
「彼女は……いつもあんな調子で?」
 遊女はそうね、と苦笑する。境界門の双柱をじっと見つめていたときの感触からも、その返答は外れていない。だろうな、とディーは苦笑した。
「そいつは先々苦労するだろうな」
 そんなことを呟くと遊女はまたそうねと頷いた。
 妓楼へ来たからには、真実例外はない。女将とて客への供物としての査定に叶ったからこそ彼女を買ったのだから、その元は取ろうとするだろう。
 それにしてもあの笑顔の心地よさは特別だった。あれは一体何だったのだろうとディーはふと思い、自分でゆるく笑った。
 性質も身体も、相性というものがある。話してみなくては分からないこともあるし、寝てみなくては知り得ないこともあるのだ。その点ライアンも同じようなことを言っていたから、自分だけが特別ではあるまい。
 ちらとライアンを見ると、彼はこの宴席の喧噪など全く気に掛けず、いつものように煙草に執心していた。あれだけが彼の道楽なのだとディーは知っているから止めるでもない。
 恐らくはライアンの生涯ただ一人の主人であるリァン・ロゥの仕種と似てきた気がするのは自分の錯覚か、ライアンの無意識の故意か。
 王として君臨し、他人からの崇拝を受け取り、自ら更に上を目指して力強く飛翔していくという王者としての器量の一点において、ライアンはリァンに遠く及ばない。
 リァンは明るく燃え輝く太陽そのもののような男だった。他人の下にいるのを潔しとしないきつい自尊心が誰をも惹きつけ、魅了した。
 ライアンの寡黙な性質はその影響を殆ど受けていないように見える。だがいつでも心の底からそれを渇望し、焦がれ、欲しがっているのは知っていた。
 ――越えるべき者をいつまでも懐かしんでいては先はない。いつか彼にそう言ってやりたかったが、それをライアンが受け取ることが出来るようになるには、まだ時間がかかろう。
 何故なら、ライアンは未だに囚われているからだ。リァン・ロゥの残像に。過去の幻に。過ぎ去ってしまった夢のような時代に。
 リァンはまさしく夢であった。チェイン地区というのはタリアの中でも最も奥、殆ど日の射さない路地に嫌な臭いの充満した地下道の入り組む貧民窟だ。
 それでも石造りのアパートに入り込めるならましな方で、冬にはそこからあぶれた大量の凍死者が出る。その死体から金に換わりそうなものを剥ぎ、服を靴を盗り、用のない身体の方は裏手の運河へと捨てるから冬の川は亡霊の川――
 リァンはそこに突然降臨した神であった。彼の指導のままに大人達から追いやられて条件の悪い場所へと吹き寄せられてきた子供達は結束しはじめた。ディーは少年時代の始まりにそれを目の当たりにした。
 ディーの兄はリァンの幹部の一人、ディー自身も兄の派閥の下で少年窟を自分たちの王国にしようと指針するリァンの輝きに目を奪われた。
 まとまりなく派閥と縄張り争いに明け暮れていた子供達をあっという間にまとめ上げていく求心力、誰をも虜にする明るい笑顔と朗らかな性質。誰もがリァンを崇拝し、リァンの足下に平伏し、リァンの為にと誓っていた。
 ディーの兄もリァンの腹心として上り詰めていった。リァンが幹部として認め、自身の元への直接の出入りを許していたのは当時2000人を越していた子供達の内で僅かに8名、兄はその内でも3幹部と呼ばれるほどにリァンの重鎮だった。
 ──残りの2人は殺傷能力よりもその知力を買われたヴァシェル、そしてリァンの身辺を警護し命を楯とするべく育てられたライアンである。
 兄もヴァシェルも既にこの世にいない。3年前にリァンが突然暗殺された後の、少年王の跡目争いの際に2人とも死んでいる。
 ヴァシェルは兄が、兄はライアンがそれぞれ手に掛けた。激烈な抗争を勝ち抜いて今のライアンがある。
 ライアンの明るい笑顔は当時から珍しい部類ではあったが、リァンが死んでからは殆ど見られなくなった。気鬱に沈みがちな空気をディーにはどうすることもできなかった。自分がそれほど策略を巡らすのに向いていないのをライアンが理解してからは、彼は益々無口になった。一人で黙々と思考している姿を、ディーは半ば痛々しい思いで眺めていたことを覚えている。
 抗争を勝ち上がり、チェインの王となってもライアンの顔は晴れなかった。その座に着くべきはリァンであって自分ではないとでも思っているのだろう。
 ライアンが今、チェイン王という力を背景にしてタリア王アルードと共に在るのもきっとリァンの為なのだ。
 リァンはタリア王になるべき男だった。ディーでさえ、彼の死から3年を経てもそう思う。彼こそ真実、チェイン王に相応しくタリア王に手をかける資格のある男だった。
 それが死によって閉ざされてしまったことを誰よりも理不尽に感じているのはライアンだ。彼はまだリァンの死を傷として抱えたままでいる。
 彼がタリア王になるべく頭を上げているのは偏にリァンへの追悼だ。ただ一途に、彼が成し遂げるはずだった奇跡を実現するためにライアンは生きている。
 ――だがライアンは?
 ディーは微かに苦い顔をする。兄の死は仕方がない。ディーはそれを自分でも驚くほど冷静に受け止めている。
 ライアンはディーを身辺におき、継承戦争時に失ってしまった本来の左腕の代わりに惜しみなく信頼を注いでくれる。左腕の義手には沢山の仕掛けがあって単に見栄えや重心の問題ではないが、それでも長じていけばチアロの方がディーよりもずっと強い戦士となるだろう。自分は既に、頂点へ至る道は閉ざされているのだ。
 だからこそ、ライアンが自分を未だに重鎮として扱ってくれることが誇りでもある。ライアンがリァンのために生きていきたいと願うように、自分は彼のために生きていたかった。
 ふとそのライアンの視線がディーを見た。随分と自分は彼を見つめていたようであった。遊女にもういいからと言い残し、ディーは席を立つ。ライアンは新しい一服の葉を煙管に詰めているところだった。
「腕をありがとうございます」
 そんなことを言うと、ライアンは淡く唇だけで笑った。働けよ、というのは激励でもある。
 頷き、ディーはライアンの煙草の火石を打つ遊女へ視線をやった。この女はライアンの特別だ。3年前からずっと彼の指名を受けている。
 2人はどことなく似た顔立ちをしていた。目の流線や鼻筋の影が醸す雰囲気が特によく似ている。ライアンの方が奇妙に陰気な空気を背負い、対して遊女の方は化粧のせいなのか華やかな印象にまとまっているが、容貌には共通するものが多い。
「ねぇ、ねぇ、新しい服と髪飾り」
 遊女がライアンの袖を引いて甘えた声を出している。
「この前やった髪留めでは足りないか」
「それとこれとは別だってば。それに紅玉は服に滲んじゃうからやだって言ったもん。ライアンあたしの話聞いてないでしょ。翡翠がいいの、ひ・す・い! ライアンの目の色とお揃いの」
「贅沢な奴だな」
「何よ、あたしが綺麗にしてるほうが嬉しいくせに」
 ライアンがそれに曖昧に笑って細かい希望を聞いているのは贈るつもりなのだ。
 遊女の衣装も装身具も化粧品も彼女たちの自腹だから、少しでも貢いでくれる男を増やせばそれなりに彼女たちは潤うようになっている。
 やれやれだとディーが思っているのが顔に出たのか、遊女の方はきっと彼を睨みあげた。視線のきつさと瞳の色はライアンとそっくりだ。
 正直なところ、ディーは彼女を好ましくは思っていない。ライアンは一度心許すと全力を以て守ろうとするところがある。この女が長じてライアンの足に絡みつく網にならないと、誰が言えるのだろう。
 今でさえ十分、ライアンは彼女に執着している。彼女に笑いかける空気は普段の凍てつくような厳しさとは全く違う温度だった。
「ライアン、話が」
 ディーが遮ると、遊女の方は更に不機嫌な顔になった。それを宥めるようにライアンが彼女の頬を撫でる。
 あとで、と彼に言い含められて渋々頷き去っていく背を、ディーは溜息で見送った。
「……彼女には随分とご執心で」
 半ば嫌味のような口調になったのを、ライアンは苦笑めいた表情で流した。
「あれはあれでいい、お前には関係ないだろう」
 そうですが、とディーは肩をすくめる。遊女の方はチアロをからかっているようだ。ライアンといるときとは一転して明るい子供同士じゃれあうような笑顔が見える。
 話とは、とライアンが呟いて、ディーは視線を主人に戻した。ディーは頷いて声を潜めた。ライアンの周囲には自分以外に人が居らず、話が聞こえる危惧はなかったが、それは十分に密やかな話なのだった。
「……クインが戻ってきたというのは本当ですか」
 3年前にチェインを吹き荒れた抗争に部外者ながら口を出し、ライアンに知恵を付けたあの子供のことを、ディーは忘れていない。一度目にすれば焼き付くような美形であったこともあり、噂を聞いたときにすぐに分かった。
 ライアンの煙草入れを掲げて彼に会いたいと言った美少年の話。
 チアロが楽しそうに話しながら連れていったという目撃。チアロとクインは3年前から気の合う友人同士だった。
 ディーはクインをも気に入らない。それは先程の遊女と同じくライアンの弱みにならないだろうかという懸念がそうさせている。3年前もライアンはクインを助け庇った。クインを当時のタリア王への貢ぎ物にしようとしていたのを撤回してまでそうしたのだ。
 結果ライアン自身がタリア王と寝て自治を買うに至ったことを、ディーは怒りにさえ変えることが出来た。
 あの子供を差し出しておけば貴方の身は安全だったのにと。
 ライアンはディーの質問に簡単に頷いた。それで彼の顔が曇ったのを見て取ったのか、曖昧に笑った。
「あれのことは内密にな。俺はクインをなるべく他人の目からは隠してやりたい――タリアに戻ってきた以上の噂になっているのか」
「いえ、チアロがどこかへ連れていったという辺りまでしか……」
 ならいい、とライアンは深く煙草を飲んだ。
「……根城から出入りするときは女装だから目立たないんだろう。お前もあまり他人に話すな。噂が酷く頻繁になるようなら俺に報せろ」
 ライアンの命令は絶対であった。ディーは軽く頭を下げる。ライアンは苦笑した。
「そんな顔をするな。お前は3年前からあれが気に食わないんだろう? だが、あれのことは口出し無用だ。そのうち必要があればお前にも伝えるべきことを伝えなくてはいけないが、あれを保護することがいずれ俺の切り札になるかもしれん」
「切り札……ですか」
「そうだ」
 ライアンは不意ににやりと笑った。不敵と表現すべき笑みは珍しく、それは滅多に表現しないライアンの自信の証明でもあった。
「あれは、俺の切り札になる――どう化けるかはまだ分からんが……そうだな、手なづけておけばどんな場合になっても損はしない」
 そう言ってライアンは何かを思い定めたのか、深く頷いた。
「……ダルフォ」
 低く呼ばれた自分の本名を、ディーは懐かしく聞いた。その名は3年前に彼自らが撤回したのだ、ライアンの元で生き直すために。
 わざわざ本名で呼ぶときは、だから重要な話であった。ええ、と返答する自分の声が更に低くなる。
「チアロはしばらくクインのことで忙しくなる。何しろクインのご機嫌を取っておくには奴が一番良さそうだからな――チアロのことを頼めるか」
 僅かにライアンの目が鈍く光った気がした。
「……正直、俺はいずれチアロにチェインをやりたい」
 ライアンの口から後継の話が出たのは初めてのことであるかも知れなかった。ディーはどっしりした緊張感が腹に居座ったのを感じた。
 ライアンの意向を薄々みな気付いているが、それを本人は公言したことはなかったはずだ。他の幹部達への示しや折り合いもあろうし、幹部として扱っている連中の中でチアロは一番年齢が下だ。ライアンの側小姓だからという冷笑も無くはない。
「本来ならお前だが」
 ライアンの言いかけた先をディーは分かっていますと遮った。
「チェイン王はチェインの強者でなくてはいけない。一番分かりやすい支配は力です」
 左腕の欠損は極みに到達するには決定的な瑕疵だった。ディーはそこには成り得ぬ現実を知っていた。ライアンは重く頷いた。
「チアロがクインのことで引き回されている間、チアロの後見として構えてやって欲しい。あれは……あれは、まだ甘い。甘いが、見込める。今は奴をしてクインの機嫌を取らせておくのが優先だが、それでは足りない部分が出てくるだろう。支えてやってくれないか」
 ディーはチェイン王たるライアンの、一番の腹心であると見なされている。それをディーも知っているし、ライアンも彼をそう扱ってきた。
 それをしてチアロの後見たれというならば、ディーに自分を棄てろというのに等しい。命じるのではなく、頼めるかという言い方しかできないのだ。
 ディーは頷いた。チェイン王の後継は自分でない場所へ行くのがいいと彼も思っていたのは確かだった。
 ライアンはほっとしたように温く笑った。
「……いずれ、お前はタリアの方へ関わって貰う。俺にもそこそこアルードが仕事を回すようになってきているからな」
 ディーはまた頷いた。自身の足らない部分を承知しても使ってくれるライアンの意志に感謝さえ覚えた。いずれライアンがタリア王になる時に自分はまだ生きて、彼の側にいられるだろうか。
 そんなことを思えばゆるく笑みもこぼれてくるのだった。
 ライアンは彼に軽く頷き、立ち上がった。
 重い存在感のある身体がそこから歩み去っていく。例の遊女がそれをめざとく見つけて彼の側に寄り、手を引いた。彼女の部屋へ上がるのだろう。
 この後は正真正銘の無礼講だ。あの見習いの少女がこの場にいたら卒倒するだろうと思い、ディーは少年達の捌け口になるまえにと目についた女に声をかけるために歩き始めた。