第2章 赤い小鳥 8

「……さ、これで大体いいわ。やっぱりリュースちゃんってば美人ねえ」
 ちゃんはやめてよ、とリュース皇子は照れついでに苦笑になる。エリゼテール大公女は彼の幼なじみだが、お互いに物心つく頃から共にいることもあって尚更砕けた呼び名になる。
 彼女は皇子よりも1歳年長で、幼い頃はひどく苛められたものだ。母妃がいつもそれを思い出しては笑う。エリザちゃんが来たわよっていうと、お前はいっつも後ずさりして怯えて泣き出してたんだから――
 皇子はそんな遠い話にまた苦笑した。何よ、と目の前の公女は彼の手を優しくつねる。彼女の淡い金髪が窓から注ぐ陽光にきらきら輝いて目に眩しい。緑柱石の色をした瞳の明るさも、そしてその顔立ちも美しいといってよい少女だ。彫りが深くくっきりした顔立ちはアイリュス大公家系の特徴だが、エリゼテール公女にはそれ以上の神の愛を感じるほどに麗しく華やかなものが備わっている。
 ――尤も、リュースがそれに気を向けるときは誰かの誉め言葉があったときだけだ。彼自身が神の愛し子であるような美貌の持ち主であり重要なのは中身だという倫理の信奉者でもあったから、なおさら他人の美醜には疎い。疎いというよりは単純に興味がないのだろう。
 公女がほら、と差し出してくれた手鏡の中にあの日見かけた少女の面差しを見つけ、皇子は溜息になった。本当に似ている。こうしてほんの少し化粧して髪や眉を整えただけで「彼」が鏡の向こうにいるようだ。
「綺麗に出来たでしょ……ねえ、本当にこんなことしてどうするの?」
 化粧道具一式を順序よく小箱にしまいながら公女が聞いた。皇子は鏡から視線を離して曖昧に笑った。彼の返答を諦めて公女が肩をすくめる。幼い頃からの日々の積み重ねが、言葉をさほど必要としない関係を作りだしていた。
「いろいろありがとう、エリザ」
 鏡を机の上に伏せ、皇子は何か飲むかと公女に聞いたが、公女はいらないと首を振った。
 皇子は顔を洗おうと席を外した。
 化粧した顔立ちを確認できればそれで良かったのだ。自分たちの相似を改めて見つめるために。
 似ていると気付いたのは初夏の頃だったが、既に季節はゆっくり秋へ向かい始める残暑の中だ。皇室行事やら夏離宮への行幸など、国と家の用事が重なってなかなか検証する時間がなかったが、離宮での避暑生活でも皇子は彼のことを考えていた。
 ――あれは誰なんだろう?
 最初、皇子はごく単純に自分に双子の兄がいるのだろうかと考えた。
 先に胎内から産み落とされた方が兄であるが、現実自分一人しか王宮にいない。自分が弟なのは、最初の一人を王宮外に出して後から生まれてきた方を手元に残すだろうからだ。
 皇帝の嫡子であるならば、出生と同時に沢山の儀式がある。母親たる皇妃も同じだ。一人産んだ後でもう一人を極秘に出産するよりは兄の方を王宮から連れ出してから産気づいたと人を呼ぶ方が遙かに楽であるし、方法として自然だ。
 だが、ここで皇子はふと深淵に気付かざるを得ない。
 子を授かったときから皇妃と胎内の子は国家のものだ。あらゆる意味で人の目がある。母胎に双子があるということを、誰も気付かなかったとするならそれは極め付きの不自然だった。
 診療記録をこっそり盗み見ても、皇妃の腹には心音は一つとしか見えない。太古であるなら双子は国家の安泰を損ねるとして片方を――大抵は弟の方を――生まれた直後に水につけて葬ってしまうのだが、今は双子だからといって国家鎮護の妨げになることはない。それほどの魅力が帝位にないのだ。
 記録は書き換えた後が見られない。だから13年と11ヶ月前に母后の腹にいた子供はやはり自分一人なのだ。
 ――では、あれは一体、誰なんだろう……?
 血縁がまるでないと仮定した上での酷似であれば、祝祭の日に自分を見つめていた彼の複雑な目の色を説明する道が失われる。
 何かしらの血縁があるとするなら一体どこだろうか。自分たちの顔立ちの相似と特徴から、それは少なくとも母の実家であるアルカナ公系だろうと皇子は最初見当をつけてはみたが、その門閥家系は巨大だ。末端まで含めれば家名は200を越す。
 数名の魔導士に命じてその中で行方不明になっている子供を捜してみたが、そんな子供は存在しなかった。
 ……それに戸籍はどう考えても偽造だったから、貴族の子弟が戸籍を偽ってまで中央中等へ通っていたというのなら、正直、訳が分からない。
 皇子は首をかしげた。洗面所の鏡の中で、「彼」を模した姿が困惑した顔をしている。
 血縁がないならそれでも構わないのだが、祝祭の日の彼の表情が心のどこかに爪を立ててしがみついていて、無視できない。
 皇子は小さく溜息をもらし、エリザにしてもらった化粧を落とすために水をすくった。
 部屋へ戻ると公女は露台へ通じる硝子戸を開け、手すりに腰掛けながら大きく伸びをしていた。しなやかに伸びた手足の形良さ、肌の白い美しさ。ずっと昔から知っていたはずなのに、彼女の仕種の一つ一つに時折見知らぬ他人を見る気がする。
 公女はすぐに彼に気付き、リュースと呼んだ。彼を呼び捨てにするのは両親と彼女くらいなものであった。
「こっちへ来なさいよ、やっぱりここが涼しいから」
 夏の間はこの夏の居宮で過ごしているが、この宮は人工池の上に何本もの柱で支えられて建っている。晩夏の風が渡って吹き来れば、それは水面をさらって若干潤み、清涼で心地よい。
 100年ほど前の皇帝が四季に合わせた居宮を建てたのだが、特にこの夏の居宮と冬の居宮は居心地が良かった。風に蓮の蕾が揺れいている。
「落としちゃったんだ、せっかく可愛かったのに……」
 エリゼテール公女は彼の頬を残念そうに撫でて呟いた。皇子は苦笑気味に微笑む。
 彼の面影をもう一度見たくて化粧という方法を思いついたのはいいが、どうしていいのか見当もつかない。困った末に幼なじみの少女に頼んだのは、彼女くらいしか身近に頼める相手がいなかったからだ。
 皇子は自分が中等学院の仲間達から遠巻きに浮いていることを承知していたが、こんな時は微かな物寂しさを覚えた。
「来月はお誕生日ね、リュース。何か欲しいもの、ある?」
 公女は明るく彼に話しかけた。皇子は首を振った。
「うん、別に……でもだからって、武器とかは嫌だ」
 公女は片手間に弓を遊び馬を操る。身体も頑健と言って良いほど健康で、快活な性質であった。
 自分が大人しすぎるきらいがあることを考えると、逆であれば良かったのかも知れないと、皇子はいつも思う。
「何か希望を言いなさいよ。先月の私の誕生日には、ちゃんとくれたじゃない」
 この年中央中等へ入学した彼女に皇子は本とペンを贈っている。本はこれから履修する科目の参考書、ペンの方は軸が精緻な白金細工で出来た美しい品だ。いいよ、とリュースは仕方なく笑った。
「いずれ結婚するんだし……あまり気にしないで、受け取って置いてくれればいいから」
 それは自明に思われた。
 エリゼテール公女は父帝の第2妃の姪、現アイリュス大公の一人娘だ。立太子されてもされなくても、いずれ門閥の提携のために彼女は自分の妻になるだろう。彼女の方が年齢が上ではあるが、彼より下となるとアイリュス大公本家とやや離れた血縁にしかない。
 シタルキアが婚姻政策によって他国と連帯しないことは常識であるため、公女と釣り合う縁となると限られてくるのだ。
 婚約するのは数年先になるだろうが、彼女と睦まじいことを周囲に教えておくことは無意味ではない。婚約の形式というものもあってまずは数度こちらから尋ねていって彼女に伺いを立てるという手順を踏むが、その前哨として申し分ないはずだった。
 エリゼテールは一瞬眉をひそめ、それから長い溜息をついた。何か気に障ったのだろうかと皇子は怪訝に将来の婚約者を見つめる。
「ねえリュース、好きな人はいないの?」
 これには皇子は即答する。彼にとって、これは深く考えることではないのだ。
「エリザが好きだよ、どうして?」
 公女は肩をすくめた。皇子はその仕種に不安を抱く。
 皇子にとって彼女は殆ど唯一の友人でもあり、恐らくは一生共にいることになる相手であった。彼女以外の女性と添うことなど出来ない以上、最初から目をやらない方が全てにとって上手く回る。よそ見した上での寄り道など、時間と手間の無駄だとしか思えなかった。
 簡単にそんなことを説明すると、公女は不機嫌に顔をしかめてから苦笑した。やはり彼女の気に入らないらしい。エリザ、と皇子は少し強い声を出した。
「だって、どうせ君と結婚するんだからいいじゃないか」
「分かったわよ。もういいったら……」
 うんざりという表情であった。公女の真意が分からず邪険にされて、皇子もやや不機嫌になる。公女は彼と並んで遜色無いほど整った形の頬を寄せて、密やかな声を出した。
「……ねえ、秘密よ? ……私、付き合ってる人がいるの」
 皇子は一瞬おいて頷いた。公女の悪戯っぽく笑う吐息が、喩えようもなく幸福そうな響きに聞こえた。
「そう……なんだ。じゃあ、こんな話不愉快だったね。いいよエリザ、私のことは気にしないでも。うまくいくといいね」
 公女は頷き、彼の頬に軽くキスをした。彼女の髪からほんのりと香料が薫った。
「でもね、リュース。あなた出来ればちゃんと恋愛くらいしたほうがいいわよ? 私でよければいつでも相談に乗るから」
 皇子はまた頷いた。エリザの言う内容の真意は何故か曖昧にぼやけて見えないのだが、彼女が自分を気遣っているのだと分かっていれば十分だった。
 これから彼と会うのだと彼女が帰っていくのを後宮外まで送り、皇子は少し溜息をついて夏の宮の道までを戻り始めた。
 鏡の中にいた自分はやはり、祝祭の日に見かけた彼の姿であった。
 本当に、自分たちはよく似ている。双子であるという結論は既に否定しているが、母方の縁を辿っていけばそのうちに巡り会えるだろうか。
 皇子は曖昧に頷き、マルエスと呟いた。歩き続ける皇子の背後の空気がたわみ、彼の背後ではい、と返事がした。皇子は視線だけで振り返り、そこに彼の随従を見つけた。
 マルエスは皇子の護衛の魔導士であった。魔導士の掟に従い、全身を覆う外衣と銀の仮面を身につけている。
 階級は第3位従、全階級の内中の上程度に属する位置である。魔導士の出自などは全て破棄されていて個人情報など知りようもないが、声や背格好からまだ若い年齢の男であることは知っていた。
「……マルエス、彼のことは何か分かったか」
 皇子は呟くように小さく言った。魔導士はいえと即答する。あの仮装行列に参加する皇子の側に姿を隠して彼もいたから、皇子は彼を捜すと決めたとき、容貌を説明するよりはマルエスに命じた。
 すぐに見つかると思ったのだ。魔導の力は一般の人々が思うよりも遙かに広くて深い。
 彼の気配や残像の足取りを追っていけば簡単に辿り着くだろうと思っていたのだが、あの彼が魔導論文の新旗手であったことを思い出す結果となってしまった――魔導によって痕跡を追うことが出来ないよう、路地に入ってすぐに簡単な結界罠を残し仕掛けていったのだ。
 怪我をするほどの大仰なものではなかったから単なる警告であるとは思われたが、自らの足跡をひたすらに隠そうとする意志はやはり鮮明だった。
 困難だな、と思ったのはその時のことだ。魔導によって過去の残像をどうにか捜しだし、他人の目の底に残る記憶をかき集めていけばどうにかなると思っていたのを修正しなくてはならない。
 地道に血縁からだと結論してアルカナ大公系の家閥の子供達を捜し、失敗し、今はもう一つの大公家アイリュス系の子供達を辿っている。
 この二つの大公家は以前から姻戚関係を複雑に結んでいる。お互いに血が入り交じっているのだ。
「殿下、卑才わたくし思うところがございますが」
 マルエスの声が囁く。皇子は許すと歩きながら呟いた。
「――ラウール大公という可能性はございませんでしょうか。……つい5年前に家門を取り潰されてございますが、当主は現在生きておれば殿下よりも一つ、年下であったように心得ます」
「……ラウール、か」
 皇子はその可能性に気づき、大きく頷いた。それは確かにあり得る話だった。
 ラウール大公家は5年前に当時の当主が死去し、その息子が幼くて家を後継できないことを理由に完全に断絶を宣言され、全ての利権を取り上げられている。これは国政に深く関わるアルカナ、アイリュス両大公家の意向であった。
 200年ほど前のラウール大公家系の高位貴族が乱心し、当時の皇帝を人質にとって籠城した事件を以てラウール大公家は凋落の道を辿り始めた。
 この事件の真相は未だに闇の中であるが、どうやらアルカナ家の陰謀であったらしいことは当時から囁かれており、確証はないが皇子もそうであろうと考えている。
 アイリュス大公家はラウールを蹴落とすことに関してアルカナと結託し、事件の後はラウールという家名を貶め続けることに熱心だった。
 アルカナもアイリュスもここ500年ほどの間に隆盛してきた比較的新しい血筋だ。この国で最も古いのは勿論皇族であるエリエアルの姓を抱く一族だが、それと同じほどの古さを誇っていたのがラウール大公の血脈であった。
 その開祖は建国の功臣にして始祖大帝の寵臣であったケイ・ルーシェンである。
 嫉妬と呼ぶには余りにも暗い情熱であったが、古い国の古い血筋を以て儀式や慣習に深く食い込んだ一族を追い落とさねば、アルカナもアイリュスも長く国の根幹に止まることは出来なかったであろう。
 貴族間の勢力の引き合いであると一括出来る話であり、結果アルカナとアイリュスは勝って未来を手に入れ、ラウールは負けて遂に消えたということなのだ。
  5年前に当主が死んだとき、アルカナもアイリュスもようやく時期だと思ったのだろう。既にラウールの閨閥の家門は散り散りになり、いくつか残ってはいても結託をしていない。
 復興を目指す勢力がなくなるように両大公家は時間をかけてラウール大公家を腐らせていった。後継者が幼いのであれば同じ家門閥の中から後見人を立てて成人である15才を以て正式に襲名という手続きで十分であったはずだが、既にそれを幼い子供のために唱えてやる正論者はいなかったのだ。
 ラウールか、と皇子は今度はやや低く呟いた。
 アルカナやアイリュスなどよりもラウールの方が血が古く、始祖大帝の頃から連綿と続く一族であるからには皇族との婚姻も両家とは比較にならないほど繰り返されている。似ているとしても不自然であるとは思えなかった。
 なるほどね、と皇子は深く頷いた。その可能性は確かにあった。
「ラウールの子供は確か、行方不明だったね……」
 極秘裏に暗殺されたのだという噂が一時流れていたと後で知ったが、誰もその生死の決着を知らない。
 逃げて今でも生きているとしたら、それは確かに戸籍を偽るべきだし性別さえ誤魔化すべきだ。用心深くもなろう。
 何より、皇子へ向けた彼の視線の複雑そうな色を説明できそうだった。
「ラウール……確か、キエス……と言ったね、マルエス?」
「は、記録には確かにそのように」
「……探せるか、キエス・ラウール?」
 恐らく、とマルエスが軽く腰を折る。皇子はほっと唇をほころばせた。
 どこの誰かも分からなければ捜索はしらみ潰しというほどに労力を使うが、それが判明しているのならずっと作業は楽になるだろう。
 皇子は彼の正体を見つけた気持ちでどことなく安堵を覚えた。昔から分からないことがあるのが無性に不安なのだ。
 それと、とマルエスが続けたのがだから皇子は意外であった。視線を向けるとマルエスは僅かに恐縮したように会釈をした。
 それを手で制して皇子は続けるように促す。
「それと殿下、子供一人では何かと出来ぬ事の方が多いと思われます。誰か大人が……恐らくお探しの相手には親と認識されている大人が共にいるのではないでしょうか。行方不明者の捜索の年齢の幅をお広げになってみるのは如何でしょう」
「そうか――そうだね……マルエス、有り難う。そうしておくれ」
 親という概念を全く失念していたのは自分の感覚に近くないからだろうかと皇子は思い、苦笑になった。
「ならば学院に残る『彼女』の戸籍を調べてご覧。彼の方は性別は偽りだったけれど、保護者の方はそうはいかない。共にいる相手の性別が分かればお前たちも楽だろう――ああ、もういいよ」
 目に夏宮の涼しげな姿が入ってきて、皇子は言った。魔導士の黒い衣は夏の光景の中では奇妙に浮き上がる違和感であった。
 昔ながらの慣習に従い、魔導士を猟犬以下のように扱う人々もいる。会話が出来る相手を皇子は犬だとは思わないが嫌がる者もいたし、第一子供にはあまり受けが良くない。
 怖がらせてしまうからねと言うと、マルエスはそっと笑ったように空気をぬるませて消えた。姿を隠しただけで実際は側にいるのだが、それでも見えているよりはいいだろう。
 そんなことを思いながら、皇子は露台から自分を見つけて手を振っている弟達に軽く手を挙げた。異母弟である第2妃腹の皇子二人が避暑地から一緒に王宮へ戻っているのだ。ラインも含めて3人で、どうやら自分を待っていたらしい。
 何の遊びの相談だろうかと皇子は思い、池での水泳だけは勘弁して貰おうと考えながら宮の扉に手をかけた。