第1話 祝祭の日 1

 夜の闇がざわめいている。祝祭の日はこんなそぞろな空気が帝都ザクリアのどこへ行っても感じられた。
 6月は祭事が多い。シタルキア皇国は大海を挟んで二つに分かれた両大陸の内の北側、北部大陸の中でもやや北よりに位置する国だ。夏の始まりはその年の眩しく希望に満ちた季節の幕開けでもあったから、自然そうした行事の先駆けが増えたのだろう。
 この日は皇帝の誕生日であった。帝都のいたる箇所で振舞酒が出、宮城から続く大路には国旗がはためき、灯火が明るく享楽を謳歌している。帝都中が浮ついた雰囲気と手を取りあって軽やかに踊っているようだ。
 大路から伸びる主幹路にはぎっしりと縁日屋台が立ち、呼び込みをする威勢の良い声が溢れ、それでなくても雑踏を行き交う人々の朗らかな笑顔が充満している。
 シタルキアの治世は民草に関わる範囲では上手く回っていた。これは為政者の功績ではなく、機構の手柄である。皇帝リシャーク3世は際だった辣腕でも呆れるような暗愚でもなく、既に完成された立憲君主制度を踏み外すことなく歩いており、また、歩き終えるだろうと言われていた。
 宮廷へ入ればそれなりに主導権の引き合いなどもなくはない。だがそれも2大公家の専任であり、膠着とも陰険な和解ともいえる状態が続いていて、安定している。
 世の中は平和で、これからもそれが続いていく。それを信じ切っているからこそ、祝祭の日にはこうして沢山の人々が休日と愉楽を楽しむことが出来ているのだ。
 華やかな音楽。どこかで鳴らされる爆竹。笑い声。
 母親の手を離れて子供が一人、屋台の方へ駆け寄っていく。並ぶ駄菓子に目をきらきらさせていた子供は、ふと顔を上げた。どうしたの、と母親が聞く。
「お母さん、誰かいるみたい?」
 子供が指さす路地は、大通りから漏れる明かりで多少は奥まで見える。
 はっきりしない人影のようなものが確かにあるから、誰かがいるという子供の指摘は正しい。だが、母親は顔をしかめた。
「人様を見るんじゃありません――行くわよ、お父さんと待ち合わせでしょ? 何か美味しいものでも食べましょうね」
 母は子供の手を引いてそそくさと立ち去る。客を逃がした屋台主の男が路地を振り返り、影に目をすがめ、溜息をついた。
「どうしたい」
 隣で蜜氷を売る店主の言葉に、男はふん、と鼻を鳴らした。
「全く、やるなら余所でやれってんだ」
 顎をしゃくる仕種につられて覗き込んだ側も、闇に目が慣れると同時に苦笑した。
「追っぱらちまえよ、営業妨害だってな――おい!」
 路地の奥を怒鳴りつけると蠢いていた影がふと動きを止めた。一瞬の躊躇を置いて、ずるり、と影が更に路地の奥へ光の射さない場所へ移動する。
「――もう、やめて、よ……」
 引きずられて呻いた少年の肌を直接まさぐりながら、男は低く、少年にしか聞こえないような小さな声で笑う。
「向こうからは見えないぜ――なぁ、幾らでも出すって言ってンだろ?」
「身体、触るだけって、最初に言ったろ……お前となんか誰がやるかよ」
「ふ、ん……男娼のくせに……」
 違う、と少年は否定し、男の肩を押しのけようとする。だがその抵抗は弱く、男は薄く笑いながら少年の顎を捉えて自分の方を向かせた。
 ここが暗い路地で残念だと呟く。もっと明るい場所か貸し部屋あたりなら、この顔をゆっくり拝めるのに。
 薄暗い闇の中でも、それはくっきりとした美貌であった。冴え冴えと輝く青い瞳に、どこまでも完璧で繊細な顔立ち。自分の愛撫にゆるくこたえて喘いだ唇の可憐さ、淫蕩さ。全てが夢の中から抜け出てきたような美しさだ。
 どこか危うい足取りで歩いていたのを捕まえたのは幸運だった。路地へ連れ込んで金を握らせると、戸惑ったような沈黙と共に抵抗がゆるんだ。身体を触るだけだからと口説き、それだけにしては少し多めの額を懐に押し込めて男は少年へ戯れる。少しづつ熱を付帯させながら。
「もう、やだ……よ、やめてよ……」
 身をよじろうとするのを男は片手で難なく押さえ込み、再び顔を自分の方へ向けさせた。
「お前、キスは幾らだ」
 形の良い唇が吐息に微かに湿り気を帯びているのがたまらなく扇情的で蠱惑的だ。
「そんなもん、売らない……」
 言いかけた少年の手に、男は硬貨を落とす。金属の鳴り音がかちりといった。
 少年がいらない、と突き返そうとする手を無理矢理こじ開けて、降り注ぐように硬貨を押しつける。
 少年は俯いた。自分の手に落ちる金額に、この話を突き放すかどうかを考えているのだ。……考えている、ということが分かれば十分だった。
「もっとか? 幾ら欲しい」
「――いや……」
 力無く首を振る仕種で、肩を過ぎた辺りの長さの髪がゆらゆら揺れる。そこからちらちら覗く白いものは少年の肌の色だ。年齢の若さゆえのなめらかさに男は喉を鳴らす。
 男は素早く金を握らせ、少年の喉顎を捉えて唇を押しあてる。少年は微かに身じろぎしたが、男を振りきるほど強く抵抗しようとはしなかった。
 すべらかな肌と同じように、やわやわとした唇の感触は素晴らしく美味だった。髪に手を差し入れ、かき回しながら男は貪るようにそれを味わう。角度を変えて何度も繰り返すと、少年が息苦しく喘いだ。
 ゆるく開いた唇から強引に舌を口腔へ押し込む。少年の身体が一瞬跳ねる。無理矢理押さえ込む。首を振ろうとするのをしっかり顎を掴んで阻止する。逃げ回る舌を追いかけ回していると、突然強烈な痛みが唇にした。
 男は反射的に身体を離す。一瞬の間をおいて、じんわりと鉄の匂いが口に広がった。噛まれたのだ。
「やめろ、って、言ったろ……」
 苦しそうな呼吸のままで少年が吐き捨てた。男は頬にかあっと血が昇るのを感じた。狩人は自分で、獲物がこの少年だったはずだ。逆ではなかった。不意をつかれた衝撃が、怒りに変わる。
「お前……!」
 振り上げた手が、容赦なく美しい顔に降り落ちる。少年が悲鳴をあげてよろめき、ずるずると座り込んだ。
 男はその腕を掴む。どこでもいい、転がり込める暗がりへ行って懲罰を与えてやろう、そんなことを思いながら男が少年を引きずろうとしたとき、路地の向こう側からどうした、という声が聞こえた。
「おい、あんまり乱暴はいけねぇぞ!」
 男は舌打ちをする。少年がさっと顔を上げ、助けを求める声を出した。路地を抜ければそこは縁日の人の海だ。男は顔を歪め、一瞬の躊躇いの後にそこから走り去る。
 少年は身体を起こした。殴られた箇所がしびれるように痛んだ。手を当てるとぴりりと痛みが走る。少年は顔を歪め、自分の手に残った金を見つめた。
 握りしめると硬貨のこすれ合う音がした。少年は腕を振り上げ、……そのまま力無く下ろした。 
 投げつけるはずだった硬貨の替わりに零れていったのは幽かな嗚咽だった。殆ど一瞬と言える短い間、少年は涙を形の良い指で押さえ、ゆるゆる溜息をついた。
 吐息が唇を撫でると、先ほどまでの男の感触が蘇ってきて、吐きそうになる。男がかき回して乱れた髪を手で簡単に整え、少年はよろよろ立ち上がった。
 路地から大通りに出ると、そこにいた屋台の主が振り返った。
「おう、無事だったか、兄ちゃ……」
 店主の言葉が止まる。少年は凍えたような顔をどうにか動かして、微笑んでみせる。自分の顔立ちには昔から絶対の自信があった。誰であれ、微笑みを向けて買えない同情などなかったのだ。
「ありがとう。助かりました」
 かすれた声で呟くと、店主は頷く。隣で蜜氷をさばいていた男も振り返り、彼の尋常でない美貌に目を奪われて沈黙した。
「……災難、だったな」
 ぼんやりした声に少年は僅かに頷く。売り物の筈の氷を男は手早く麻袋に入れて少年に放り投げた。
「頬、冷やした方がいい。せっかくの美形なのに台無しだ」
 ははは、と作ったように明るい声を上げて笑う男に、駄菓子屋の店主も弾かれたように倣った。
「まぁ、そこ、座んなよ……あんた、どこの子だい? この辺じゃちょっと見かけない顔だね」
「この辺じゃなくてもなかなか拝めない顔だよなぁ」
「違げぇねえ」
 笑い合う2人の男に少年は困ったように笑い、もらった氷袋を自分の頬にあてた。屋台の後ろへ座り込む。
 仕種の鈍重さから、少年が衰弱しているのが分かった店主がやはり売り物の中から蜂蜜飴をつまんで少年に握らせる。ぺこりと会釈をして少年はそれを口に放り込んだ。
「さっきのは何だったんだい、兄ちゃん」
「……路地を歩いてたら、いきなり腕を掴まれて……」
 ふうん、と商店主たちは少年を見、懐から覗く10ジル紙幣を見た。男娼にしては慣れていないことこの上ない。
 恐らく、あれは男が無理矢理押し込んだのだろうと推測して苦笑になった。何かがあったときに「こいつだって金を受け取った」と主張するための所作だ。
 無理もなかろうと彼らは目を合わせて頷き合う。濡れたように輝く漆黒の髪によく映える白い肌、そこに配置された宝玉のような瑠璃色の瞳。一瞬目を疑うような造形美。
 端麗というにはあまりに言葉が足りない。一度見たら忘れ得ぬ、そんな美貌であった。
 年齢は14、5というあたりだろうか。目を伏せると少女めいた儚さが、視線を向ければ少年特有の透明さが視界に入ってくる。誰であれ、この美貌を目にすればもっと触れたいと望むだろう。その相手が悪いとああいうことになるのだった。
「少し息が落ち着いたら、ちゃんと人の通りがある道を選んで帰りなよ。あんた、なんだか頼りなさげだから変なのにつけ込まれるんだからな」
 触れなば落ちん、という表現を思い出すほどに。
 少年は僅かに頷き、頬にあてていた氷袋を返した。撲たれた箇所の腫れはそうひどくなかった。指でつついて僅かに顔をしかめているが、耐えられない痛みではなさそうだ。
 大丈夫かいと声を掛けてみると、案の定少年は頷いた。
「氷、ありがとう、ございました……」
 声はまだかすれている。蜜氷の店主はああ、と頷いた。少年は彼らに軽く会釈をすると、再び歩き出した――暗がりの、薄闇の彼方へ。
 慌てて店主たちは声を掛けようとした。今忠告してやったばかりなのに、聞いていなかったのだろうか。
 だが、少年が振り返るほうが早かった。
「ありがとうございました。俺のことは気にしないで下さい。俺は人に酔うので、人混みはどうして歩けないんです……」
 そうしてもう一度、深く頭を下げると少年は背を向けた。
 2人は顔を見合わせて同時に肩をすくめた。半ばは呆れたのかもしれない。だが、長い時間少年の行く先へ思いを馳せることは出来なかった。
 6月は祝祭日が多いとはいえ、今日の祭りは既に終幕へ向かっている。稼ぎ時も、あとわずかだった。