第1章 祝祭の日 11

 食事が済んでチアロと別れると、ライアンはタリアの大通りの方へ足を向けた。境界門から続く妓楼の赤い格子が日暮れと共に一斉に燃えるような色に変わる。
 篝火が照らす通りから僅かに奥へ行ったところにその妓楼はあった。
 柱や格子の塗りはそう新しくはないが、まめに磨いているのか小綺麗だ。他の娼家とおなじように1階は食事や酒を楽しめる場所であり、身の空いている遊女や遊女の見習いの少女たちなどが忙しく華やかに立ち働いている。
 看板は余所の店に負けじと盛大に焚かれている篝火の煤で黒ずみが既に取れないが、駒鳥と桜桃の浮き彫りが見えた。それがこの妓楼の屋号である。識字しない連中のためにこうした看板は必ずどの妓楼にもあった。
 ライアンは慣れた足取りでその中へ入る。女たちの視線が一瞬向き、それからやはり慣れた笑みになった。軽い挨拶に素っ気なく応じてライアンは食堂の奥、遊女たちの部屋へ通じる回廊の前の女将の陣取る帳面台の前に立ち、それを軽く指で叩いた。帳簿に没頭していた女将はやっと顔を上げ、ああ、と練れた笑みになる。
「今、空いてるよ―――今日は泊まりで?」
 ライアンは頷き、いつもと同じだけの金をそこへ置いた。一瞥で金額を確かめた女将が小間使いの少女を呼ぶ。もう何度も上がっている部屋であるから案内は必要ないが、これは妓楼の方の都合である。
 タリアが男たちの王国であるなら妓楼は女たちの国だ。女たちには女たちの、沢山の見栄も思惑も打算もあろう。そこに口を挟むのは愚か者のすることだった。
 案内の少女が連れていった先の部屋はこの妓楼では悪くない方に属する。遊女の部屋の格というのは即ち指名の多さと揚げ代の額を示すものだ。この部屋の主が最初に貰った部屋はもっと小さく、狭かった。これが昇格したのに一端噛んでいるほどに注ぎ込んでいる自覚はある。
 小間使いの少女が姐さん、と扉を叩くと返答があった。細く扉が開いて、ライアンを認めた瞳がぱっと明るくなる。白い腕が伸びてライアンの袖を掴まえ、軽くつねった。
「久しぶり、ライアン、全然来てくれないからあたしのこと忘れちゃったのかと思った」
 端からそんな明るい怨み事を言い、遊女はライアンをそそくさと部屋に引っ張り込む。彼女もまだ少女と呼ばれる程度の年齢だ。翡翠色の瞳と薄い茶色の髪がライアンと共通していた。
「しばらくだったな、元気か」
 ひどく月並みなことを口にしながらライアンは薄い外套を脱ぎ、彼女に渡した。
 それを受け取って客用のクロゼットにしまいながら、まだ扉の外に控えている小間使いに酒とあて水を言いつけ、遊女は元気じゃないわよ、と軽やかに笑った。
「ライアンが来てくれないと寂しくて死んじゃうって、この前も言ったのに。ホントに死んじゃったのかと思って、滅茶苦茶、心配するんだからね」
 唇をつんと尖らせて不満不平を鳴らす様子も、さほど嫌味ではなかった。どうこう言いながらもまっすぐにライアンを見る瞳が嬉しさで輝いていることが大きいだろう。
 ライアンはゆるく笑った。神経ごと羽を伸ばしている彼のこれほど明るい表情を、恐らくはこの女以外の誰も知らない。
 シャラ、とライアンは彼女の名を呼んだ。うん、と笑う少女が飛びきりに嬉しそうだ。
 まだ少女の範疇に入る年齢特有の顔立ちの定まらなさではあるが、目鼻立ちは整った部類にはいるだろう。
 少し彫りの深い、冷淡にも一瞬見える顔貌はライアン自身に似ている。シャラと自分が並んでいるところを見たことがある人間は限られているが、彼らは総じて自分たちを似ていると言った。そもそもどことなく特徴のない美女系であるのだ。
「俺の心配はいい、俺は俺で適当にやっている」
 シャラは僅かに首をかしげた。
「うん、でも、今日はちょっと機嫌が悪いね。何かあった?」
「……よく分かるな」
「ライアンのことだから分かるの。他の客の機嫌なんか知ったこっちゃないわよ」
 ちょこんと舌を出して肩をすくめる仕種に、彼女が遊女として自然に身につけている媚態があった。彼女と知り合い指名するようになってから既に3年が経過しているが、少しづつこうして経験を重ねていく様子をどこか複雑な思いで眺めている。
 かといって妓楼から出すにはタリアの様子は自分に有利すぎない。
 チェインの子供たちは自分の女だと興味で見るだろうし、タリアの大人たちはこの女を自分との取引の材料にしたがるだろう。この中が一番安全というのは微妙な事情であった。
 酒が来るとシャラはついていた水に自分の砂糖菓子を取り出して放り込んだ。
 ライアンが酒の新しい瓶を開けてやると、瓶首を掴んで洗面所へ立っていく。中身は捨ててしまうのだ。
「いつものことだけど、勿体ないわよね」
 シャラは苦笑している。
 ライアンは酒を殆ど飲まない。酔いが欲しいときは少しだけ分けておくこともあるが、それは珍しい出来事に属した。それでもライアンが酒を頼むのはそれについてくるあて水と、酒代に含まれている遊女への見返りの金銭のためだ。何かを頼むのはシャラの体面を優先してやるためでもある。
 いいさ、とライアンは気楽に言い、シャラの作った砂糖水を含んだ。彼女の所に来るときは大抵日の終わりだ。好きで甘いものを食べるわけではないが、疲労が溜まってくると欲しくなった。
 シャラは大体ライアンの顔色を見ながらそれを作るべき時に作る。自分に関する限り、シャラは敏で聡い女であった。そしてそれ以外、全く無頓着な女でもある。
 その現金な好悪を、ライアンは憎くは思えなかった。この中途半端な感情がこの3年でねじれて奇妙なことになりつつある。
 多分それは自分が悪いのだろう。悪いと分かっていても胸にあるのは罪悪感ではなく、諦めに似た怯みであった。
「ねえ、機嫌悪いの、どうして?」
 シャラは無邪気を装い、ソファに身を預けながら水を舐めているライアンに身を摺り寄せてくる。肌の熱が触れる。まだ子供に近い身体は、体温が高い。
 それをさりげなく押し戻し、ライアンは曖昧な返事をした。遠ざかった身体を更に寄せるようにシャラはライアンの膝にもたれ、上目遣いに彼を見た。微かに開いた唇と吐息が、既に十分すぎるほどに男を知っていることを伺わせる。
 ねえ、と甘えた声を出すシャラの頬を指先でなぞりながら、ライアンはじっと自分の思考に沈んでいく。シャラを構っているときは寂しがる猫を撫でているような気分であった。
 クインの申し出の内容は推察している。恐らく外れはないだろう。嫌だと言い出したら絶対に聞かないだろうとライアンは半ば諦めている。
 クインに男娼としての価値があるかと聞かれれば大いにあると答えるところだ。自分で客を探すことをしないと言うなら賢い選択であるとも言える。街角にそれと分かる格好で立とうものならすぐに食い物にされて終わりだ。
 クインは自分が素人であることを理解はしている。だからこそライアンに上客を知らないかと聞くのだ。女衒のような真似をしろというからにはその見返りも考えているだろう。
 高級娼婦たちの相場からすれば取り分は娼婦が8の雇主が2程度だが、9をやってもいい。高額であるならその一割だとしても悪い商売にはならない。
 実際自分が手がけるには細かい仕事だし、クインの事情から鑑みてそもそも客として扱えない人種を取り除くこともしなくては。その辺りはチアロを通じてもっと下層の、チェインの子供たちにさせてもいいが、決して駄目な商売であるとは思えなかった。
 クインの切った期限まで、正味1ヶ月と3週間。女のように休養をとらなくてはならない期間がない分、彼の望む金額までは決して無理ではないだろう。一晩で――500から600、というところだろうか……
 具体的な計算はもっと得意な者にさせるとしても、概容はすぐに弾き出せた。無理はない。ほころびはない。クインには確かに万人に君臨するような美貌が備わり、自分にはそれを最も効果的に売りさばく為の方策がある。
 だからためらう気持ちの中核が自分自身の嫌悪であることは余計に鮮明であった。ライアンは溜息をつき、構ってくれないとふくれている少女の頬をゆっくりさすった。
「……知り合いが、体を売りたいと言っていてな。俺は賛成しないが本気らしい……」
 相談というよりは愚痴であった。ライアンはそれだけ口にすると再び溜息になった。
 クインの主張も戸籍の入手に関わる事柄の秘匿に対する怒りも、全てを容易く想像できるだけに気が重い。
 乗り気でない自分の側の理由というのが結局自分の感情論であるから尚更だ。きっと話がもつれればクインはそのことも指摘するだろう。彼は容赦がない。
 と、不意に手が叩かれる。ライアンは何故か一瞬にして不機嫌になった少女の顔をまじまじと見た。
「何よ、それってライアンに抱いて欲しいって事じゃない。やだやだやだやだ、絶対に駄目っ」
 ぷいとその場を立ってシャラは寝台に転がり込み、ふてくされたままで毛布を被って何か意味の通らないことをわめいている。
 ライアンは一瞬呆気にとられ、それから軽く声を立てて笑った。彼もまた席を立ち、寝台に座り込みながら毛布の下で丸くなるシャラの背を撫でてやる。猫を宥めるときのように。
「相手は男だ、変な気を回すな」
 ひょこんと毛布から顔だけが出る。
「……ほんと?」
 ライアンが頷くと、したり顔で毛布から出てきて柔らかく腕を彼の首に巻き付ける。シャラの吐息が耳に掛かってライアンはそれを押し戻した。
 シャラの表情に僅かに陰りが差す。その翳りの濃さを暗さを、次第に重くしつつあるのが自分であるという認識はある。あるが――ライアンもまた、生きていくのに他人が必要な類であった。
 絶対数は少ないが、彼にも守り庇護したいものがある。
 その内の一人、シャラ=クルーエル。彼の中では妹として知覚される存在。
 肉体関係がない故に、いつまでも特別であり続けるであろう女。
 妹だと思う心が少女を容易く自分のものに出来る状況においてもそれを押しとどめている。時折この少女の顔を見て、下らない話をする為だけにライアンは妓楼へ通ってくる。
 それももう3年になった。最初の頃ライアンに身の回りの出来事や不平や不満を洪水のように話すことで満足していた少女もあと数ヶ月で成人である15才を迎える。加齢と共に次第に彼女の瞳にむら立ち上る思慕も濃く深くなっていった。
 ライアンもそれにはとうに気付いている。気付いていて、それでも通うことをやめないのは多分、シャラが記憶に遠く薄い陽炎だけを残す、母と似ている気がするからかも知れない。
 下らないということは承知している。以前からもライアンはそうした感傷に足を取られて身動きできないことがあった。その時も自分のいたらなさを痛感したが、人はそうそう変わらない。
 シャラの思いを知っていてなお、それを無視してまでライアンはシャラに会いたい。似た顔立ちも、同じような色の瞳や髪も、全てが系譜としてつながる気がするから。
 シャラはしばらく不機嫌に黙っていたが、やがて気を取り直したように煙草を吸うかと聞いた。ライアンが彼女に会いたい理由とは全く違う次元で、シャラはライアンに愛想を尽かされることを心から怖れている。
 臆病な素振りは見せないが、やけに明るいときや不意に今までのことを知らないふりで他のことをするとき、彼女が自分の機嫌を損ねたのではないかと怯えているのは感じていた。それも哀れでライアンは余計にこの女を突き放せない。
「こんなもの、どこがいいんだか」
 憎まれ口を聞きながら、シャラはライアンの煙草を鏡台の引き出しから取り出した。多少の量は部屋においてあるのだ。癖だからなとライアンもまた、それまでの会話など忘れたように応じた。
 ライアンはタリアに来てから煙草を覚えた。彼を拾い、兄のように父のようにいてくれた前チェイン王リァン・ロゥが大変な愛煙家で、ライアンが彼の真似をして煙だけを口の中で転がしてはむせ返るのを面白がって幾らでも与えてくれたのだ。
 リァンの行動を通して彼を知りたい一心でライアンは煙草に手を出したのだが、結局習慣になって根付いてしまった。
 今更手放せなかったが、最初にリァンから貰ったときはこんなもののどこがいいのか理解に苦しむと思ったのも事実だったから、シャラの感想も身にしみる。
 ソファに戻って一服を始めると、シャラがふと、呟いた。
「――やりたきゃ、やらしてあげればいいじゃない」
 一瞬おいて、それが先程の自分の呟きに関するシャラの回答であるとライアンは気付いた。視線が自分に動いてきたのを分かったのか、シャラはライアンの飲み残した砂糖水をすすっては自分の言葉に頷いている。
「いいじゃない、自分からやりたいって言ってんだから。馬鹿だなって思うけど。それにただ寝転がってるだけじゃ駄目だって事ぐらいすぐに分かるわよ。それから後のことは本人に決めさせたら? 大体ライアンが心配したって、切羽詰まったらおんなじことすると思うわ」
 ライアンは僅かに眉をひそめた。確かにシャラの言うことは正しかった。
 クインに金が必要なのは動かせない事実だ。金が用意できなければ、クインの母親は死ぬだろう。それが十分に分かっているのだから、ライアンが断って戸籍を突きつけても話がこじれて行くだけだ。
 クインの価値を知り、それを効果的に使うという意味に於いて自分は適任だ。クインもそう思ったからこそこの話を持ちかけているのだ。
 ライアンは深く頷き、そして煙草を深く飲んだ。クインを説得して戸籍の譲渡を受けさせることがまずは優先であろうが、それは断固として拒否されるという未来を、既に彼は脳裏で確定にしていた。