第1章 祝祭の日 12

 太陽が中天を回ったと時計が示す頃から明らかに呼吸と鼓動が落ち着かない。頻繁に時刻を確かめながら、クインは昨晩から少しも重たくならない瞼を遂に諦めて起きあがった。少しは落ち着かなくてはいけないと目を閉じ横たわると、自分の心臓の音が耳を打つ。それが酷く激しく主張する気がしてどうにもならない。
 今日の昼過ぎに、とチアロが連絡してきたのは昨晩だ。頷いた時、自分の首の付け根は軋まなかったろうか。分かったと答えた声は掠れなかったろうか。
 結局こういうことになるのだ、といい聞かせてみても一度知った安堵感が後ろ髪を引く。帝都に帰還した祝祭の日、見知らぬ男に悪戯されたときの嫌悪が肌に蘇ってきてクインは思わず顔をしかめた。
 気分が悪い。口の中に酸い味が広がっていくのを止めようと舌打ちをすれば、また同じ記憶が戻ってきては更に不機嫌になった。
 知らないふりをしてしまえという声は実はそう小さくない。それでもライアンと話をしたいと告げたのは、全てにけりをつけて後の時間が気になるからだ。ほんの数日とはいえ、まるきり無駄にしてしまったことが、心の隅から重く増殖していく。肝心なところで道を間違えたような居心地の悪い焦燥であった。
(条件にあった親子が見つかる)
 何気ない言葉だったからこそ、真実を知ってしまった。自分の要求に応じて、何の罪科もない母娘がこの世から消える。
 他人、といってしまえばそれだけのことかもしれなかったが、それは即ち帝都で暮らしていた頃の自分たちの姿そのものだった。
 消えても構わない母と娘、ということはそう裕福ではあるまい。父に限らず母親に恋人はおらず誰の妾でもないだろう。そうやって地道に生活を営んでいることが裏目になる。
 ――帝都にいた頃、自分たちは幸福だった。
 沢山の忍耐も苛立ちも飲み込まなくてはいけなかったが、静かで落ち着いた、明るい生活だった。母と自分、2人だけの生活はその時間に美しく完全に固定している。消えていく親子の幻はいつの間にか自分たちの過去にすり替わりつつあった。
 それと、とクインは顔を歪める。
 3年前から自分は賓客だった。ライアンは決してクインを自分たちの仲間であると認めなかった。それが悔しくもあったし、寂しくもあったし、逆にライアンの配慮であることも分かっていて嬉しくもあったが、3年が経過してなお、自分は同じ扱いにしかされていない。俺達のことなど分からないだろうとチアロでさえ思っている。
 チアロは余計なことといった。詰まらないことであると言わんばかりだった。彼らにとっては比較するのも馬鹿馬鹿しいほどのことなのだろう。
 それを非難するのは簡単だ。倫理や道徳などを持ち出すまでもなく、明らかに非道と言われる種類である。
 だがライアンやチアロが辿ってきた道筋を考えると、あからさまに言うのは気が引けた。ライアンは昔、稚児として飼われていた屋敷を自力で抜け出してこの町に転がり込んだといい、チアロは父の死後に食い詰めて流れてきたという。
 彼らはその話を被害者のようには語らない。そんな話は珍しくはないからだ。
 それに僅かに胸を衝かれる気がするのは自分が甘いからだろうか。この世界の水を飲めないと念を押されている気がして、尚更クインは不機嫌になった。
 やらなくてはいけないことははっきりしている。自分の力で母を救い、どうにか今後の目処をつけること。出来なければ母の死を見ることになるだろう。後1、2年の内に残酷な死を。
 黒死は死病だとライアンでさえ知っている。金のない者には容赦がない。だが金さえあれば違う。進行を食い止め、療養所の中では普通に生活することさえ出来るのだ。
 薬に施されている魔導の構成さえ分かれば自分でしてみてもいいが、母の身体で実験するわけにも行かないし、第一医療に関してはクインは素人であった。今から必死でその方面を勉強したところで通常10年以上掛かると言われる医学の修得を2ヶ月で成し遂げることは出来ない。
 金さえあれば。それだけが懸案だった。だから戻ってきた。最後に残る身一つでも、まだ価値のつくものが自分自身に残っているかどうかを確かめに。
 ライアンの反応は困惑と淡い怒りであり、それも予想は出来ていた。彼が昔、男に飼われていた身であることも無関係ではないだろう。ライアンはそれを屈辱的な過去だと思っている。だから自分が同じ事をしたいというのが信じられないという目をした。
 馬鹿な奴、とクインは唇を無理矢理に笑顔の形にする。
 そんなことは出来事だ。自分の身体の上を通り過ぎて行くだけの通り雨だ。そんなものに撲たれて自分を変えることなどあり得ない。それに嫌悪感が伴うのは仕方ない。通り雨だとしても濡れたら気持ちが悪いのは当たり前だから。
 だが、手段を既に選ぶ時間ではない。自分の力でどうにかしてみせると確かに自身に誓ったはずだ。戻ってくる間、ずっと考えていたことだ。元に戻るだけなのだ――そしてクインは思い切り苦い顔になった。一度安堵を覚えてしまったつけを今、一息に払わされている気分だ……
 クインが何度目かも分からないような溜息になったとき、軽く扉が叩かれてすぐに開いた。
 入ってきたライアンはいつもと全く変わらぬ無表情だ。やあ、と軽く挨拶をするとただ頷いた。表情が読めないのは普段と同じだが、それさえ当てつけかと思えてくる自分にクインはようやく苦笑した。
「――話があると聞いた」
 やはりライアンの切り出しは単刀直入であった。適当に座って煙草を始める彼の仕種を暫く眺めていると、最初の一服を終えたライアンの目が自分にまっすぐに向いた。
「……チアロから何も聞いてない?」
「お前が話があるとしか言っていなかったが」
 チアロは余程腹に据えかねたのだろう。クインが切り出し難かろうと知っていて説明していないのは微かな抵抗といえた。
 もしくはライアンは知っていてしらを切っていることもあり得る。どちらにしろ、彼を呼びつけた理由を口にしなくてはならないことは変わりなかった。
「――ライアン、戸籍のことなんだけど」
 そう口に乗せるとライアンはちらりと彼を見て、再び煙管に口を付けた。僅かに頷いたのは促してくれているのだろう。クインはあの、といいかけて乾いていた唇を舐めた。心臓の音が激しい。血潮の登る感触がこめかみ辺りを酷く叩いている。
「戸籍……戸籍を、探すのは……条件に合う相手を捜すことだっていうのは本当に……」
 呟いた言葉に呆気なくライアンが頷いた。そう、とクインは一瞬痙攣した頬を隠すために俯く。自分の推測は正しかった。チアロがしまったという顔をしていたのも自分がこれに抱く嫌悪感の種類を察したからだ。
 そしてライアンは恐らくそれを知っていてクインには言わなかった。内実を知れば拒否するだろうと思っていたから。
「戸籍のことは俺に任せろと言ったはずだ。今更要らないというのじゃないだろうな」
 ぴしりと釘を差されてクインはいや、と苦笑に見えるような顔を作る。ライアンが一瞬それを目に留めて、やや温い吐息をついた。
「要らないか……」
 ライアンの言葉にクインは頷こうとし、そしてぎこちなくしか動かなくなっている体に気付いた。痺れたように、顎を引くことだけが出来ない。
 微かに震えている彼に気付いたのか、ライアンは一服を長く吸った。吐き出されるほの青い煙がそのままライアンの溜息に見えた。
「理由を言え、クイン。俺は命じるだけで済むが、実際戸籍を探しているのはチアロとその下の連中だ。連中に何と言い訳すればいいのかを教えろ」
 ライアンの物言いで、彼が戸籍の拒否を不愉快に思っているのは分かった。そうだろうとクインも思う。自分とて是非にと頼まれて引き受けたことをそうそう撤回されては面白くもない。
「……俺は、戸籍は空いたのを探すんだと思ってた。条件に合うのを探すんだと。でも、違うんだろ? 戸籍じゃなくて、戸籍を持っていて条件に合う人間を探すんだ……乗っ取るために」
 ライアンは一瞬おいてから頷き、それで、とつまらなそうに促した。クインは苦い顔をして見せた。チアロの反応よりもライアンの方が数段冷徹であった。余計なこととチアロが表現した感覚を、ライアンは更に際だった形で持っている。
「俺はそんなことだって知らなかった。最初に言ってくれなかったのは不公平だ。俺が……俺が余所者であんたたちの世界に馴染めないし付いていけないと思ったから? でも、それは不公平だ、ライアン、そんな事だって知ってたら最初から頼まなかった」
 ライアンは黙ったままクインを見つめた。視線には特別な力みがなかった。クインはそれを殆ど睨むようにして返した。ライアンの緑の瞳の中にいる自分の顔がひどく強張っていて、しかも泣き出しそうな顔付きをしている。
 泣いて嫌だと言えばライアンは折れるだろうかとクインはちらと思い、そして強烈な嫌気に顔を歪めた。そんなのは泣き落としだ。それでは全く自分はライアンの荷物でしかない。
 自分は彼と対等になりたいのだ。彼に保護を求めることがどれだけ自分の負荷であるかを噛みしめているのも、彼に頼ることに居心地の悪さを感じるのも、その係累の感情だった。
「俺には価値があると、あんたが昔そう言った。もう一度、同じ事を聞きたい。俺には価値があるか」
 ライアンは黙っていた。沈黙は長く続いた。煙管を持つ指が何度も柄の部分を撫でるのを見ていると、やがて低い声が言った。
「ある」
 クインは大きく頷いた。だから、と言いかけたとき、ライアンが素早く遮った。
「だが、俺は賛成しないと言ったはずだ。クイン、お前が何も娼婦のような真似をしなくても俺が出来ることはしてやる、それで何故いけない」
「俺が望んでいたのは、無関係の他人を殺すことなんかじゃない! そんなのはいやだ、俺に価値があるっていうならそれで済むじゃないか!」
「――誰かを犠牲にしながらでないと生きていけないのは当たり前だ、自分の見えない範囲のことなど考えるな」
「へえ? じゃああんたが犠牲にして踏み台にしたのはリァン・ロゥってわけ?」
 口にした瞬間にしまったとクインは顔を引きつらせた。
 それとライアンが思い切り側の小卓の足を蹴ったのが殆ど同時だった。大きな音にクインは一瞬身を強張らせ、そして怯んだことへの反射的な嫌悪でさっとあらぬ方向を見た。
「……リァンのことは、口出し無用だと、何度言ったら分かる……」
 ライアンの声は一層低く、掠れて途切れるようだった。
 これがライアンの胸奥に深くえぐり残る傷であると、知っていたはずなのに咄嗟に出るのは何故だろう。ライアンがリァンの死に深く傷付き、自分の追憶と胸に流した血の涙で溺れて死にたがっていたことさえ、見ていたはずなのに。
 3年前に同じようなことを何気に口にしたときは手加減なしに殴られているのだから、ライアンの反応はましになった方であるかも知れない。だが、未だに先のチェインの少年王の死をライアンが後生大事に抱えていることが癇に障る……
「ライアンは死んだ人間のことばかり見てる……」
 独り言のような呟きに、ライアンの方は黙り込むことで対話を拒否した。クインは暫くライアンの顔を見つめていたが、そこにあったのは普段と同じ無表情であった――が、煙管をいじる指が、せわしない。
 自分の言葉は確実にライアンを強かに撲ったのだということは分かった。
 分かったからこそ、苛立ちも募る。3年前からそれは同じだった。誰からも特別に扱われることに慣れていたクインにとって、そうでない者もいるということが驚愕であり、侮辱でもあった。
 ライアンは彼が庇護し、庇う相手が欲しかった。それは自分でなくても良かった。ライアンにとってそれは誰であっても少年王の身代わりであって、それ以外の意味などなかった。だからあんなに苛立ちを覚えたのだろうかとクインは今更思い、唇を噛んだ。
「……いいよ、あんたは俺のことを好き勝手に守りたいってやつなんだ。俺はそんなのはいやだ。俺はあんたの付属物じゃないし手下でもない。俺は取り引きしたいと言ってるんだ、あんたにだって損な話じゃないのに」
 ライアンは返答をしない。黙って煙管の柄をいじり回している指先が、先程よりは落ち着いているのは彼も冷静に立ち返ってきているということであった。
 自分の言葉を吟味しているのだろうかとクインは時間を待ち、軽い溜息をついて寝台にぽんと座った。
 地下のじめついた空気がこんな時は溜まらなく煩わしかった。地下に潜るという言葉のいかがわしさを、文字通りに湿度の高さで肌に感じている。それが我慢ならないと思った頃に、ようやくライアンが重い口を開いた。
「何故、戸籍ではいけない――かつてはお前の母親だってそうしたはずだ」
 クインは虚を突かれて目をしばたいた。
 それは、と呟いた瞬間に冷たい汗が駆け上がってくる。それきり言葉を見失ってクインは凍えたように固まった。
 自分が性別を偽りながらも学校へ行くことが出来たのは戸籍の賜物だった。母と自分を平穏に守ってくれたあの戸籍。偽名に使っていた少女の名が噴き上がってくる。その少女は一体どうしたのだろう……
 母さん、と低く呻いた言葉に自分でもはっとするほどの苦みが混じっていた。クインは意味もなく首を振り、そして長い溜息になった。母は戸籍の取引の内実を知っていたのだろうか。
 そんなはずはないと思いたいのは自分の感傷で、実際がどうであったか分からない。だが、知っていたとしても買ったかも知れないと思うと、胸が重い。
 母は疲れていたはずだ。流転の続く幼い日々に、母の恐れと怯えを敏に感じ取って自分でさえ酷く神経質だった。今でも根幹は変わっていない。自分の真実の姿がさらけ出されていないかどうか、どんな時でも冷めた意識が検証している。
 追われて流れて辿り着いた帝都は自分が皇帝の落胤であることを思えば敵中に飛び込むのとあまり変わらない。その時に自分たちを安全に守ってくれる戸籍がどれだけ眩しく見えただろう。
 田舎に行けば無戸籍は目立つ。帝都であるならさほどではないが、個人を特定する条件に無戸籍があるのならば、戸籍はどれだけ役に立っただろう。
 母は戸籍を買った。意味を知っていたかどうかはもう分からない――聞くのも怖かった。