第1章 祝祭の日 13

 長い時間をやりすごし、クインはようやく顔を上げた。ライアンは目を逸らさずに彼をじっと見ていた。その視線を正面から見るのが酷く辛く、クインは視線を下へやった。
「……でも、あの戸籍は……もう……撤回するわけに行かないじゃないか……」
 これが単に論旨のすり替えであり、言い訳であることをクインは承知していた。
 ライアンは黙っていた。それが彼の気遣いであることを承知して、クインは再び俯いた。それは哀れみとさほど意味が変わらなかったからだ。
 過去のことはいい、とクインは自分に刷り込もうと躍起になった。今優先しなくてはいけないのは他のことだ。誰かを犠牲にしながら生きて行くしかないのだというライアンの言葉も一面においては正しく、このタリアではより真実に近かろう。倫理観や世界観というものの認識の深い溝を埋めるべきは今ではなかった。
 苦い残滓を胸に噛みしめながらも、それを思考の隅へ追いやろうとクインは深く呼吸をし、ふり起こすように首をもたげた。
「だから、戸籍は要らない。何にしろライアンの負担になるのは分かってるけど、俺に価値があるというなら、少しは返せるはずだ。そうだろ、違う?」
 一瞬おいてライアンは違わないな、と苦笑し、煙草を吸った。
「……俺は賛成しない、と何度も言っているな。同じ事を今俺が言ったらどうする」
 クインはその質問に首をかしげ、ややあってから肩をすくめた。
「そしたら皇城で一騒動起こすしかないね……でもそこから足がついて母さんに何かあったら、俺は首を吊りたくなる」
 自分とよく似たあの皇子のふりをして中に潜入し、めぼしいものでも盗んでくるしかない。皇城の内部に関しては全く未知であったから、これは危険が酷く大きいとしか言いようがなかった。
 クインは自分がこの一点に関して酷く神経質だと言うことを承知しながらも、自分を追っていた者たちの影をみすみす踏む気がしてならない。皇位継承だとか立太子だとか、そんなことに興味はない。だがそれは自分の気を惹かないだけであって他人には違うのだろう。だからずっと追われていた。立太子が済むまでは安楽に構えたくないのだ。
 ライアンはそうかと頷き、煙管の灰を小皿に落とした。
「いいだろう。取り分は経費を引いた後の9と1だ。細かいことは俺に任せろ」
 それがあまりに唐突だったのと抑揚のない呟きだったことで、クインは僅かの間ぽかんとした。ライアンが煙管をいじりながら続けた。
「お前の事情は先に聞いている。最大限、出来る限りの配慮をしよう―――いつから出来る」
 最後の質問でようやくクインは顔を上げた。ライアンはいつもと同じように静かであった。
 いつでも、と返答したのはひどく長い一瞬の後であったようにクインは思った。微かに呼吸が乱れた後で強烈に喉が渇いてきて、唇をゆっくり舐めた。
「なん……だよ、急に反転しやがってさ」
 自分の動揺を苦く思う気持ちが責める言葉になってこぼれたことを、クインは自分で嫌悪した。ライアンはぬるい吐息を落とした。
「俺が幾ら嫌だ駄目だと言ったところで実際客と寝るのはお前だからな。それにお前の母親には多少借りがある。お前がそうしたいと言って俺が出来ることというならそれくらいしかないのも本当だろう」
 一宿一飯の恩ってやつ、と混ぜ返すとライアンは彼には珍しい温かな笑みを浮かべて曖昧に首を振った。それ以上を聞ける雰囲気ではなかった。クインがそれを混ぜ返さなかったことで話は終了したと取ったのか、ライアンは一際大きく煙管を叩いて立ち上がった。
「後のことは話が付いたら連絡しよう」
 話の時間は終わりのようだった。時計を見るとライアンが来てからまだ半刻もしていない。ライアンは大体の道筋の整理をつけてきたのだろう。
 結局ライアンが手を貸さないと言い張ったところで、自分も意固地に戸籍は要らない自分で金は稼いでみせると主張したに違いない。手間を省かれたのだとも思われたが、さほど駆け引きを好まないライアンの性質に照らせばそれも頷けた。
 火の消えた煙管を腰のベルトに差し込み、ライアンが椅子から立ち上がった。帰るつもりなのだと考えるまでもなかった。やや長身に属する身体が扉の前まで歩くのを見送りかけたとき、やっと声が出た。
 ――大切な話は、実はもう一つある。
「頼みがあるんだ」
 絞り出したような声に、ライアンは視線だけを振り向けさせた。僅かに寄せた眉の隙間から、怪訝といった表情が見えた気がした。
「1万、俺にくれるんだろ? ……だったら……」
 そこまで口にしかけてクインは羞恥と気後れのためにすっと顔をライアンから背けた。
「だったら、何だ」
 ライアンの声が僅かに低く促した。うん、と頷くと耳朶がひどく熱い。かあっと血の気が上がってくるのが分かる。クインと更に要請されて、もう一度クインはうんと頷いた。
「だったら、その……あんた、ひ、暇な時でいいんだけど――あ、いや、割とすぐにがいいんだけどさ……」
 言いよどみ、口ごもりながらクインは視界の端にライアンの姿を入れて、彼が煮え切らないことに痺れを切らして出ていこうとしていないかを確かめた。
 ライアンは僅かに彼に向き直ったようだった。そんなことくらいなら分かる。その仕種で続きをせかされていることも。
 クインはあのさ、と意味のない言葉を連ねて舌打ちをした。踏切が甘いのは覚悟が足らないからだ、という非難が跳ね上がってきそうになる。
 どうした、という声が程近くでしたことで、クインははっと顔を上げた。出ていこうとしていたライアンは今は彼の側にいて、彼の顔を覗き込んでいる。端正な顔が殆ど眼前にあるようで、クインは僅かに後ずさった。
 ライアンは彼の仕種が子供を怯えさせてしまったと気付いたのだろう、唇をゆるめて彼から離れた。
 ほんの少しだけ喉を空気が通るようになった気がして、クインは長い溜息をついた。溜息の最後にくくられていたように、するりと最初の言葉が出た。
「……あんたは俺が素人だって言ったよね――俺もそう思う。キスのことだって、言われなければ多分今でも知らなかった……」
 あの瞬間の苦い怒りが微かに遠く、届かないところで海鳴りのように轟いている。それは何のためであったろうか。自分の幼さに嫌気がさしたのか、何も知らないのだとたかを括られていたことが腹立たしいのか、それとも――
 クインは内側に閉じこもっていきそうな思考を振り切るように首を振った。
「だから、その……何ていうのかな、さ、最初の客になんないか?」
 死ぬような思いで吐きだした言葉の後、クインは俯いたまま目を閉じてはそっぽを向いた。
 ライアンの返答を待つ。彼の顔など見られない。
 たっぷりした、間があった。
「……何て?」
 ライアンの返答には肯定も否定も載っていない。どれかというなら呆気にとられているというのが正しいだろう。
「だからその1万で俺を買わないかって言ってんの!」
 吐き捨てるように叫ぶと、ぱあっと血の気が更に上がってきたのが分かった。ライアンの回答はない。面食らい、戸惑っているのだろう。それくらいなら分かる。何故、と聞く声も詰問ではなかった。まるで子供のように、ライアンは素直な疑問を口にしている。
「だから……俺が素人だって分かってる奴に、その……色々、教えて欲しいこともあるんだってば……べ、別にあんたじゃなくたっていいんだけど……」
「お前の秘密を知っている俺に秘密の分の担保にしろと?」

 思っていたことの大まかを指摘されてクインは頷くが、ライアンの顔はまだ直視できなかった。暫くして聞こえた溜息は長い。多分に呆れたような空気が含まれているのも錯覚ではあるまい。
「――必要なことは客の方が面白がって教えるだろう。それでいいじゃないか」
「俺が嫌なんだよ!」
 叫んでからクインは顔を上げてライアンを睨むように見据えた。クインの突然の反目に彼は驚いたようにぴくりと眉を動かした。
「俺が嫌なんだよ、そんなのは! 素人だって分かってなめられるのも、面白がられるのも、全部全部嫌だ! 俺は主導権を取りたい、ライアン、どんな奴だったとしても俺が絶対に優位にいなきゃ嫌なんだよ!」
 誰かが自分を優位に操るなどということを考えただけでも胸が焼けるほど苦しい。
 それは屈辱ではなく、怒りのためだ。自分の心の作用は刺々しくなる方に突き抜けている。思い通りにならない苦しみや不快は苛立ちになり怒りに変わる。
 それは最終的に他人に投げた罵詈雑言が自分に返ってくるように、明確な作用といえた。
 クインは自分の心理について、根元は理解している。誰に対しても主導権を握りたい、好意を持った相手とは対等でいたい。その根は不安だ。いつでも傍らにあった、ひっそりと生活に影を落としていた、見えないために、なお暗い闇。
 それはどれだけ自分の神経を細く、そして過敏にしていることだろう。クインはいつでも思考を重ねることで不安から逃れようとした。大丈夫だ絶対に平気だと熟慮の末に辿り着いた結論でも、それをひっきりなしに検証しようとしているのは確かだ。
 誰かが自分を好きなようにするのかと思うだけで、まともに立っていられないほどの不安に駆られる。その逆であれば自分は落ち着いていられる。誰であれ、自分を手玉に取ろうとするなら許さない……
 許さないと口の中で呟いた瞬間に、脳裏で逆巻いていた沢山のうねりがぽろりと頬を伝ったのが分かった。悔しくて。
 クインはそれを急いで拭う。泣き落としなどと思われるのは心底腹に据えかねた。
 ライアンは黙っていた。彼は元から無口だが、こんな時は何か言ってくれないだろうかと焦れたものを感じる。だが今、口を開くと何が飛び出してくるか自分でも良く分からない。
 分からないままにクインもまた沈黙するしかなかったが、ライアンが涙のことについて何も触れないことに安堵を覚えた。彼は自分を理解しようと努めてはいるのだとクインは思い、その思考でようやく溜まっていたものを飲み下すことに成功した。
「……あんたは、俺が、あんたたちのことなんか分からないだろうって思ってる……」
 涙の余韻で震える語尾を無理に押さえながら言うと、ライアンは一瞬おいて頷いた。それは自明だった。3年前から一切変わらぬ態度も同じ事を教えてくれる。
 クインは睫に溜まった残りの水滴を指で拭い、唇を笑うような形にゆるめて見せた。
「そして俺も思ってる、俺のことなんか分からないくせにってさ……ライアン、俺は、誰かが俺をいいようにしようとするのが嫌だ。他人の思惑に乗せられるのは絶対に嫌なんだ。身体を売ることなんてどうとも思っちゃいない、とは言わない……これでも一応高等教育ってやつを受けてるんでね、ある程度のことは刷り込まれてるからさ――でも、嫌なことにも順位がある。俺が一番嫌なのは、俺の意志を無視して俺を好きにしようとされることだから……」
 ライアンは身動きせず、じっと彼を見つめていた。自分の奥を透かされるような気後れと怯みにクインは一瞬目を閉じ、怯んだことを自分で苦く感じて視線をライアンに戻した。
「だから、俺は――俺は割とあんたを信用してる。3年前に俺を何故助けてくれたのかは知らないけど、その事実だけで、その後のことも含めて十分だったから……だから、俺はあんたに頼みたいんだ」
 言葉をようやく切って、クインはライアンを見つめた。ライアンはやはり瞬きもせずに彼を見ていた。
 緑の瞳の奥に自分が映っているのは見える。だがその更に奥で彼が何を考えているのかは計り知れなかった。突飛な言いだしだと分かっていても、結局クインの要求を満たす相手として資格があるのは事情を知っているものだけだ。
 ライアンは担保という言い方でそれを表現した。説明しなくてもいいことが少ないとほっとする。必要だとしても口に出すことに踏ん切りがいることもあった。
「……俺が拒否したら?」
 ライアンの声が低く尋ねた。クインはさあ、と首を振った。
「分からない。でも……」
 未知の物に対する怖れも、怯えも、否定はしない。ただそれを見知らぬ他人に見透かされるのが嫌なのだ。帝都へ帰還したあの晩に、路地裏でされたような屈辱はもう沢山だった。
 クインが口ごもりながら語尾を濁したことで、ライアンは溜息になった。だがそれはそう長いものではなかった。彼は一瞬ぎゅっと眉を寄せて渋面を作ったが、呆気なく頷いた。
「分かった。ではお前の担保というのをもらっておこうか」
「――いいの?」
 クインは不思議にライアンの面持ちを眺めあげる。暗い地下の部屋で、灯りから遠い位置にあっては微妙なところは良く分からなかった。
「お前を暫くは飼わなくてはならない。躾は飼い主の義務――というところだろう。いい、俺も……そうだな、客の下で泣きわめくお前よりはその方がいいと思う」
 クインはゆっくり頷き、言うべきことを全て終えた安堵のための眩暈に僅かに均衡を崩した。半歩下がって長い吐息を捨てていると、ライアンがまた、と出ていこうとした。クインは顔を上げる。まだ具体的な話は一言も進んでいないのだ。
 それを言おうとした瞬間、ライアンが振り返った。
「戸籍の撤回のこともあるし、上客の選別もある。2、3日は何もしなくていいから身体を休めておけ。……長く暮らすにはここは環境が悪い、新しい部屋へ移る用意をしておくように」
 クインは頷いた。それに素っ気なく頷き返してライアンが出ていくと、部屋はやっと静寂になった。
 膝から力が抜ける。その場に座り込みながらクインは僅かに身震いし、そして自分の身をしっかり両腕で抱きしめた。
 あの晩の男の執拗な愛撫が払っても払っても蘇ってくる。意識が半ば朦朧としていたせいだろうか、肌に直接ねじ込まれたような刻印は記憶の底に沈めようとする度一層鮮やかであった。
 ライアン、と呟く。信用だとか、そんな話ではない。結局自分にとって心許せるといっていい人間は母と、チアロと、彼しかいない。
 それしかないのだと、分かっているからこそライアンを無理矢理巻き込もうとする自己がひどく厭らしい生き物だと思った。