第1話 祝祭の日 4

 ゆるやかな覚醒であった。目を開けても暫く動けないほどの疲労が身体を低く押し込めていて、溜息一つ付くのにもひどく毛布が重い。軽く漏らした吐息が自分のものではないように沈んで、彼は瞬きをした。
 ぼんやりした遠景は最初、暗い色にしか見えなかった。目に映る濁った色の物が薄汚い天井板だということを理解するまでにややあって、彼はやっとここが何処であるのかを納得した。
 自分は戻ってきた。戻ってきたのだということを先にも思ったはずであったが、昨晩の記憶が次第に蘇ってくるのと同時に、それが強烈な実感になって自分の中に根を張っていくのが分かった。
 3年前に帝都から逃げ出す直前まで、自分の一番の居場所であったはずの街は、相変わらずだった。巨大な歓楽地を回遊する男達の顔付きも、女達の振りまく華やかな光彩も、そこにいる人々の顔ぶれは変わっても、色味は何も変わらない。
 3年前に自分と同じようにどうしようもなく子供であったはずのチアロが、少年という年代の階段を歩み上がってはいても、彼特有の明るい空気がそのままであったように。
 ライアンも同じだろうかとクインは思いながら、ゆっくり起きあがった。最初に感じたのは酷い眩暈だった。体が重い。食事をしながらチアロと近況の話などをしていたような記憶があるが、それも途中から急速に不明瞭になっていく。酒だろうか、それとも疲労だろうか。どちらにしろ、自分でこの部屋に転がり込んだというわけではなさそうだ。
 3年前に出入りしていた古屋敷の内装とはやや違う。あちらもこの場所とそう変わらぬ汚さであったが、それでも部屋の造りの雰囲気が違うことだけは分かる。
 寝台の横の窓から外を眺めると、やや離れた場所に煤けた赤い色にぼんやりと染まる地域があった。
 あれがタリアの境界門から続く大通りであるはずだった。その遙か向こう側に、魔導の塔の威容が霞んで見えている。距離感と方向から自分がいるのがやはりタリアの中であることは分かった。
 クインは再び溜息をつく。物音が殆どしないから、人が少ないのだろう。チアロと行動を共にしていればその内に昨晩のような余所者への干渉は減っていくだろうが、今はさほど期待できない。自分の顔立ちはひどく目立つはずだったが、期待しすぎるのは間違っていた。
 だが、この部屋はチアロの自由になる内の一つに違いなかった。タリアには無数の覇権や利権を巡る派閥がある。大人達にもそれがあり、少年達にもそれがあった。どちらにしろ頂点に立つ者は存在するが、だからといって下位の派閥が解消するわけでもない。
 チアロがここへ自分を連れてきたというならば、この場所はチアロにとっては安全地帯であるということだ。ならば、まだこの建物の中にいるかもしれない。もしくは、信頼できる配下に何か言い残しているかどちらかだ。とにかく他人を捜さなくてはいけないとクインは結論をつけ、寝台から滑るように下りた。
 立ち上がろうとした瞬間、鈍い痛みと共に膝ががくんと抜けた。思わず前のめりに倒れて手をつく。足裏がじりつくように痛い。クインは床に手をついたまま怪訝に振り返り、両足首から下に捲かれた包帯に目を留めて眉を寄せた。
 床に座り直して足を引き寄せてみれば、包帯の巻き方はいい加減で適当ではあったが強い消毒薬の臭いがした。おそるおそる包帯の上から足を触ると、全体が軋むように痛むのと同時に、足裏が痺れたようにずきずきと脈打っているのが分かる。
 この所ずっと歩き詰めだったからなとクインは苦笑した。それでもどうにか帝都の門を潜りタリアまで辿り着けたのは他のことで飽和していて痛みなど感じている余裕がなかったからなのだろう。これは呼吸が落ち着いてから魔導で多少癒してやれば良いように思われた。
 旅を重ねながらもクインは魔導の鍛錬だけは続けていたし、どうやら自分にそちらの方面に置いて突出した才能があることも知っている。魔導は才能の要る科学であるということはよく言われているが、その才能は遺伝する。魔導士は出自の秘匿が義務であるが、優秀な魔導士のごく近い血縁者を半ば強制的に入塔させているという噂も昔から存在するほどだ。
 他人を呼んだ方が良いという結論は変わらないから、クインは扉まで這って進んだ。扉に手を掛けようとしたとき、だがそれは外側へ逃げるように開いてクインは再び手をついた。
 軽くあげた驚声が可笑しかったのか、朗らかに頭上で声が笑った。
「悪い悪い、お前が絶対に自分で何でも解決したがる奴だって事は知ってたつもりなんだけどな」
 昨晩と変わらない明るい笑顔でそんなことを言い、チアロは手にしていた盆を寝台に素早く置くとクインの肩を支えた。半ば担ぎ上げられるようにしてよろよろ寝台に戻ると、クインは肩で呼吸をしている自分にようやく気付いた。
「大丈夫かよ、本当に。お前さ、どこから歩いてきたんだよ。普通に歩いてたみたいに見えたから構わなかったけど、かつぎ込んでからびっくりしたんだぜ。一応手当はしといたけど、ちゃんとした医者を知ってるならそっちに行った方がいいかも知れないってライアンも言ってたからな」
 軽く頷き、クインはライアン、と聞き返した。自分は彼に会いに来たのだった。どうやら眠っている間に一度、彼は自分の顔を見ているらしい。
「ライアンは? あいつ、来てるの」
「いるよ。今ちょっと出ていったけど、煙草じゃないかな。すぐ戻ってくるさ。そんなことより、取り合えず何か食えよ。お前、しばらく殆ど食べてないだろ? ちょっとは顔色も戻ってきてるけど、酷いもんだぜ」
 クインはやや頬が紅潮するのを感じた。返す言葉は何もなかった。それが事実であるからだ。
 彼の決まり悪そうな顔付きにチアロは笑い、食えよ、と先程彼が寝台に置いたままになっていた盆をクインに押し出した。クインは簡単な礼を言って盆の上のパンに手を伸ばした。どう繕っても金がないことは変化しなかったからだ。口を動かしていると頬が鈍く引きつった。
 祝祭の夜に通りすがりの男に殴られたことを、クインはようやく思い出した。そっと指先で触れてみると、既に痛みは引き始めていた。痣にはなっていないだろうか。胃に物が入る度に、押し上げられるように思考力が戻ってくる。
 痣になっていたら困る。自分の価値も財産も、今はこの顔一つであるのだから。
 クインの様子で何を思っているのかを察したのだろう、チアロが洗面所から小さな鏡を取ってきて差し出してくれる。中を覗き込むとまず頬の痣が気になったが、そちらは既に肌の上には殆ど痕跡を残していなかった。この様子では明日には殆ど分からなくなるだろう。
 だがもっと衝撃的な物を見つけてクインははっと顔を上げる。思わずわし掴むようにして目の前に引き寄せたのは、髪。幻術が解けて、元の瑠璃石色に戻っている髪であった。
「髪だろ」
 彼が何か口にする前に、チアロが素早く言った。クインはごくりと生唾を飲み込みながらチアロを見た。
「チアロ、これは」
 あてもなく言い訳を探してクインは唇を開き、そのまま沈黙した。何から、どうやって説明すれば誤魔化せるのか、それとも自分の知っている事実を話す方がいいのか、どうすれば一番良いのか、沢山の言葉や方策がぐるぐる脳裏を巡って収拾がつかない。
 チアロはライアンの一番の配下だ。ライアンと自分が顔見知りであるか否かの判別をさせるのに少年達がチアロを呼ばせたほどに。
 ライアンと自分の間の話は彼に筒抜けていく可能性も大きい。ライアンが忙しいというのが本当だとするのなら、自分とライアンを繋ぐ役割を負うてくれるのはチアロだろうから――
 自分の顔から血の気が引いていくのがはっきり分かった。自分の目立つ顔立ちに更に目立つ髪の色はきっと何処かで極悪な外札を掴ませるための罠だという囁きが、ぐるぐる、めまぐるしく、ひっきりなしに、自分の中を動いている……
「クイン」
 呼ばれるのに続いて肩が揺すられ、クインはやっと返事代わりに一つ頷いた。チアロの目は優しく笑っていた。
「ライアンの言うとおり、お前には秘密が多い。だから俺は、お前が自分で判断するまではお前を目立つように振り回したりはしない、これは約束だ。ここに押し込んで次の朝に様子を見に来たときには変わってたけど、俺以外は誰もいないから少しは落ち着け」
 クインはややあってから今度ははっきり頷いた。その言葉よりも、彼の目の柔らかさに安堵したのかも知れなかった。ごめん、と呟くと真実それに近い申し訳なさが胸に興ってきた。
 話せないことも多く、秘密にしておくことも多い。悔しいのはそれをどれだけチアロに話していいのか、今の時点ではまるきり見当が付かないことだ。謝るしか出来なかった。
 いいって、とチアロは重ねて笑い、そしてすっと立ち上がった。この3年で見違えるほど伸びた背丈が見上げるほどすらりと高かった。
 彼の視線が滑るように部屋の扉に動いたのが合図だったように、音もなく扉が開いた。
 入ってきた男にクインは目を細めた。男もまたクインを見た。彼の淡い緑色をした瞳が迷い無く、適格に自分を射抜いていくのが分かった。クインは痛む頬に構わず、笑って見せた。 
「久しぶり、元気そうだね」
 クインの目の前で、ライアンはやや苦みの混じったような笑みになった。大げさに表情が変わらない辺りは3年前と大差ない。
「お前もな、と言ってやりたいところだが、何日かは派手に出歩かない方がいいだろうな。必要な物は全て揃えてやるからそうしておけ」
 ライアンの声は低く落ち着いて、3年前最後に彼が見た、怒りと憎悪で煮えたぎるような熱は既になかった。彼が今生きているということは、あの決闘に勝ち、それからも沢山の物に勝ち、これからも勝ち続けて行かなくてはいけないのだろう。
 ──多分、それは都合の良いことなのだ。ライアン自身の負担や重苦などとはまるで別の観点の、例えばクインが彼に寄生する条件としては。
 それを思うと自嘲の苦い潮が口の中へ上がってきそうだった。クインは重苦しい空気を無理に喉奥に沈めて、今度は持ちうる限りの虚栄をかけて華やかに微笑んで見せた。ライアンは僅かにすがめになり、そして苦笑した。
「……済まないが、これから王屋敷へ行かなくてはならなくなった、お前の話は今夜にでも聞いてやるから――チアロ、クインを地下水路の俺の部屋に移せ」
「でも足が、ライアン」
「お前はこれをどうやってここまで連れてきたと言った」
 チアロがくしゃりと顔を歪めて、ふてくされたように唇を尖らせた。不承諾であるというよりは明るい不満顔というところであろう。
 後でな、と言い残してライアンはそれ以上二人に口を挟ませずに出ていった。相変わらずライアンの行動律に一葉も噛みつけない苛立ちが持ち上がってきそうになる。それが表情に出る前にクインは大仰に溜息をつき、チアロに向かって肩をすくめて笑った。
「全くお忙しいことで」
 からかうなよ、とチアロは今度はやや真面目な表情になった。
「去年タリア王の交代があって、ライアンはもうチェインだけのことに関わっていられない――って、昨日その話もしたはずだけど、お前、綺麗に忘れてるだろ? ライアンは今のタリア王アルードの気に入りだから、細々したことが沢山有るんだよ」
 クインは曖昧に頷いた。チアロが説明したというならそれは本当のことだろう。結局のところ、途中で意識を見失った方が悪い。クインはばつの悪そうな顔をするよりも謝るよりも、もっと自分らしいとチアロが笑うであろう方を取った。
「で? 連れていってくれるんだよな?」
 チアロは一瞬を置いて、予想の通りに笑い出した。