第1話 祝祭の日 5

 チアロがぶつぶつ軽口を叩きながら彼を連れていったのは、迷路のように入り組んだ地下水路の奥の、深淵といって良い位置にある小さな部屋だった。
 目覚めたアパートの地下室から潜り込めるようになっている辺りは、チアロもこの街の住人なのだとクインは奇妙なところで合点した。人目に付かない通路を幾つも使っていることが、彼の立場の高さを教えてくれる。用心を知っているのだ。
 地下は土と黴の独特の臭い同士が入り交じって、胸が悪くなりそうな空気が充満していた。地下水路に下りて部屋に辿り着くまでクインはずっと顔をしかめ通しであったが、部屋の方はかなりましであった。若干空気の匂いは残っているものの、気にしないように努めることが出来る。
 ライアンが姿を現したのは、暫く雑談に費やしていた時間を次第に退屈に感じ始めた頃だった。
 地下水路を巡るための通路際にある部屋のことで、窓はない。通気口らしき古びた配管が通っているが、そこからでは外の様子も分からないから、尚更時間も長く感じるのだろう。
 待たせたな、と呟きながら薄い上着を脱ぐライアンの表情には特別な感慨や感情は読みとれない。3年前に知り合ったときから変わらぬ、ライアンの性質の癖という物であった。クインは次第に上がってきた呼吸を落ち着けようと、帰還の理由となったはずの男を見つめた。
 顔立ちはそもそも悪くない。華やかさや明朗さという色相には決定的に見放されてはいるが、端正と言うべき整った顔立ちである。線が細く、どことなく女性にも共通する美形なりのきつさがあるが、彼の身に付いた空気は女性的なものとは隔絶した厳しさだった。
 体躯は3年前とほぼ変わらない。多少肌がくすむように色濃くなった気はするが、向き合っている場が光の少ない地下だということも加味されているだろう。
 じっと見つめていると、ライアンは素っ気なく視線をクインに与えた。
「俺に話があるようだな、だから戻ってきた……違うか」
 上着を適当に椅子に掛け、卓の上の水差しを手繰り寄せながらライアンが言った。クインの様子から、単に懐かしさで戻ってきたわけではないと察しているようだった。
 それはすぐに分かるだろうとクインは納得する。無理を言うけど無茶はしない、とチアロが次分を評するように、自分は自分の限界を超えることには手を出さない。
 出来ることと出来ないことの見極めくらいは出来る。
 そして限界を超えながら戻ってきた事実が、何よりもこの場合は雄弁だった。
 クインは僅かに俯く。
 ライアンしか頼って行ける相手を思いつかなかった、それは確かだ。
 これから自分が切り出す話はライアンの掌握するこの地域には向いた話だし、何かあれば自分を頼って良いのだという言質を与えてくれたのは彼だ―――
 だが、理屈よりも何よりも、怯懦が言葉をせき止めてなかなか唇が動かなかった。
 未知の物に対する怖れ、結論は出したはずなのに抜け道を必死で捜し続けている事実、その事実を自分で認識する度に苦く胸に捲く自嘲と、諦観と、ないまぜになった混乱。そんなものが唇を開こうとする度に、クインの身体を酷く硬直させた。
 自分は怯えているのだ。敢えていうなら、自分自身を排除させようとする全ての世界に。
 クインが言いよどんでいる空気をライアンは何と思ったのか、微かに頷いた。
 チアロ、とライアンが呼ぶと、それまで二人のやり取りと空気を眺めていた少年は心底はっとしたように彼の主君を見た。
「奴らの残党の根城の一つが見つかった。案内の男がもうすぐ煉瓦屋敷の方へ行くから、チェインからも数名出して繋ぎに使え。動向と、出入りしている連中を逐一報せろ」
 仕事を命じた上での退去令だった。
 チアロは素直に頷いた。ライアンの意志に添うことはチアロの中では至上であるらしかった。
 連絡の段取りを簡単に打ち合わせてチアロが消えると、ライアンは慣れた仕種で煙管を取り出した。自分がライアンとの繋がりを証明するために差し出した煙草入れがその腰にぶら下がっているのを見て、クインは不意に安堵のような軽い吐息をついた。
 ライアンはそれに構わず深く一服を入れてから呟いた。
「俺もお前に聞きたいことがあった。お前が俺に頼み事というなら、他人には話せない上に俺にも切り出しにくい話だろう。どちらが先がいい」
「……あんたの質問から先に聞くよ」
 持ち出す一瞬が僅かに先にずれただけで浮かぶ大量の安堵感に辟易しながらクインは言った。幾つかの会話を重ねていれば切り出すきっかけも掴めるかも知れないと、そんな思考に逃げ出しそうになる自分の臆病さが鬱陶しかった。
 そうかとライアンは軽く頷き、おもむろに口を開いた。
「あの皇子はお前の何だ」
 クインはゆっくりと視線をあげた。
 驚愕は緩やかだった。ライアンはいつも俺の足下をいきなりすくう、という囁きが唐突に浮かんできて、クインはつい苦笑になりかけた。思えば髪の色を指摘された時も、相当に突然であったはずだ。
 この国には現在リュース皇子を筆頭に4人の皇子を持っているが、他の皇子達はさほど自分と似ているわけではない。一番下のライン皇子だけが、どちらかというなら女性的という意味に於いて顔立ちの系統が似ている程度だ。
 皇族の写真は公開されているから顔を知ることは難しいことではなかった。
 あの、とライアンが言うのならリュース皇子に間違いないだろう。鏡に映し込んだように、自分と同じ姿形をした皇子。
 皇子のことを思えば、懐かしさがまず先に来た。ライアンがあの皇子と言った相手とほんの2日間机を並べていたことがあった。
 彼の正体を見抜き、その上で手を貸しても良いと言った皇子。恐らくは、推測に過ぎないが自分自身の濃い血縁に連なる相手。
 クインは不意に自分が薄く笑っているのに気付いた。
「……そう……、見たんだ、あの人」
 胸に上がる感慨はそう暖かみのある物ではなかった。あのまま知らぬふりをして皇子の庇護を受け入れ中等学院へ居残っていれば、もう少しはましな親しみを感じることが出来ただろうか。推測は出来なかったし、第一それには意味がなかった。
 いつ、とクインが視線で問うと、ライアンは僅かに眉を寄せて記憶を探すために宙を見上げた。
「お前が帝都から出て行って、すぐの新年の園遊会で。……意外か? タリア王は特殊とはいえ官吏の端だからな。カレルの供でアルードと共に王城へ行った時に、あの皇子を見た――お前かと、最初は思った」
「声をかけた?」
 いや、とライアンは首を振った。
「同じ顔と同じ声をしているが空気が違ったからな、お前ではないと思ったが……あれが他人だという方が今更驚きだな、全く。園遊会が終わって戻ってきたときに、お前ではないのだと確信した。お前であれば俺に分かるように合図を寄越すだろう、そういう奴だ」
 まあね、とクインは苦笑して頷いた。ライアンをからかう絶好の機会を見逃すはずもなかった。
 そうだろうとライアンもまた薄く笑った。3年前の、長くはない期間でも二人はお互いの性質を飲み込むことは終えていた。
「年齢は10才だとカレルに聞いた。お前も確か同じ年だったはずだ、あの年の秋には」
 クインは頷く。ライアンが一呼吸を置いて、最初の質問を重ねた。
「――あの皇子は、お前の、何だ」
 視線をまっすぐにあげてクインはライアンを見た。ライアンの緑色の瞳に僅かにかかった熱の影が、逸るほどに心臓を打った。
 彼が自分に興味を示すことがひどく誇らしかった。3年前にはライアンは崇拝していた少年王の死だけを見つめて生きており、彼に目線を向けることが殆どなかったからだ。
 3年を経てようやく勝ったような、何か取り戻したような気持ちになる。だから自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
「双子の、……多分、兄だ」
 一瞬開けてライアンが頷いた。クインがずっと放浪者であった理由をそれなりに見出したのだろう。
 全く予測していなかったという顔付きではなかったから、ライアンなりに推論は出来上がっていたようであった。
「多分というのは」
「どっちが兄かっていうのはもう母親でないと分からないからさ。ただ、俺の方が後宮を出されていることを思えば俺が弟なんだろうし、何かの具合で正式に皇族の列に加わることになっても俺を『兄』にはしないだろうね」
 皇位継承権が発生するとしても、場を混乱させないために弟とするのが普通であろう。だからどちらに転んでも弟である、としか言いようがないのだった。
 そんなことを説明すると、ライアンは深く頷いた。彼の質問はそれで終わりだった。
「では、お前の話というのを聞こう。俺と昔の話をするために戻ってきたということではないなら用件を言え。……金か?」
 クインはぴくりと頬を引きつらせながら顔を上げた。最初から焦点に分厚い鉈を下ろす辺りは直裁であった。
 金とライアンが総括したことで自分が情けない生き物であると念を押された気になる。
 生きていくために必要だと知っているし、それを無視して世間を渡っていけるとも思っていないが、やはり矮小感はあった。
 返答が鈍いことでライアンは何事かを察したらしく、更に深く頷いた。
「幾ら要る? 3年前よりは多少俺にも余裕がある、額を言え」
「……いいよ。昔のことを種にして強請るにはいい額だから」
 ライアンは苦笑し、吸いかけだった煙草を一口吸った。
「だが、金に困っているのは本当だろう。……俺は3年前にお前に礼を言った。借りは必ず清算するとも。だからその清算をしてやりたいと思っている。額をいえ、クイン。俺は今、幾ら欲しいのかと聞いている」
 クインはぎこちなく笑った。
「―――取りあえず、2万……」
 ライアンが煙管を弄る手を止めた。ゆっくり彼の整った顔が自分の方へ向けられるのを見て、クインは自棄気味に更に笑顔になってみせた。
「2万だけじゃどうにもならないから、あと2千……それと、毎月500……」
 呟く声が次第に小さくなっていくのが自分で分かった。
 声音が低くなるに連れてそれは暗く強張っていく。視線が下がっていってやがて完全に俯くと、黙り込んだライアンの呼吸と合って、部屋は完全に静寂となった。
「……ジルで?」
 問い返すライアンの語尾に、たちまち苦い自嘲が混じった。当然のことだったからだ。
 だが通貨の単位を思わず確認させたくなるほど、それは途方もない額であった。慎ましく生活するならば一人が3年間は働かずに暮らすことが出来る額だ。田舎に行けばその金額で手に入る家と門地くらいはあるだろうか。
 2万か、と呟くライアンの声が耳に入った。煙管から上る薄い煙にも気付かぬように、ライアンは無表情に俯いていた。彼が何かめまぐるしく考えている時の顔だった。
「―――1万ならすぐに……そうだな5、6日で揃えてやれるが、2万となると……」
 その後をライアンは口の中で濁した。
 1万であればすぐに出せるというのも多少豪気といえた。
 ライアンはチェインにたむろする行きはぐれの少年達の王だ。チェインの中に細かい派閥もあるがその全てに共通の自治律を布き、彼らからの上納金を得る代わりに彼らの行動の自由と背反時の懲罰を引き受けている。
 彼が現在タリア王の配下となって大人達の組織の末端に食い込んでいる以上は自治の統制と懲罰の実施は配下に委ねられているのだろうが、彼は金は持っているとクインは知っていた。
 そして、それをライアンは自分の為だけに使うわけにいかないことも。
 金だけでも信義だけでも、他人を動かす事は出来る。だがその二つが上手く噛み合ったときほど強いものもない。時折は彼の下にいる子供達に甘い汁を吸わせてやらなくてはならないのだ。
 そして1万というのは彼がそうした報償に取り分けて置いた分を放出する額であり、2万というならその他の全てまでもなげうたせる額だ。
 ライアンは金の力を知っている。知っていて彼が考え込んでいるのは、その額と自分の地盤を支えている彼らという重みの均衡点を探してくれているからだろう。
 クインはいいよ、と再び言った。ライアンに全てを援助して貰うつもりは最初から無かった。
「強請るには額が大きいって言ったろ? あんたを破産させる気はないよ」
 ライアンはちらりとクインを見た。微かに頬にかかる影の具合が彼の戸惑いを素直に教えてくれた。
「7千までならすぐに出せる。後でチアロに金を届けさせてもいい。1万であるなら1週間待ってもらえればどうにかしよう。……だが、2万は無理だ、済まないが」
「いいって。ライアンから金をむしりとるつもりは、本当にないんだ」
「……何があったか話せと言ったら答えるか? すぐに出せるといっても、何も聞かずに払ってやれる額じゃない」
 うん、とクインは唇端をゆっくりつりあげた――笑おうとした。
 だがそれは上手くいかない。途中で奇妙に凍えたときのようにぎこちなく固まってしまって、それ以上は動かせそうになかった。
 暫くライアンの顔を見つめたまま何かを言おうとしていると、不意にライアンが表情をゆるめてクインの頬に触れた。
「どうした」
 彼の声はいつもの通りの低さであったが、声音に籠もった温もりは確かだった。うん、と意味のない返答を喉で鳴らすと、そこが空気で震えたような気がした。
 ライアンの指が丁寧に、ひどく優しく自分の頬をなぞっている。
 子供を慰めるような仕種だとそう思い、思いながらクインはゆるく首を振った。ぽろぽろ涙が落ちていった。思わず目を閉じると双眸の流滴が転がる。
「どうした、大丈夫か」
 ライアンの声が優しい。宥めるような低い声が、何故だか染みてくる。クインは再び首を振り、自分を落ち着けるために何度か呼吸を整えてライアンに頷いて見せた。
「大丈夫だよ、ごめん、ちょっと……混乱してるのかも知れない……ごめん、大丈夫だから……」
 言い訳に似たような口調でクインは呟き、手で涙をこそぐように拭った。
「か――母さんが……」
 絞り出すように呻いた言葉に、ライアンが小さく頷いた。3年前に彼を一度だけ、自宅であったアパートに泊めた事がある。だから母のことを彼は知っていた。
「かあ、さんが、……倒れて……し、死ぬ、かも……しれな……」
 死を口にするとその言葉が急に現実味を帯びて底光りした気がした。
 クインは身震いした。いつでも自分の手を引いてくれたあの温かな人がいなくなると考えるだけでも恐ろしかった。