第1話 祝祭の日 6

 いつでも自分たちは二人きりだった。父が欲しいと言ってみたこともあるし、そんなことをあれこれ空想していたこともある。
 けれど、最終的に自分の側にいるのは母一人であり、真逆、母の側にいるのは自分一人だった。
 母に再婚の話が全くなかった訳でもないだろう。息子の目から見ても、十分に美しい母であった。流石に年齢だけは下げることが出来ないが、整った目鼻立ちは誰かの気を惹くには不足ないはずだ。
 だが、現実そんなことは起こらなかった。時折親切そうに近付いてくる男もいなくはなかったが、母は彼らをやんわりと押し返した。
 それが自分のためであることを、クインはかなり早い頃から気付いていた。戸籍の擬態や幼い頃の転居の出鱈目な履歴を思えば推測は難しくなかった。正体は分からなかったが、何かがあるという感触ならば容易に得ることが出来る。
 自分と皇子の間に血縁を確信してからは沢山の疑問が一息に溶解していった。
 自分を守るために母は誰も寄せ付けるわけにはいかなかったのだ。何故母が自分を連れているのか、そこまでして自分を養護するのか、不思議に思ったことはあるが聞くだけの勇気はなかった。
 ……不思議というなら、何故自分だけが王宮を出されたのかも分からない。あるいは最も理屈の通らない選定である呪占だろうか。
 血の繋がりのない女に皇子を預けたというのも不可解だ――将来に渡って不都合があるなら殺してしまうか、魔導の塔にでも送ってしまうのが普通だろうから。
 自分が市井で生きていることは事実だから過去を今更まさぐっても仕方がないと理解しつつ、クインはそれらを思う度に母へ降り積む感謝が増えていくのを感じていた。
 長い月日の内に情が移ったということならあるだろう。あるいは、何かの事情でいなくなってしまった母自身の子の代理なのかも知れぬ。
 それが始まった理由はともかく、マリア・エディアルといった彼女が自分を半ば身をすり減らすように庇護しようと努めたことは確かだ。そのありがたみが胸に詰まる。
 だから自分の母はあの人一人だ。他の誰でもない。
 今更、どんな保護も父親からなど欲しくない。母が必死で逃亡を続けていたことを考えると、追っ手であった連中は父のあずかり知らぬ場所からの使者なのだろう。
 相手が父であるならそれほど怯えなくてもよいはずなのだ。父――今上帝、リシャーク3世なら。
 クインは母との行程をぐるりと思いめぐらす。
 早く大人になりたかった。一瞬でも早く成長して、自分の手で自分と、母を守りたかった。優しく大丈夫よと微笑む優しい空気の裏で、決して自分に悟らせないように気を向けながらも母が怯えているのは分かっていた。
 自分の手をひいて母が沢山の物を繋ぎ与えてくれたように、同じ事を返してやりたかった。怖がらなくても良いのだと、母がそうしてくれたように相手を安心させるためだけに微笑みたかった。
 ……それら全て不確かで楽観的な未来予測の上に成り立っていることなど、現実になるまで理解できなかったのだ。
 そして母の病によって初めて守護者となったとき、クインは自分たちの孤独についてやっと思い知った。
 母は自分の実家さえ口にしなかった。そこへクインが顔を出すことが連鎖的に自分達を追いつめるだろうという恐怖が母の口を異様に重くしていると察することは出来た。
 帰る場所も、頼る他人も血縁さえも、何もない。
 無いのだ、ということを理解するしかなく、クインが出来たのは母をどうにか説得してシタルキアへ連れ戻すことだけであった。
 それさえも母は渋ったが、医療技術に限らず学術研究に於いてはシタルキアが突出して高水準を誇っている。全ては長い歴史と安定した政権による安定した環境の提供がもたらしたものだが、施設も薬剤も、シタルキアに戻らなくては手に入らない物の方が多かった。
 頼っても良い相手をライアンしか思いつかなかったせいもあるだろう。いつでも自分たちは二人きりだった。二人きりであることが当然だった。母には自分だけしかないのだとクインは認識していたが、自分にもまた母一人だった。本当に、それしかなかったのだ……
 しばらく止まらない涙は何のせいだろうとクインは指先で拭いながら思う。母への思いだろうか。ようやく事情を話すことの出来る他人に出会えた事への安堵だろうか。
 涙と共に胸に支えていた物が剥落していくのが分かった。
 クイン、というライアンの声は自分が落ち着く頃だった。彼はクインの様子を見て話を繋ぐ瞬間を計らってくれたのだろう。
「……俺には医術のことは何も分からん。分からんが、馬鹿ほど金を食う病は一つしか知らない――黒死だな?」
 具体的な病名が出てきてクインは微かに身を震わせ、頷いた。そうか、と呟くライアンの声も重い。死病だな、と更に続けたライアンの言葉が胸を射抜いて、クインは堅く目を閉じた。
 黒死病と呼ばれているそれは奇病であった。手足の末端から次第に肌が黒ずみ、やがて麻痺して動かなくなり、やがて肌から黒く濁った血胞が沸いては潰れていくのを繰り返しながら身体ごとが生きたまま腐敗していく。
 伝播力は弱いものの空気感染するため、医療施設に入れるとなると必ず個室を使うし、専属の看護人を数人つけなくてはならない上に薬が非常に高額であった。
 高額なのは魔導の力が施されているためであるが、薬を定期的に打てば進行を抑えることは可能である。治癒するわけではないのだが、進行をほぼ完全に止めることが出来るのだ。
 そしてそれは中流階級以下の人々にとっては不治の病であることと同じ意味であった。寒村などでは隔離して見殺しにすることも珍しくはない。それは大勢の住人を救済するための措置ではあったがまっとうに承認される質のものでもなかった。
 故に、黒死の病とされる患者は殆どが帝都に在住している。
 クインは帝都にまで母親を連れ戻すことは考えなかった。シタルキア第2の都市であり南部海域との接点でもあるミシュアの街近くにも療養所がある。殆どの有り金をはたいて2ヶ月の約束でそこへ預けてきたが、もし期日までに金を用意できないとなれば容赦なく放り出されるだろう。
 ……それは母の死の決定を意味する。
「……2ヶ月で2万か……べらぼうだな」
 ライアンの声はどこまでも沈鬱だった。診療所は基本的に年単位で患者を預かる。
 それに加えて年間の保証費や看護人の選定もあるから初期費用は更に跳ね上がるのだった。
 そうだね、と軽く同意したのはクイン自身そう思っているからであった。とても通常の手段では捻り出すことは出来ない額だ。――だから戻ってきたのだとクインは深く呼吸をした。
「ねえ、ライアン――昔、あんたが俺を捕まえたとき……あんた、俺をタリア王の稚児にたたき売るつもりだったはずだね……俺に、その価値は、まだあるかな?」
 ライアンは怪訝な顔で眉を寄せた。クインの言おうとすることが掴めないといった顔付きであった。
 クインは泣いたせいで火照っている頬を無理に動かして笑った。
「客を取りたいんだ。俺のこの顔に、馬鹿ほど法外な金を払う連中を知らないか?」
 ライアンが、不意をつかれたように瞬きをした。