第1話 祝祭の日 9

 試着室の野暮く分厚い布がさっとひかれ中から颯爽という空気と共に少女が出現すると、狭くはない店内に溜息が漏れた。
 待合いの椅子で暇を噛み潰しながら自分の爪に溜まった埃を取ることに熱中していたチアロは若干首をもたげ、その姿に周囲とは少し毛色の変わった吐息になった。
 少女はまっすぐに彼の元に歩いてくる。人の視線がそれに伴って自分に動いてくるのを知覚することが出来た。尋常でないものに対する好奇の目は、だがそれだけでもない。
 誰もが目を疑い、奪われるほどの美貌というものがそこに現実存在する、その驚愕。少女が自分の前で立ち止まるときに一斉に集中する意識の、突き刺さるような感覚が肌に痛い。
「どう? さっきのとどっちが似合う?」
 ご丁寧にスカートをつまみ片足をちょんとたててみせる仕種が華奢な体格とよく似合っている。どっちでも、とぶっきらぼうに答えたのは女の服の善し悪しなど全く分からないからだ。
 似合うか否かという問題に関しては、チアロは考えることを放棄している。似合わない服というものが存在するならば、それはこうした小綺麗な店では売られていないものに違いないから。
「無愛想なんだから。ねえ、さっきの服とこれと、ブラウスと靴と帽子と手袋、いい?」
「あーあー、もう欲しいもの何でも買えったら」
 少女はくすくすと声を立てて笑う。明るく華やかな笑顔にチアロは薄い苦笑になって椅子に座り直した。
 店主だろうか小柄な中年男が少女に飛んできて、新しい服を勧めている。服に合わせた帽子に髪飾り、レースの手袋、刺繍の入った靴、夏用の薄いカーディガン、ワンピースと共布で作られた鞄、そんなものを携えては鏡の前であて、外し、組み合わせを変えるという作業に熱心だ。
 上機嫌に笑う少女の視線がちらと自分に向いてきてチアロはむくれてそっぽを向く。中流といわれるよりは上の生活階級者のための服飾店は彼には上品すぎて居心地が悪い。
 もういい加減にしろと言ってやるつもりでチアロは鏡の前でくるりと回ってみせる少女に近付いていくと、店主の声が聞こえた。
「……鞄まで全部差し上げますから、うちの服を幾つか着ていただいて、写真を撮らせて貰えないでしょうか、お嬢様」
 あら、と笑う声はひどく機嫌がいい。
 再会した瞬間の疲れ果てたような土気色の顔を見ている身としては、それは喜ぶべき事であるはずだった。白い肌に血の気が戻り、初夏の薔薇の色が頬に彩りを添えている。
 店主の申し出はあるいは当然かも知れなかった。この少女の美貌というものだけで十分に人目を引く写真になるはずで、宣伝としては申し分ないだろう。おい、と言いかけたとき、少女は微笑んで手にした帽子を店主に柔らかく押し返した。
「申し訳ないのですけど、父から禁じられておりますの。私もあまり人前に出るのが好きではありませんし」
 さらりとあしらい、後を言わせないのはさすがであるかも知れなかった。あるいは慣れているのだろう。店主は残念そうだったが、チアロの清算をせかす声に頭を下げて金額の計算のために場を離れた。
「お前も大概化けるなぁ」
 誰にも聞こえないようにこっそり耳元に呟くと、少女の方は小さく笑って同じように耳元へ返してきた。
「俺くらい完璧な美人だと男とか女とか、関係ねぇんだよ」
 声は少年のものへ戻っている。声色の方は気味が悪くなるほど少女少女していたから、この落差もまた激しかった。
 金のやり取りをしながらチアロは棚の帽子をいじっているクインに目をやる。完璧と言うしかない擬態であった。
 元々の美貌もさることながら、ほんのわずかに眉を整えて薄い口紅を差しただけで完全に女として通用する繊細な空気は特筆かも知れなかった。華奢な体格もいい。細い体躯が幸いして腰の部分をきゅっと締めた服を着て下半身を膨らむスカートに隠してしまえば、同じくらいの身長と体重の女性に比して直線的な体の線が目立たない。咽喉部はさほど目立たないから襟元の詰まった服かスカーフで対応できる。
 こうして化けた挙げ句に更に完璧を期すために洋服や靴などを買い出しに来ているが、やはりというべきかひどく目立つ上に、本人がその擬態を面白がって楽しんでいるのがよくわかる。
 再会してすぐやその翌朝などは余裕のなさがそのまま表情に出ていたほどに目つきが暗く、凄まじく重かったが、ライアンと話をして何かから解放されたのかここ暫くは3年前と同じような明るさを取り戻していた。
 それをクインのために良かったとチアロは安堵で眺めていた。
 チアロは閉塞した空気がひどく苦手だ。彼の死んだ父親は良く喋る明るいたちで、悪い人間では決してなかった。ただ、子供一人を連れて法螺なのか詐欺なのか良く分からないことを繰り返した挙げ句に流れていく生活しかできなかったのは、地道な生活を営む能力が欠けていたとしか言いようがない。けれど何もなくても父と2人、そうやって生きていくことが苦痛だと思ったこともなかったのは確かだ。
 父の姿を思い出すときは、大抵のんびりした声音で危機感なく笑っている。たとえそれが土地のならず者たちに手荒く暴行された後でも、死ななくて良かったな生きてるか、と笑う父の声が耳に遠くまだ残っている気がした。
 そんな風に2人明るく楽しく世の中をやっていた時代の名残なのか、チアロはタリアの中に住みつき悪童たちの仲間に入り、やがて小さな派閥の頭になっていても、のびやかで明るい空気が好きだ。自分も軽やかでありたいし、自分についてくる少年たちにもそうであって欲しいと思っている。
 逆から言えば、そうでないときの空気というのはチアロはどんなに他人が表面を繕っても本能に近い部分で嗅ぎ取ることが出来た。
 どんなに激しい状況であっても、他人の余裕の幅を感じ、それによって自身の余裕を作り出す部分がチアロにはある。長く、そして深く馴染んでいるという慣れにおいてその同調が一番高いのはライアンであるが、クインについても同じ事が言えた。
 ……再会したときの、切羽詰まった空気。良くないことがあるのだと、その空気に触れた瞬間に分かった。
 目を見たときにそれは確信になった。傲慢と呼んで良かった3年前の姿を眩しく思い返すなら、それは一瞬胸を衝かれるほど必死で縋り付くものを探している目だったからだ。
 咄嗟にライアンに会うだろうと言ったのも、それを自分が救うことが出来ないと直感したせいでもあった。
 適当に移動する間も食事をする間も、チアロは殆ど一人で喋った。クインの目つきはやや怪しげで、暫くまともなものを口に入れていないことが推測できた。目の焦点がどこかぼんやりしているからだ。
 そう時間も経たない内にクインが昏倒してしまうと、明らかにチアロは安堵した。何か言いたいことも訴えたいこともあるだろうに、それを喉の奥に押し込んで表面を賑やかな自分に合わせようとするクインを直視するのはひどく辛いことであった。
 同情だとか憐憫だとか、そんな名を付ける気はない。クインは何の打算も駆け引きもなくチアロの前に現れた、大切な友人であるということだけだ。
 だから今クインが本来の享楽的な部分を取り戻していることが嬉しい。気楽な笑みを悪戯気味の仕種を見るにつけ、クインの負荷を恐らくライアンが取り除いてやったことが自分の仕業ほどに誇らしかった。
 靴や鞄や小物を大量に買い込み、更にクインは彼の先に立って歩いていく。以前帝都にいたときに黒髪であったことを受けて今日は彼は金髪のかつらを被っているが、女装は久しぶりだと笑う割には堂に入ったものだった。
「お前、歩き方まで女になるんだな」
 一つ一つの仕種まで、完全に切り替わる。これに神経を使いすぎて気が尖っていることはなかったから、擬態になれているのだと察しはついた。
「つまらないことでばれちゃうより全然ましでしょ?」
 声も、上目に軽く睨む目つきさえ、少女のものだ。頭おかしくなりそう、とチアロが呟くとクインは朗らかに笑い、化粧品の店の扉に手をかけた。
 今度はこれであるらしかった。必要性は理解できるが、正直なところチアロは服と小物だけで既に食傷気味だ。うんざりという心象がそのまま表情に出たのだろう、クインは小さく笑った。
「……ここが終わったら、本屋へ寄ってそれで終わりにするから」
「まだあるのかよ」
「ちょっとね。お小遣いのある内に欲しいものがあるの」
 小遣いね、とチアロはゆるい溜息をつく。実際ライアンから渡されているクインの生活費とやらは、真絹に包んで大切にするつもりかと聞きたくなるほどだ。ただ、ライアンがそこまでするからには好意だけではない理由も在ろう。
 3年前、チェインの少年たちの王であった男が死んでからの激烈な派閥抗争は今思い返しても震えが来るが、それを優位に勝ち抜いていった背景にクインの的確な助言があったことは後にライアンに聞いて知った。
 当時のチアロはまだライアンの周囲を回遊する被保護者程度のものであって、抗争にもその結果である殺戮にも殆ど関わらなかった。クインが何故口を出しライアンがそれを受け入れたのかは分からないが、最終的に少年たちの派閥の熾烈な競争をライアンが収束したのは事実だ。
 その恩義もライアンは感じているだろう。他にも何かあるかもしれないが、それはいずれ必要となればライアンから話があるに違いなかった。
 今の自分はライアンの役に立つ存在であり、自惚れることが許されるなら殆ど唯一ライアンが心から信頼している相手であるのだから――それが何に起因するのかも、知っているけれど。
「金だけ食う女囲ってるみたいだ……」
 クインは店の扉から手を離してチアロを振り返り、彼の手を軽く叩いた。
「私、ちゃんと彼に助力したもの。3年前の、これはお給料」
「いつまで給料もらうつもりだよ」
「例の書類が見つかるまでよ。だ、か、ら、頑張って、ねー」
 チアロはふんと鼻を鳴らす。
 戸籍の捜索はライアンから彼に伝わり、彼から更に下の子供たちに委譲されている。ライアンがタリア全般に関わる自警で引き回されているのと同じように、チアロは自らの派閥の保持で忙しい。
 チアロの背後にライアンがいるのは皆知っているから立場は強いが、チアロが少年たちの王として君臨するライアンの後継者となってチェイン地区の王となるには何かが足りないと思っている連中も多く、チアロも気を抜くわけには行かないのだ。
 自由に使える配下たちに仕事を回すのには他にも沢山の理由があるが、その辺りをチアロは抜け目なく立ち回っていた。
「お前の条件が結構狭いから苦労してんだよ」
 チアロは不機嫌に唇を尖らせる。クインが出した戸籍の条件は確かに厳しい。母と娘一人で父親は不明もしくは10年以上前に他界しており現実その母娘の周辺に父の影がないこと――つまり母と娘以外には全くの天涯孤独であること――に加えて母の年齢と娘の年齢の両方に制限がある。
 条件が狭い、という言葉にクインの秀麗な顔がやや曇った。クインとて、それは承知しているようだった。
「……仕方ないじゃない、あんまり書類と実物が違うのもまずいんだから」
 戸籍の取引は非合法だから、自然町中では声が小さくなる。戸籍ではなく書類と呼ぶのもその係累だ。無論タリアの内側ではそれは罪ではない。だからこうした非合法の取引は大概タリアへ流れてくる。
「ま、その内に条件にあった親子が見つかるとは思うよ。帝都も広いしね」
 クインの僅かに重い顔を払拭したくて口にした言葉に、ふとクインが首をかしげた。
 ちょっと、と袖を掴まれて路地の端へ寄っていく。人の気配のない場所まで来て、クインは彼に顔を寄せるようにして低く聞いた。
「――親子が見つかるってどういう意味だ」
 どんな意図の質問か分からなくてチアロはぽかんとする。クインは確かに複雑な思考を巡らすのに向くが、その過程を説明されないと分からないことも多い。
「いや、別に、その言葉の通りだけど?」
 分からないまま返答すると、クインは軽くチアロを睨んだ。表情から先程までの甘さがすっかり抜けて、素の少年の顔が覗いている。
「……チアロ、戸籍って……どうやって探してる?」
 先程よりは分かりやすい質問にチアロはだから、と言いかけて口をつぐんだ。反射的にしまった、と思った。結局この子共は自分たちの仲間ではないという基本を忘れていたのだ。
 戸籍記載者がいなくなって抹消される前の戸籍を買うこともあるが、それは役府の戸籍係を買収して行うものであり、自分たち子供の手には余る。それは大人たちが取り引きすることだし、そうして取引に出てくる戸籍は条件を選べない。
 条件を付ける戸籍は、それを求める者たちのために特別に探すものだ。この場合、探すのは戸籍ではない。条件にぴたりと添う上で、突然消えても周囲がわざわざ探さない戸籍保持者を探すのだ。
 ――記載者を全て葬り去り、戸籍を完全に乗っ取るために。
 クインの場合は母娘の組み合わせと年齢のくくりがあるから多少難しい。女だけの家庭だと往々にして男が入り込んでいたり親や兄弟と密な連絡があることも珍しくはない。戸籍のない女であれば探すのは難しくないが、なまじ戸籍保持者であればこの条件はひどく狭い部類に入る。
 ……そしてそれは結局クインの求める戸籍のために、運の悪い母娘がいなくなるということでもあった。
 ライアンはその辺りの情状に全く関心がない。チアロとて、不幸だとも哀れだともさほどは思わない。ライアンはクインの要望を優先するのに他のことは関係ないと言うだろうし、チアロもそれは同じだ。世の中には運の悪い家族もいる、その程度だ。
 だがクインは違う。これはどんなに斜な口をきいていてもチェインの子供ではない。
 自分のために見知らぬ他人が消えるという現実に激しい拒否反応を起こすだろうと危惧したのだろう、ライアンは彼に何も教えていないのだ。
 何でそれを俺にも言ってくれないんだよ! 心中で八つ当たりしてチアロは黙り込んでしまったクインを見る。先程まで上機嫌に楽しげだった顔から既に血の気が引いているのが見えた。
「――帰ろう、チアロ」
 くるりと背を返しかけた華奢な手首を、チアロは反射的に掴んだ。
「化粧道具と本を買うんだろ? ……戸籍のことはあんまり深く考えるなって。必要だから頼んだんじゃないか。だったらよけいなことに気を回すなよ」
「……余計なこと、か」
 苦く低くクインが呟いた。彼は今何を思っているのだろうとチアロは俯く細い首を眺める。覚悟が足らないと怒鳴ってもいいが、自分たちの価値観を押し付けるには酷な相手だとチアロはそれを飲み込んだ。
 育った環境は、金が無いという点に関しては自分たちはあまり変わらない。違うのは境遇だ。クインには正しくまっとうとされる道へ導く母親がいた。
 タリアの中で成長したチアロには、善悪という基準がない。あるとするなら自分やライアンの派閥に対する義理という物差しだけだ。

 クインが何を考えているのかは分かる。戸籍を探すのを中止しても更に切り抜けていく道があるかどうかを思考しているのに違いない。戻ってきたときからクインは追い立てられて必死だった。知り合ったときから自負の塊のような子供だった。それがただ縋り付くために戻ってきたらしいことで、それがクインにとって酷く重く切実な事情であることも肌に感じた。
 だからライアンに言われたままに戸籍を探している。クインのために割けるだけの人数を回しているというのに、本人が要らないと言い出すならこちらの気分を傷つけた。
「お前が欲しいっていうから探してるんだろ? 気分でいい加減なこと言うなよ」
 苛立つ気持ちのまま吐き捨てると、クインが凄まじい勢いで顔を上げた。
「何にも教えないのは公平じゃない!」
 思わず声を荒げてからクインははっとしたように唇を押さえ、囁き声で続けた。
「お前もライアンも、肝心なことは何一つ俺に教えないんだな。どうせ俺は余所者だよ、理解なんかできっこないって思ってるんだろ」
「思ってるさ」
 チアロは軽く返答し、下に置いたままだった服や靴の袋を取った。
「化粧道具、買えよ。本屋にも付き合ってやる。それ以上の話はライアンにしろ、俺は知らない……2、3日中にライアンと会えるように伝えておいてやるから」
 クインはもの言いたげに唇を結んでいたが、やがてチアロの言葉に頷いた。戸籍のことに関してはチアロに言うよりもライアンと直接話さなくてはいけないことを納得したらしい。
 クインは振り切るように一つ首を振ると路地を出て、化粧道具を揃えるために店の扉に手をかけた。白粉と香水の匂いは苦手だとチアロは外に残り、クインがまたしても人目を華やかに惹きつけているのを硝子越しに見つめる。
 明るい笑顔。新しい口紅を試すのか、差し出した小指の切なくなるほどの細さ。
 あれは確かに愛でられるべきものだ。愛される対象としては申し分のない麗しさだ。
 その為にだけ生まれてきたかのように、利口ぶる口調も押さえればたわむ気の強さも、全てが彼を生きたまま宝石にしている。
 けれど、それは自分たちの仲間には決してなれないと言うことだ。彼にはその覚悟もない。ない、というよりはタリアの外の世界の規範に既に染まっている。
 ライアンが言っていたことが今更身に染みた。
(クインは俺たちに染まるには完成している。あれは俺たちとは全く違う生き物だ。友人として仲良くしていても、理解しあえるわけではないことは知っておけ)
 その通りだとチアロは目を伏せた。自分たちは何かを見るときも考えるときも、立つ地平が違う。戸籍の件にしても、自分なら躊躇わない。どうしても欲しいものがある時に、何故、立ち止まる必要があるのだ。
 理解できない――ライアンの言ったとおりだ。
 チアロは軽い溜息になる。戸籍の調査は順調で、既に幾つかの候補はあがっている。これを今更中止するとなると、不満だけが残った。