第6章 闇 1

 タリアの夜空は赤い。ここが赤い町と言われる由縁は妓楼の塗り格子の朱と、そこに篝火が照り返す余韻が空気までを赤く染めるところから来ている。
 組合妓楼が一斉に店棚を閉める時刻を過ぎて火が落ちれば月の光と群青の闇があるが、晩秋のまだ夜浅い時刻には、朱泥の中に町全体が浸っているようにさえ見えた。
 男はそのタリアの迷路のような赤い路地を黙々と歩き、やがてふっと暗がりに紛れた。彼の黒い外套の裾がはたりと角を叩き、すぐに闇へ引き込まれる。
 路地の奥の指定場所に、まだ相手は来ていないようだった。男は外套の下で腰回りに手をやり、煙管を抜き出す。彼が火種を入れると僅かに甘い匂いが立ち上った。
 男が数回の煙を楽しんだ頃、路地の彼方に人の気配がした。
 距離をお互いに掴みやすいように男はわざと火種を土に落とし、音を立てて踏みにじる。意図を悟ったのだろう、相手の方も同じように足を多少引きずるような歩き方に変え、声の通じる境界あたりで立ち止まった。
「──俺を呼んだのはあんただね」
 尋ねるというよりは確認するという口調であった。
 男は喉で軽い返答をならし、じっと目を凝らして闇の彼方を見つめる。指定された場所はタリアの奥で、おそらくはその意図なのだろう妓楼の放つ華やかな赤光は完全に遮断されて、黒々した影ばかりだ。
 こちらからも相手からもお互いの顔は見えないが、ぼんやりした身体の輪郭線と声の調子から来る年齢の感触はあった。
 やはり、若い。恐らくそうだろうと男は思っていたからこれは意外ではない。体格はすらりと高く、細身の印象が強かった。それに該当する人物を脳裏に探して男は唇の端だけでそっと笑う。
 今、何かの一端に触れようとしている。示唆されたとはいえ、男にとっては彼の残酷な性分と衝動を十分に満たしてくれる仕事の、その最初の何かだ。
 僅かに背中がぞくりと粟立つ。
 血の臭いと自分のたがの外れた笑い声が耳奥のどこかでこだまして、酩酊のようにふわりと心地良くなるようだ。
 男は懐から金の入った小袋を取り出して相手の足下に放った。
 ── 一晩で1200ジルだって? 一体どこの馬鹿がそんなのを買う?
 当初その金額を聞いた時には冗談なのだろうと思っていたが、あの袋の重量感などからして1200というのは本当らしい。
 自分の懐からは絶対に出さない額だなと男は思う。どんなに美しくとも、男娼は男娼だ。たった一晩の散財にするくらいなら同じ額で女を一人、生皮をはぎながら嬲り殺した方がどれだけの陶酔と甘美を連れてくるだろうか。
 そんなことを考えていると、自分が放った金の袋が足下に重い音を立てて放り返された。
「この話はこれ以上を進めない。ここで終わりだ、金は返す」
 それだけを告げて背を返そうとする相手を、待てと男は呼び止めた。
 その声が存外鋭かったせいなのか、相手が身体を僅かにずらす。警戒という仕草だ。
 それを解かなくてはと男はすぐに自分をおとしめるための、卑屈な声を出した。
「なあ、何がいけないんだよ。金は払う、身元だって証明した。もっとか? 幾ら欲しいんだ、一体」
 相手は困惑したように吐息で笑った。もう少し、と男が彼に近寄っていこうとすると、その分を相手が下がる。
 数歩の距離を保ったままでお互いの顔の辺りを見つめていると、相手が笑いを微かに滲ませたような声で、駄目なんだよと繰り返した。
「駄目と一度言ったら駄目なんだよ。例外は無い」
「だから、何故」
「こっちの都合だよ、悪いね」
 素っ気ない返答に男は頼む、と呟いた。だが暗闇の向こうの相手は首を振ったようだ。そんな気配がする。
 これ以上は何を言っても無駄のようだった。男は溜息をついて金を拾った。顔を上げると既に相手はおらず、タリアの深く濃い闇の中に男は一人だった。
 金を懐に押し込んで元来た道を辿り始める。適合に何故適わなかったのかについてはまだ判断できる材料がない。これと思いつくような特別なことはなかったし、身元証明のための戸籍まで作ったのに一言で投げられては徒労ばかりが先になった。
 男は長い溜息をついて闇の中を巡る路地からするりと抜けた。
 その先は赤く甘い色をした光の道だった。ふわんと香ってくるのは化粧と女の汗の入り混じる、浮ついた匂いだ。色町特有の気怠さの中を男は唇を微かに歪めながら歩いていく。
 ──まったく、こちらを馬鹿にしていやがる。
 ひどく手間を食わされ散々待たされ手続きだの手付け金だのと振り回された挙げ句の仕打ちに、暗く深い怒りが胸に滲んでくる。男色になど全く興味がないのだが、それとこれとは別の話だ。
 苛々と男は口元を歪め、足早に路地をすり抜けていく。雑踏は格子の向こうから誘いかける女たちの華やいだ嬌声と、それを見定めからかう男たちの上擦った喚声の河の中にあるようで、それが一層気を逆撫でするようだ。
 今夜はどこかで女でも買おうかと男は足早に歩きながら、路地を殆ど睨み据える。彼の性状を充ち満ちさせてくれる女はこの近辺の妓楼になどいない。もっと下層の、金のためなら何でも無理が通るような非組合の娼窟はタリアの路地の更に奥にある。
 女たちのあげる、細く掠れた悲鳴。絶え絶えの息の下からこぼれてくる涙。被虐性の強い相手よりも、恐怖と苦痛に歪んだ声の方が男を喜ばせる。それが若い女なら尚更だ。
 一晩中鞭打ち続けた挙げ句に女が死んでしまっても金で片が付く、タリアは本当に良い町だ──俺にとっては。
 男が今夜の快楽の予定にふっと目を細めた時、若い女の声の悲鳴が耳に入った。
 視線を上げるとまず赤い格子が目に入った。格子の赤と金泥の模様で、これが組合妓楼であることはすぐにわかる。その奥で客に向かって帰れと啖呵を切る遊女と、彼女に姐さんと取り縋る、こちらも遊女がいた。
 二人ともまだ少女と呼べる年齢であった。肌も若いし、年齢からしてもまだ真実には地獄を見ていないであろう、ふっくらした血色の甘さがある。
 男は微かに鼻を鳴らした。あんな少女たちを一人買い取って、肌の白さやなめらかさを堪能しながらゆっくり時間をかけて殺していけたら、どれだけの快楽だろうか。彼は若い女の苦痛が好きだったし、それ以上に命を啜りつくす実感に酔う男であった。
 だがこんな表妓楼の遊女たちは買い受けるのに相応の金が要る。一晩の楽しみにするのであれば、もっと安く買うことの出来る奴隷がいくらでもいるのだ。
 男は自分の性癖を自嘲するように吐息で笑い、一瞬立ち止まった足を再びタリアの奥へ向けようとした。
 不意に少女たちがこちらを振り返った。絡んでいた男客が衛士によって連れ出されていくのを見送っているのだ。
 けれど、その瞬間に男は目を僅かに見開いた。自分の視線が僅かに少女の面影を彷徨い、そして殆ど無意識に自分の胸元を掴む。
 ──見つけた。
 ごくりと飲んだ生唾が、喉を落ちていくのがもどかしい。見つけた。もう一度呟くと、それが現実であるという実感がやっと湧いてきて、男はぬるい笑みになる。
 遙か遠い時間に、見失った宝石。いつか自分の手の内をすり抜けていった、あの少女。こんな所にいたのか。
 男は口の中で彼女の本名を呟き、表情と態度から血生臭い夢の痕跡を丁寧に消しながら、赤い格子の方へゆっくりと近付いていった。