第6章 闇 2

 午後の優しいまどろみから目覚めると、既に日は落ちていた。長椅子の上で楽な姿勢に手足を投げ出して眠っていたことに、体を起こしながらやっと気付く。
 リュースは瞼をゆるゆると手で押さえ、溜息をついて小間使いが脇の茶卓に上げていったらしい本を取った。一体どこまで読んだだろうかと思案しながら、残照を頼りにぱらぱらとめくる。
 彼の暗殺未遂からこちら、学問所は閉まったきりだ。先週ようやく魔導の塔から毒性の判定票が届き、それに従って完全解毒の治癒魔導による医療を受けたことで身体はほぼ回復している。
 二日ほど反動の発熱で寝ていたものの、身体の不調よりも、母妃が神経質に寝ていなくては駄目だと主張したことの方が大きい。元々頑丈でない体質のせいでリュースは微熱の気怠さには慣れているのだが、母の心安い方を優先したのだ。
 まだ体調は完全に復調したわけではなく、当面の解毒は済んだものの調子の波は一度荒ら立てられたせいなのか、完全な凪にはまだいたらない。体の中にまだ残っているらしい毒素を緩やかに中和するための経口薬と点滴薬を取り混ぜて受け入れていて、そのせいなのか怠く眠いことが多かった。
 けれどあの事件以前までにしたことをさらえておくのは生真面目なリュースの、殆ど性質のようなものであった。……それにカルアのほうはこの不意打ちの休暇の間、きっと自習などしていないだろうから。
 既読箇所までをどうにか判別し、リュースはそこにしおりする。秋の夜闇は冬よりも重たげで、見つめているだけでも気が沈んでいくようだ。
 自分が落とした溜息で一層気鬱になりながら、リュースは長椅子から降りて明かりをつけた。
 薬のせいなのか起き抜けたばかりだからなのか、身体が重く、僅かに熱の気配がする。胸のあたりがもやかかったように濁っていて、食欲は全くなかった。
 早めに母妃に連絡を入れなくてはいけないとリュースは呼び鈴を取ろうとした。夕食は母の元で取るようにと言われている。以前大人たちの前で吐いたことも盛毒のためだと母は知っていて、暗殺未遂事件で一層怯えているのだ。
 連絡をしない限り母は夕食を用意しているはずで、断るのなら早くしなくてはいけない。小さな打鈴を鳴らそうとした時、見計らっていたように扉が叩かれた。せわしない叩き方は小間使いたちの特徴だ。
「イリーナ陛下より、夕餐の支度が整いました旨のお知らせが」
 リュースは一瞬置いて頷いた。どうやら自分は少し出遅れてしまったらしい。下の者たちの手間や母の期待を素っ気なく撥ねるには度胸が足りないゆえに、リュースはすぐに行くよと簡単な返答をした。
 小間使いが一礼してでは近衛を差し向けますので、と言うのにリュースは首を振った。後宮内はあれから切れそうな肌痛い空気が漂っている。皇族が刃物を向けられたという事実だけでも相当な出来事ではあるのだ。
 だが、これが慣習として根付いてしまうことをリュースは歓迎していない。それまで気楽に一人でも行き来していた後宮内を歩くのにいちいち護衛が必要だなどと、下らない限りだ。
 そして何より意地のためでもある。自分は全く傷を受けていない、妨害など怖れていないのだということを、誰よりも刺客の主に高らかに喧伝してやりたいのだ。
 刃に塗られていた毒は体質によって大きく効果に差が出るものだった。リュースが死んでも良かったし、死ななくても良かったのだろう。
 殺傷能力という意味において中途半端な歯切れの悪さは、一つのことを教えてくれる。リュースとその母が怖れのあまりにこの戦いから降りることを望んでいる者がいるのだ。
 ──そんなことはさせない。
 両親の意志がリュースの上にないことを悟られてはいけないし、無論リュースはこの不確定な未来を決める、薄暮色の遊戯から降りる気はなかった。
 ……それに。
 リュースはふと背がつうっと冷えるような感覚で姿勢を正した。一度護衛をつけてしまうとそれが日常になってしまう気がする。覚えた安堵の味を手放せなくなってしまう。それはつまり、後宮内という自分の領域内を一人で歩くことさえ出来ない怯懦なのではなかろうか。
 何重の意味においても護衛は必要ではなかった。
「護衛はいいよ、要らない──大丈夫、あれ以来父上もかなり厳しく武器のことは管理なさっているようだしね」
 強く言うと、小間使いのほうはやや不安そうな面もちながら頷いた。本当によろしいのですかと聞かれてリュースは深く頷く。
 彼からの譲歩を引き出せないと理解した小間使い画ではと下がっていくのを見送ってリュースは外套を羽織り、ランプを持って部屋を出た。
 外は既に秋の深いところへ落ちていく季節で、日が落ちた後の風は厳しい。シタルキアの帝都ザクリアは北部大陸の中でもやや北よりに位置していて、夏よりは明らかに冬が長い気候だ。
 既に回帰線の周辺に仄かな気配だけを残している光が、燃えるように赤い。地平が燃えているようだと思いながら、リュースは足早に母の暮らす離宮へと向かう。
 少し奥まった場所にある離宮に母は住み、もう一人の皇妃ユーデリカは帝都から南下した近隣の景勝地ロリス湖畔の離宮に暮らしている。父の後宮は人の少なくなる夕刻から先は淋しげで、大人びた孤独の中にあった。
 父上は一体家庭というものがお嫌いなのだろうかとふと思うこともあるが、それにはいつもリュースは一人で首を振る。自分に向けられている父の温かい眼差しも声音も本物で、そしてそれは他の兄弟たちにも注がれているのだ。母妃とは友情とよく似た信頼がしっかりとあり、ユーデリカ妃とは柔らかい情の気配がする。
 それは理屈で納得することではなかったし、その母親たちと良好な関係を築いているのだから父がこの後宮に家庭を築いていないと思うのは間違っている……はずなのに。
 けれど母の離宮にもユーデリカ妃の離宮にも、父は生活の拠点を置いていない。ロリス湖は帝都の南へ僅かに行ったあたりだから、そこからザクリアへ毎日通うことも不可能ではない。
 何より父にも護衛や私事のための魔導士が複数ついているはずだ。移転魔導の複数同時執行は魔導士たちの得意である。
 魔導のことはともかく、人安い傾向の強い父が妃たちと殆ど生活を共にしない意味を、リュースは量り知ることは出来なかった。父に関する不思議はこれだけではなく、例えばあの夜に叫んだ一言の真意もいつか聞いてみたいと思うものだ。
 ──お前はマリアのことを知っているのか。
 父は確かにそう言った。では父もその女性のことは知っているのだろう。そんな雰囲気が漂う言葉だ。母の悲鳴も。
 ──お前にもあの人にも沢山の罪を負わせて、追い出してしまった!
 あれは何を指しているのだろう。そして父も罪という言葉に集約される何か、を知っていてきっと無関係ではないのだ。そうでなければ咄嗟に聞き返すはずであった。

 リュースはランプの明かりを頼りに黙々と後宮の庭を横切っていく。
 生まれた時から暮らしている庭だから広大といっても慣れがあって、人目に付かない通路も行き道も、リュースは良く知っていた。一人で考え事をする時には、回廊を行かない。
 不意に風が変わり、植え込みの上をさざめきながら通り抜けた。ざわめく葉鳴りにリュースは一瞬ぴくりと肩をひきつらせて振り返り、気の抜けた吐息をこぼして苦笑になる。
 自分は怖がっていない。後宮の夜は光のない場所は意外に闇だが、リュースがいるような抜け道まで知っているなら相当の古参だ。一瞬撥ねた心臓を宥めるように胸の辺りに手を置いて、リュースは唇を弛ませた。
 恐怖というのは毒だ。ぽたりと一滴垂れたところから、血の巡りを這って全身に回る。
「……大丈夫」
 リュースは呟いた。あれ以来、父も多少は神経をとがらせて後宮の武器管理を徹底し始めた。今この後宮で見咎められずに剣を持っているのは身元調査のしっかりしている近衛騎士たちと、弟のラインくらいのものだ。
 不意に胸の隅から転がり出てきた名前にリュースは微かに俯いて歩き出した。弟の事を思う時は、いつもあやふやな闇と微かな光を感じざるを得ない。
 ライン、私のたった一人の弟。
 どこまで明るくて、素直に伸びていくような、たった一人の弟。するすると上へ向かっていく若木のように、背中をまっすぐにすることに何の気負いも躊躇いもない、軽やかな光。
 それをひどく眩しく感じるのはどうしてなのだろう。人の長所も短所もそれぞれで、弟にはないものを自分が持っていることもその逆も承知しているはずなのに、気付けば若葉の大樹を振り仰ぐように目を細めている。
 弟の姿、朗らかな笑い声が描く、撥ねる光、その軌跡、軌跡、軌跡。
 リュースは束の間目を閉じ、唇を噛んだ。
 弟は彼の理想だった。あんな風になれたらよかった。自分に備わっているものだって決して短所ばかりでないと知っていても、ただひたすら憧憬として見つめてしまう。
 彼のようになりたかった。優秀だという教師の誉め言葉も、畏怖するような級友たちの視線も、欲しくなかった。ただ弟のように何の条件もなく愛される者でありたかった。
 誰よりも、母イリーナのために。
 解毒治療の為にしばらく後宮内の自室に縛り付けになっていたが、目覚めればいつも母の姿があった。うつらにまどろんでいる時もあったし、リュースの様子を見ながら何かを編んでいる時もあった。
 熱のせいで潤んだ視界をぼんやり向ければ、母はそっと笑って彼の額に手をやり、大丈夫よと小さく囁いてくれた。その声の優しさ、温かな気配が何よりも嬉しかった。多分自分は笑っていたのかもしれない。
 弟のいない閉じた瞬間瞬間が好きだった。ラインも時折は顔を出していたが、少しはしゃいでは母に叱られて帰されてしまうのが常で、それを心のどこかで満足に置きかえようとしていたはずだ。
 自分は喜んでいた──そしてあれ以来、母が彼に視線を多く向けるようになったことも喜んでいる。
 微かな勝利感が無いといえば嘘で、それは寄せ返すさざなみのように僅かな音を立てながら、胸内を行き来しているのだ。
 とはいえ、いつまでも病人のように寝付いている訳にもいなかった。マルエスの復任のために魔導の塔へも行かなくてはいけなかったし、長引けば自分の健康についての不安がまたあがってくる可能性がある。
 適度なところで切り上げるべき機会をリュースは選び、生活は事件以前のゆったりした流れへと、既に還ろうとしていた。
 そしてそれは即ち、再び母妃と彼の間にやや遠い距離感を呼び戻すものでもあった。後宮に自室を貰って以来、毎日母の元に入り浸っていたわけではなかったが、一度知ってしまった柔らかな安息を手放した喪失感は、自分でも辟易するほど大きかった。
 それに自分で動揺している事を知っているし、知っていることが自分の胸に揺らぎをつくる。
 ──ラインなんか、いなければ良かったのに。
 そんな囁きは間違っていると分かっているのに、いつの間にか自分のすぐ隣にいて、僅かな隙間に滑り込んでくる。何度振り払っても繰り返される言葉が、知らず知らずに心に無数の爪を立てて、淡く甘い引っ掻き傷を作ろうとする……
 リュースは溜息になる。
 ラインのことは愛しいと思う。自分の在りたかった姿であったとも思う。その対極に暗く淀んだ呟きが存在していて、それら二つは背中と胸に張り付いて決して離れることはないのだ。あれが愛しく、そして憎い。そのどちらもが真実で、リュースは自分の狭量な独占欲に自分で怯み、首を振った。
 けれど弟を愛していると呟いている言葉のどこかに白々しい笑みが滲んでいるようで、それがひどく気に障った。
 リュースはもう一度溜息をついて、そして目線をあげた。完全に落ちた夜闇に、黒々と浮かび上がるのは既に花が散って葉が落ち始めた薔薇園だった。夏よりも遙かに閑散とした風景に見えるのは、そこに盛りとあったはずの花も繁茂とあった葉草もないことが大きい。
 再び風がざあっと植え込みを走っていった。その音に首根を叩かれたようにリュースは突然震え、はっと振り返った。何かの気配が背後をよぎっていったような気がしたのだ。
 あまりに素早い仕草に神経が追い付かず、指が弛んでランプが落ちる。風除け硝子の割れる痛い音に、リュースは慌てて数歩下がった。ランプの油が僅かに土に染みこんで、ほんの数瞬、炎がまたたいて消える。
 それで世界は不意に暗くなった。リュースはマルエスと言いかけて、苦笑しようとした。拘束はまだ解けておらず、彼は魔導の塔から戻っていない。他の魔導士たちとの相性もあまり良くなかった──というよりも、カノンとの合致率や同年代の気安さとどうしても比べてしまうために、魔導の塔が彼の元へ派遣してくる新しい随従候補たちがどうもぴんとこないのだ。
 だが苦く緩めるつもりだった唇が、僅かに震えるだけでぴくりともしない。その時、身体の内側からどくんという巨大な音が聞こえて、リュースは喉を微かに鳴らした。
 音が耳朶まで震わせながらあっという間に頭蓋に満ちていく。冷たい汗が噴き出してくるような感覚に囚われてリュースは自分の耳に手をやった。どくどくと波打つ皮膚の動きでやっとそれが自分の心臓の音だと気付く。
 馬鹿馬鹿しい、とリュースは顔をぎゅっと歪めようとした。あまりに強い力で眉根を寄せたので、一瞬こめかみがひきつった程だ。
 それを片手で押さえ、リュースは視線を遠くへやった。枯れた薔薇の枝の向こう側に暖かく揺らめいている蜜橙色の灯火は、母の住む小宮の窓だ。それがあんなに遠い。
 ……遠い、と思った瞬間に、自分が震えているのがはっきり分かった。夏の夜に彼を襲った災厄の記憶が、今まで忘却の箱の中に放り込んで見ないようにしてきたものが、その蓋をあけて這いだしてくる。
 リュースは僅かに身じろぎした。遠い世界に巨大な断絶があるように、そこから一歩も前へ進めない。こんなこと、と内心で呻いたまま、リュースはそこに立ちつくす。
 刺客は彼を殺すことには失敗したが、震え上がらせることは出来たようだった。ほんの僅か先にあるはずの、柔らかい安息の色でさえがひどく遠く、遙か無限の彼方にあるように思われた。
 けれどそこへ行かなくてはいけないとリュースは震えながら前を睨み据える。
 こんなことで屈しない。絶対に理不尽に膝を折らない。あんなことで自分が怯えているなど、あり得ない。発端が間違っていて前提条件の違う計算など、正しいはずがないのだ。
 ──理性としては。
 けれど現実動かない体は自身の心中の理屈ではどうにもならなかった。怖がっていない、とリュースは必死で呟こうとする。だが、それをしようとする唇は強張っていて、微動もしてくれないのだ。
 ざあっという音がまた揺れた。リュースは反射的に目を閉じた。歯止めが利かない。
 ほんの僅かに、足が下がる。下がった瞬間、何かの気配を感じてリュースははっと振り返る。風が通りすぎていっただけなのだということをどこかで理解していても、止めることが出来なかった。
 呪縛が解けたように、足が動く──元来た道へ。
 逃げ出していいことなど一つもないと承知していながら、先へ進む恐怖に勝てない。勝てない、と思った時、部屋へ駆け戻る自分がうっすら泣いていることにリュースは気付いた。