第6章 闇 3

 おめでとう、と学校長が彼の手をぎゅっと握った。クインは曖昧な返事をして、その吐息の通りあやふやに笑う。
 彼の表情が微妙なことに気付いた校長が怪訝そうにどうしたのかと尋ねるのを、クインは首を振って回避した。
「……まあいい、とにかく君には我々の期待と希望がかかっているんだよ。君があちらでも優秀な成績を収めてくれれば我が校にも十分な補助金が出るし、そうなれば他の生徒たちもこれから入学してくる後輩たちにも、もっといい環境を……」
 喜びの色が薄いクインへの疑問は当座忘れることにしたらしく、校長は滔々と未来の夢を語っている。
 校長は決して俗物一辺倒ではなく、多少補助金で潤うにしてもこの看護学校のことを真剣に考えているのは本当のことだ。職業訓練のための学舎ではあるが、教育者としての真面目な気概は中等学院の教師たちよりも強く感じることが出来る。
 だが、そんなことよりもまず保身の方に意識が寄っていくのをクインは自分で苦く思いながら校長、と小さく言った。
「俺、研究会へは行きません。学校に来ていない時間は働いているので、そんな暇はありません」
 看護学校は週に2度、集まってくる生徒にはやはり何かの仕事を持っている者が多い。昼間はどこかで働きながら、それぞれの希望や事情によって日常の負担の少ない訓練校へ通ってくるのだ。
 クインの素っ気ない言葉に校長はゆるく首を振り、机の上に放り出してあった書類をぱらぱらとめくった。入学の際に特待生待遇のための身上書を書かされている。それは殆どでたらめを書いたはずで、今になって何を書いたのかを記憶に探してクインはじっと俯いた。
「……昼間は父親の事務所の会計事務だったね?」
 確認のための疑問符にクインは一瞬置いてから頷く。そんなことを適当に捏造したような覚えが確かにうっすら残っていた。
 学校側から父親に事情を説明したいという言葉にも首を振る。そもそも存在していない人間に会わせることは出来なかったし、急ごしらえに人を揃えて芝居をうつなどというのは博打だ。どこかに必ず無理が来る。欺瞞はいずれ、どんな形になっても剥がれていくものだと自分は経験としてとうに学んでいるはずであった。
「仕事のことは関係ありません。俺が行きたくないんです」
 俯いたまま、クインはぼそぼそと呟くように言った。校長は大仰に肩をすくめ、首を振った。
「君は特待で入学している──その後の成績が入学試験の時のことを思うと芳しくなかったのは不思議だが、それにしても長期休学から戻ってきて第4席だよ? もっと自分に自信を持っていいと思うがね?」
 クインは首を振り続ける。ライアンの暴力とその後の自らの仕業で右腕は長く握力が戻らず、そのせいで看護学校は休学扱いにして貰うしかなかったが、特待で入学している以上は定期的に成績を示さなくてはいけない。
 学校側は学費を免除するかわり、彼に校名の宣伝となりうる良い成績を期待している。それが出来なければ強制退学となっても仕方がないのだ。
 その勧告は休学明けに直接伝えられた。次の医療系学校の全国統一試験の成績によっては辞めて貰うと言われ、クインは過去の平均点を頭にたたき込んで試験に臨んだ。
 点数は調整しなくてはいけなかったが、同じ学校に通う生徒達よりは上で全国的には目立たない辺りと踏んだ点数は、目論見より遙かに高い相対値をたたき出す。今回の試験から作成者が変わったせいで平均点ががくんと落ちたのだという話は、結果が出てから聞いた。
 時折、運命の悪意を呪いたくなる。
 クインは彼に向かって特待生としての心得を諭す校長の言葉を殆どやり過ごした。嫌です、行きたくありませんとだけを唱えていると、遂に校長の方が折れたような大仰な溜息になった。
「君、これは高等学院からの招致だよ? 全日制の医療学校からだって五年に一度出るかどうかなのに! 夜間学校からは君が初めてになるから良い前例にしたいとあちらからも全ての面で融通を図るようにと言われているし、一体何がそんなに嫌なのか、分かるように理由を言いなさい」
 クインは項垂れたままでじっと唇を結んでいる。
 医学に魔導学を持ち込む、という学域を超えての勉強会は存在している。但し、高等学院からの招致ということになると更にその上、授業料や高等学院への入学試験を免除しての聴講生として在籍を認めるという意味であり、破格の待遇であった。
 後から配布されてきた席順表を見れば何故自分が呼ばれたかは分かる。クインの上位も含め、全国試験での上位200番台までは高等学院の学生だけなのだ。そこに一人だけ医療学校ですらない看護学校の生徒、しかも週に2度の夜間校生徒が混じれば目立つに決まっている。
  クインは俯き、床の木目を見つめた。こんな事は初めてではなく、中等学院の入学試験の時にも自分の咄嗟の嘘はすぐに露見している。付け焼き刃やその場だけの言い逃れでは保たない。
 目を閉じ、一瞬深く呼吸してクインは唇を開いた。
「──辞め……」
 言いかけた先を、校長の更に硬い声が遮った。
「辞めるなら学費の返還をしてもらわなくてはならないが」
 クインは返答につまり、視線をあらぬ方向へ流した。この看護学校の学費は月に100ジルと諸経費となっているが、通い出して半年になる。累計で700ジルには足らない程度だろうが、一息に出せる金額ではなかった。
 一晩で1200ほどチアロはふっかけているようだがクインが受け取るのはその内の600程度、しかもつい先日に母の薬ひとつ良いものへ繰り上げたばかりで貯えもないのだ。
 黙り込んでいる彼の肩を校長は叩き、すまないね、と溜息の混じった声を出した。
「……君は優秀な生徒だ。本来本人が嫌がっているのを無理に行かせても無意味だと私も知っている──けれど、国からの招致を断ればこの次、また次に同じような生徒が出たとしても、二度とうちからは採ってもらえなくなってしまう……」
 声音に滲んでいる影は苦悩の灰色をしている。クインは頭をもたげ、僅かに時間をおいて分かりますとだけ呟いた。高等学院からの招致となっているが、国家からの要請と同じだ。どこにも余波が及ばないように断る方法はないだろう。
 すぐには決断を出来ない空気を読んだのか、校長は今日はもういいよと優しい声を出した。クインは軽く頭を下げて校長室を出た。
 薄暗い廊下には同級生達がたむろしていた。クインが出てくるとさっと口をつぐみ、奇妙な視線をちらちらとぶつけてくる。
「……なんだよ」
 クインは不機嫌なまま呟いた。同級生達とこれまで積極的に関わった記憶はなかった。彼の美貌と特待生入学という分かりやすい成績につられるように彼らは自分に近しくなろうとし、自分はそれをはねつけてきた。
 彼が頑なで無愛想なことに気付いた彼らはすると一様に彼を遠ざけ、殆どいない者のように振る舞ってきたのだ。すりよってくるとしたら最低だなとクインは鼻で笑い、教室に置き放してある鞄を取りに行こうと背を返す。
 その瞬間、しんとした空気の中を通り抜けた言葉が耳に落ちた。
「──不正してんじゃねぇよ」
 クインは振り返る。誰の声だったかは分からない。けれど、それは彼を失笑させるのに十分だった。
「自分らに理解出来なきゃ不正かよ。まったくおめでてぇな」
 と、彼らが一斉に気配を逆立てたのが分かった。分かりやすい反応だとクインは思う。こんな風に自分にまつわる全てのことを、これほど簡単に支配できたらどれだけ楽だろうかとも。
「なら、特待試験と抹籍のかかった試験だけいい点出せるなんて、天才様じゃねぇ?」
 クインは薄く笑う。本当に確かに出来すぎている話だ。特待試験ももう少し点数を抑えるべきだったのかもしれない。けれど過去は取り返せないのだから、未来を撤回することくらいはしなくてはならなかった。
「天才様はお前らと違うんだよ、ここの出来がさ」
 こつこつとこめかみの辺りを指で叩き、クインはあごをしゃくった。
「一体どこに不正の証拠が? 何なら事務局に答案の照会でもしてみるか? 下らないこと言ってる暇があったらお勉強でもすれば?」
 嘲笑うように吐き捨て、クインは歩き出す。背後からは押し殺したような囁きが聞こえていたが、内容に聞き耳を立てる気にはならなかった。
 事務局という鳥羽口を与えてやったのだから、誰かが不正を訴える投書でも書いてくれるだろう。もしその気配がなければ自分ですればいいことだ。招致を覆せるかどうかは分からないが、多少の時間稼ぎにはなる。
 ──本当は、名誉なことだし喜ぶべき事なのだろう。母マリアのことがなければ、自分の血の中に潜んでいる何かがなければ、それを微笑んで受け取ることが出来ただろうか。
 クインは唇を結ぶ。仮定の話に現実はない。余計なことなど考えない方がいい。明るく正しい未来の話など、自分にとって何の価値も意味さえもない。
 こんなこと、今でも考えている? 本気で信じているのだろうか、今この瞬間に?
(いつかいい未来が来るから)
(大丈夫)
(今は辛くても、きっといつか)
 微かに記憶の底で誰かが囁いている。エミリアの声のような気もしたし、別の声のような気もする。誰の声かというよりも、その優しく包む声音のほうに安堵してしまう。
 こんなことではいけない。クインは自分の理性の声が冷たく言い放つのをやはり脳裏に聞いている。
 叙情の海にからめとられてはいけない。それは自分の手に確実にある理性という名の武器を錆びさせる行為だ。エミリアのことだって、もっと自分が沢山のことに目を配っていれば違っていたかもしれない……
 クインは舌打ちした。
 思い返せばやりきれない、やり直したいことは沢山ある。一体どこで間違えてしまったのかは分からないが、物心着いた頃から迷走の中にあるべき運命にあった身としては、そのどの分岐であっても間違っている気がしてならないのだ。
 いつか。エミリアもそう言った。いつかという言葉に依託されている漠然とした希望を、はっきりと思い描けないことが悔しい。彼女の見せたかったものの色味は分かるのに、具体的な輪郭線にはまとまらないのだ。
 教室の鞄を乱暴に掴み、外へ出るとそこには既にとっぷりした闇が広がっている。その中を足早に歩きながら、クインは微かに溜息をついた。
 既に秋の終わりへ踏み込んでいる空気にぱぁっと白い霧が散る。もうそんな季節なのだ。
 ──あの優しい声の人を見失った時はまだ夏だったのに。
 それからクインは顔をしかめる。高等学院への招致は回避の方向へ誘導するにしても、それはあまり勝算のある賭ではない。点数は調整したが回答内容はさほどいじっていないから、記述回答の部分の正しさ故に不正はなかったと判断される公算が大きかった。
 学校を辞めるか。それとも腹をくくって高等学院への招致を受けるか。その決断はまだ先でもいいが、あらゆる場合を想定しておくことは決して無駄ではないはずであった。
 だが、高等学院にはエミリアがいる。彼女の姿を見かけてしまったら、どんな顔をして何を言えばいいのだろう。
 否、なによりも自分と関わることを怖れて彼女が俺を無視したら? クインは僅かに身震いした後ぎゅっと唇を結び、ますます歩調を早めた。