第6章 闇 4

 窓から雨が吹き込み始めた。ぱらぱらと少年達が手近な建物に駆け込むのが見える。窓を閉める直前に天空を見上げ、チアロはゆるい溜息になった。
 黒い空は低く、雨の臭いも強い。今夜はきっと出るのが億劫になるだろう。幹部連中の会合には勿論出なくてはならないが、どうにも面倒に感じてしまう。
 だが行かないなどという選択肢はない。チアロの自閥は現在大きな問題を抱えていないが、イシュラのところは下の連中がさざめかしい。どうもイシュラの決めている月の上納額が他より多いらしく、不満があるようだ。
 彼らの内部閥に関して口を挟める立場ではないが、イシュラのところを抜けて他閥へ移ることは困難であるし、チアロは引き受けるつもりが無い。子供達の王国とはいえ生死を分けることもあるために結束は固く、裏切りは割引ようのない罪だ。下手に引き受ければこちらに飛び火する。
 ぱたりと窓を閉めてチアロは皮の手袋を少しきつくしめなおす。考え事をするときは大抵細刃刀の練習だ。無口でいても誰も気に留めない。普段何かをのべつまくなし喋っていると思われているのは知っている。
 俺はそんなにお気楽じゃないと苦笑にもなるが、幹部連中が自分を軽侮していることで気軽に身動きが取れることもあるから一長一短だと飲み込んでいる。
 チアロはゆっくり細刃刀をひいて的にしている柱の釘に狙いをつけながら、今夜の会合の内容を一通り想像巡らして溜息になった。気が重い。イシュラから自閥抜けの連中を引き受けないように要請もあるだろうが、一番は彼女のことだ。ほんの2ヶ月前に幹部として扱うとされたあの女。
 自閥を持っていないため今夜の会合には出席する必要が無いと告げてある。来ても何も得るものがないと彼女自身理解しており、来る必要が無いというディーの言葉に微かに頷いていた。
 かつんと細刃刀が釘の頭で跳ね返って落ちた。良い角度で当たればそれはチアロの足元まで転がり返って来るはずで、その通りにチアロは身を屈める。チアロ、と呼ばれたのはその時だった。
「握りに対しての重心の位置が悪い。あまり狙いをつけることだけを考えるな」
 チアロは聞いてたのと苦笑して振り返る。ライアンが腰のベルトから煙管を抜き出して葉を詰め始めるところだった。オルヴィが軽く会釈して帳簿をたたみ、チアロに視線だけで挨拶して出て行く。
 意識の隅で聞き流していたが、麻薬筋の契約はどうやら無事に開始されており、順調に占有率を伸ばしているようだった。北方ヴァリエーンの連中との金額の折り合いもライアンにとって悪い条件ではないらしい。オルヴィのあげる数字で見当はつく。
 ライアンは字を読めないが、オルヴィは出来る。取引相手との帳簿も彼女が管理していて10日に一度はライアンに報告を読みあげているが、それ以外のときも大抵彼女はライアンの側にいた。──いつの間にか彼女の耳朶に柔らかく赤い石がはまっている。
 同じようなものがライアンの耳にもあって、それは殆ど同時期にそこに備わったようだということをチアロは知っているが、誰にも話したことは無かった。けれど自分がすぐ気付くことだ、いずれ全員が知ることになるだろう。今までもオルヴィはライアンの愛人だったが、どうやらそれは自分たちが考えているよりもライアンにとって重要な要素であるらしいのだ。
 一体何が良くてどうなっているのかチアロには分からない。シアナがライアンとの血縁の確認を願っていることを考え合わせると、ライアンの意思は彼女から離れかけているのだろうか。シアナはそのために何かの絆を探してチアロに頼んだものかも知れない──それはそれで自分には都合がいいのだけれど。
「糸は要らないことにしたのか」
 最初の一服を空中へ吐きだしながらライアンが呟くように言った。チアロは曖昧な返事をする。鋼糸も熟練すればライアンがしているように相手を自分のほうへ引き転がしたり首を絞めたりといった使い方が出来るはずだが、自分はあまりそちらに向かない。リァンからライアンへ継がれていく武器をチアロもすることで、ライアンの後継となる雰囲気を作れたらとは思うが、自分の命を賭けてまで拘ることではないはずだった。
「使いにくいんだよね、糸。小太刀のほうがいいのかな、俺」
「お前は腕が長いからな、体格も才能と思えばそうかもしれん」
 ライアンが小さく笑う。チアロは肩をすくめてかもね、と言った。細刃刀を軽く服で拭って机の上に放り出し、それと、と何気なく切り出す。この話をするためにオルヴィが消えるまで待っていたのだ。
「クインの仕事、一つ断ったよ」
 ライアンが軽く目線で先を促す。クインの背後に薄暗い何かの秘密があることはライアンから教えられている。それがもしかすると皇族にまで遡及するかもしれないために、クインの相手は誰でもいいということではなかった。彼を買う金は今でも相当の額だが、受け取った金の半分は次の相手の調査で消える。けれど偶然の邪悪な罠にはまることを考えるとそれも致し方ないというのが結論だ。
 単純に第1皇子リュース・クインとの相似を求める客もいるが、それを装って別の意図を持つ者が混じりこまないよう、貴族や後宮に係わり合いのあると思われる相手はその段階で撥ねている。
 けれどわざわざライアンに報告するからにはまた違う話があった。
「後宮や役人とは関連ないんだけど……何かおかしい、ライアン最近変わったことは?」
 ライアンが僅かに宙を睨み、やがて首を振った。そう、とチアロは頷く。おかしいとは、と促されてチアロは軽い溜息をついた。
「何ていうのか……あれは俺達の同類だと思う。戸籍も揃ってたし確かにザクリアの人間ではないんだけど……動くときに音がしないし、人混みで見失った、奴は歩き方を知ってる」
「尾行は苦手か」
 ライアンの声に篭るかすかな苦笑にチアロは唇をゆるめる。ここ3年ほど自分でも恐ろしくなるほどの勢いで身長が伸びていくし、手足も同じように長くなっていくような気がしている。人混みに紛れても目立つような気がして落ち着かない。自分の気配を消すほうにどうしても神経がとられてしまうのだ。
「何故クインを買おうとしたのか今は考えるな。どうせ用事があるならどんな形でも接触してくる」
 ライアンの言葉にチアロはそうかもねと軽く返答をした。目的がライアンの身辺に転がっているのならばそれも道理ではあった。それに胸の中にある僅かなささくれの形状を説明することは難しく、ライアンを納得させることは更に困難であると思われた。あの男を見たときのざらりとした闇の手触りをどう口にすればよいのかも分からない。それが自分の肌の温度であるなら尚更だ。根拠とするべきなのはその感触のみなのだから。
 チアロは大きく吐息をし、机に放り出したままだった細刃刀をつまみあげた。不満というよりは軽いが、割り切るには曖昧な靄がかかっていて気が晴れなかった。
 あの男が自分たちの同類かもっと酷い種類であることは覆す気が無い。だが目的がクインとその背後の貴族達の闇なのか、ライアンの足元に広がる血の色の闇なのか判断がつかないのも事実だ。
 不服かとライアンが苦笑交じりに呟いたのが聞こえた。チアロは少し置いて、ゆるゆると首を振った。
「いや……もう少し核心を掴んでからだなって考えてただけだよ。それよりオルヴィをこのままずっと側に置くつもりなの、ライアン? 正直に言えば俺もあんまりいい気持ちはしないよ」
 不服かという言葉に吊られるようにするりと落ちた言葉にチアロは自分で苦笑した。今夜の会合でも必ず入ってくるだろう話であり、ライアンはきっと反駁をあっさりと切り捨ててしまうだろうという予測もある話だ。
 ライアンの表情は変わらない。ただ丁寧に煙管から灰をたたき出すことに熱中しているように見える。口を挟むなということだと分かっていても、チアロはその理解を無視した。どうせ今夜には他の幹部の連中が同じことを言うに決まっている。
「チェインは俺達みたいな連中の吹き溜まりで、全員揃って品行方正なお利口さんでないことは本当だけど、他の幹部連中のやってきたことを否定するのはいい方策だとは思わないよ」
「汚れ足りないとでも?」
「違うの? 少なくともリァンの継承戦争やノイエのところからイシュラが割れたときのようなことは起こっていない」
 突然頭目を失って右往左往する少年達の壮絶な淘汰試合であった継承戦争をライアンは勝ち抜いて今ここにチェインの王として在る。チアロはまだ子供であった時代のことだが、その後の泡沫閥の混乱が長く続いた時代には既に小さいながらも縄張りを確保し、そこを足場にあがっていった。その過程には沢山の傷があり、口にしたくないことも存在する。
 そしてオルヴィは修羅場をくぐったというにはあまりにもゆるい階段を上がってきた。勿論当人にしか分からない屈辱もあるだろうし、女にしか理解できないことはあるはずだ。
 けれどオルヴィの殆ど動かない表情からその痕跡を読み取ることは難しく、目に出来ないものは容易に信じることが出来ない。例えばクインのように分かりやすく自尊と自負の間を揺らぎながら吼えるなら傷も分かるが、オルヴィにあるのは鉄のような重く動かせない壁だけだった。
「──手をわざわざ動かせということではないだろう。チェインも騒がしい時期とそうでない時期がある。あれがここへ来たのも丁度閑没期だったはずだ。それにチェインの閥を持たせることはしない。あれにはヴァリエーンの連中との取引を任せているだけだ」
 ライアンの長い説明は少しもチアロの感情に波を立てない。理屈ではない部分でこれが言い訳かそれに近いものだと理解している。ライアン、と呟いた声はやや苛立ちを帯びているようで、チアロは溜息をついた。
「……俺がそんなふうに思うくらいだから、他の連中の思惑なんて分かるだろ、ライアン? 彼女をどうしたいんだ」
「お前たちの許可の要ることかチアロ?」
 突き放されてチアロは溜息になる。あまり自分が言いつのることでもなかった。ライアンにはライアンの思惑があり、それはいずれ自分にも落ちてくるはずだ。クインのことを任されていることで、チアロは自分が秘密の一端にいずれ噛むだろうことは理解している。
 まぁいいや、とチアロは肩をすくめ、細刃刀を拾った。構えようとしたとき、ライアンが重心、と呟くのが聞こえた。