群星の夜(1)/ 旧王国暦215年夏、ラストレア-1

 人の波がゆれている。揃いのチュニックとスカーフが僅かに風になびく。さざめきに似た密やかな吐息と言葉の波が風の中をゆるく満たし、やがて大きく朗らかに響いた。
 彼らは一様に少年時代の最後の年齢に位置しており、数人で固まって笑ったり論じたり、三々五々に勝手な方向へ散っていく。
 大陸の中央やや北よりに位置する城塞都市ラストレアの、更に中心部に近い位置に立つ王立学院の中庭は学生たちであふれ、若者特有の喧騒と共に、明るく日射しに照らされていた。
 その中に一人の少年がいる。年齢はこのとき(旧王国暦215年夏)19になるはずであるが、最初の印象はもう少し下になるだろう。若干骨ばって大きい手が襟をゆるめ、首元のスカーフを抜いている。手をばたばたさせて喉元に風を送っている様子は夏の気温にやや気だるげだ。
 友人たちと楽しげに喋りながら、少年は襟足の髪をかき回した。この時代には珍しい短い髪は漆黒だ。髪質は悪くないが、大して手入れをしていないのだろう、寝癖ともつかないまま跳ね、所々絡まっている。
 彼の顔立ちは悪くない。特別な美形ではないが、垢抜けてはいる。身長はどちらかというなら高いほうだが際立って長身でもない。まずは平凡であった。
 この時、彼の外見や雰囲気、ぐしゃぐしゃの髪、よれよれの制服から未来を予測しえた者は皆無だったはずだ。この取り立てて特徴のない少年こそ、後のシタルキア皇国の太祖皇帝その人である。だが、それを知ってほくそ笑むことが出来るのは後世から覗き見している我々だけである。
 太祖皇帝その正式な名を、エルシアン・クリス=ルゥ・エリエアルという。この正名を筆記できるのも、皇国がたおれた後の恩恵の一つであろう。
 エルシアンは足早に中庭をよぎり、古ぼけた寮舎へと入った。日差しは夏らしくきついものだが、湿度は高くないから、日陰へ入ってしまえば存外過ごしやすかった。風もこの日は涼しい。
 エルシアンは三階までの階段をだらだらと上がりきり、左に折れて廊下の端の扉を開けた。扉の表札はエルシアン・クリスという簡素なものだけだったから、個室を与えられていることが分かる。
 こじんまりとした部屋には机と寝台がぽつんと置かれ、クロゼットが隅に置かれている。作り付けの棚には本が乱雑に置かれ、本立ての代わりなのか酒瓶で寄せてあった。
 エルシアンは部屋に入ると窓を大きく開けた。寮の前庭に植えられている木の枝が窓を殆どさえぎって、景色は良くない。その代わり窓を開けた瞬間、溢れるように緑の香りが部屋になだれ込むのにエルシアンは満足そうに笑い、着ていたものを脱ぎ散らかして寝台に転がった。授業の間必死に耐えていた眠気をなだめてやる時間なのだ。
 裸で昼寝ではあるが、個室であれば気兼ねはいらなかった。寮は原則二人部屋で、個室を与えられることは彼がささやかな特別扱いを享受している証拠だが、成績が良いとか貴族の端に連なっているとかの理由で、十人に一人程度は個室であった。
 エルシアンはすぐに健やかな寝息を立て始めたが、いくらもしないうちに、彼の部屋の扉が勢いよく叩かれた。扉の音をエルシアンはどこか遠くからのように夢半分で聞いていたが、やがて面倒そうに目をあけた。
 扉を叩きながら友人の声が起きろと明るく笑っている。仕方ないとエルシアンは起き上がり、寝着をかぶって扉をあけた。わ、と声がして扉を叩いていた反動で前にのめりながら、友人が部屋に踏み込んでくる。
「何だよケイ、寝てるの分かってるくせにしつこいぞ」
 寝入りばなを起こされてやや不機嫌な声が出たが、ケイのほうは軽く悪いと受け流し、それから少しだけ笑みを収めて、起こしてすまないと言った。エルシアンは曖昧な返事をした。文句を言ってやろうとする傍から謝られてしまっては何もいえない。仕方なく、いいよと呟くとケイを部屋に招きいれた。
 ケイはエルシアンが開け放しておいた窓の腰によりかかると、風に揺れる亜麻色の髪を軽く手で押さえた。
 さて、ケイという名前にぴんとくる方も多いだろう。彼はケイ・ルーシェン、後の世から見ればこれも奇跡の取り合わせにみえるはずだ。ケイはエルシアンの元で建国の功臣として名をあげ、名宰相として活躍することになるあのケイ・ルーシェンである。
 エルシアンの覇業を内政面から支え、政権を堅牢に作り上げた一柱、更にエルシアンの死後は遺児となった二世皇帝フォルシードを守って国家の骨格を殆ど一人で作成した偉人であるのは皆様ご存じと思う。ケイをこそ二代目の皇帝と呼ぶ人もあるほどだ。二人の出会いは月並みなことに寮の部屋が隣同士であったことなのだった。
 閑話休題それはさておき。話を元に戻そう。いずれにしろ、このときは二人とも世間を知らない少年たちに過ぎない。
「何か用か」
 まだ面白くない顔でエルシアンは聞いた。ケイはああ、と窓の外を見ていた視線を戻し、大きく頷いた。
「制服、作りにいくんだ。新しいやつ」
 話についてゆけず、エルシアンはぽかんとする。ケイが悪戯っぽく笑って街まで付き合えよ、と言った。
「暑いから」
 嫌だ、と続けようとした先を、ケイが素早く
「氷、おごってやるぞ」
と遮った。思いがけない間食の誘惑にエルシアンはふふん、と鼻をならす。それで提案を気に入ったことを理解したのだろう、ケイは早く着替えろよと彼をせかしてもう一度窓の外を見た。同性の着替えなど、面白くもなんともない。
 学院はラストレアの中央に近い部分にあるが、繁華街へ出るには官庁街と官舎街を抜けていかなくてはならず、結果かなり歩くことになる。エルシアンが渋ったのはそういう理由なのだが、それでもこの暑さの中では氷の誘惑は効くようだった。
 ケイがぼんやりと外を眺めていると、その背にエルシアンの気のない問いがあった。
「制服、なんで」
 え、と聞き返すと、足りない言葉を補うように、何で作るんだよという呟きが返った。エルシアンの疑問は当然というべきで、制服なら今もケイが身に着けていて、作り直さなくてはいけない致命的な欠陥などはなかった。そもそも多少のことなら修繕に出す。新調するというのは余程のことなのだ。
「ふふふ……聞きたい?」
 ケイの唇からは含み笑いがもれる。幸運というべきなのか今までの努力が認められたと誇るべきか、王立学院長に呼び出された時はひどく不安だったくせに、蓋をあけてみれば、それはケイにとって一生に一度の僥倖なのだった。
 エルシアンが何だよと少し苛立ったような声を出したから、ケイはそれ以上もったいぶらない。
「俺さ、選ばれたんだ」
「何に?」
「学院の代表」
 口にしながらケイは機嫌の良い笑みをもらした。学院長から通達されたとき、あまりの幸福にへたへたと座り込んでしまった。ケイは五十六期生の主席を一回生の頃から続けており、成績だけなら選ばれてしかるべきだが、貴族ではなく平民の富裕層の出身である。だから選ばれたのが本当に嬉しい。
 だがエルシアンの反応は今ひとつだった。代表って何、と返ってきてケイは苦笑になった。
「来月、王太子殿下の学院の視察があるじゃないか。学生代表で一人案内を出すって、学院長が先週の週礼で……って、お前は週礼出てないか」
 この友人ときたら週礼には出ない、授業は半分居眠り、起きていれば手紙を書いているか何か別の本を──大抵くだらない小説などだ──読んでいるかだ。それでも試験になれば悪くはない程度の点数を稼ぎ出しているから、基本的に要領はいいのだろう。それにエルシアンの場合は公にはされていないが、身分というものがあるから落第はしないはずだった。
「それでさ、お前に王太子殿下の傾向と対策というか、ま、情報収集をさせて欲しくてさ。制服の採寸が終わったら氷食いながらゆっくり話を……エルス?」
 ケイは喋るのをやめ、腰窓から降りた。エルシアンの横に座り、軽く手を叩こうとしてそれもやめる。エルシアンが小刻みに震えているのに気付いたのだ。
 指先がぎくりとするほど白い。強くシーツを握り締めているからだけではなく、顔面からも血の気が引いていて、はっとするほど酷い顔色だった。つい先ほどまでの、昼寝明けのやや火照った肌色からすれば蒼白にさえ見える。
 ケイはしばし呆然と友人を見る。エルシアンの酷い動揺を目にするのは初めてで、ただ困惑となった。
「……どうしたんだ、大丈夫か」
 努めてやわらかく問うと、焦点の合わないぼんやりとした視線が返った。しばらくの沈黙。
「エルス」
 強めに呼ぶと、それでエルシアンがはっと我に返った。どうしたんだと重ねて聞く前に、何でもない、とエルシアンが強く返答した。ケイは質問を封じられたことを悟った。
 ほんの僅か、二人の間に居心地の悪い空気がたまり、それはすぐにエルシアンのごめんという言葉で消えた。いいや、とケイは応じ、することもなく床に視線を落とした。
 ケイがエルシアンと出会ったのは、半年前のことだ。
 学院に転入生は非常に珍しいが、更に季節外れでラストレアにやってきたのがエルシアンだった。
 寮は個室に振り分けられていたし、ふとした手つきや身ごなしがどことなく優雅だったから貴族だろうとは思っていたが、本人はいたって伸びやかに明るく、垣根ない。共有部の掃除や食事当番も嫌がらずにこなしており、貴族としてもかなり下位だろうとケイは当初考えていた。
 最初の印象もかなり良かった。彼の持つ空気が自分と似ていること、きっとすぐに馴染むだろうと思ったことをケイはエルシアンに話したことはないが、彼も同じだと根拠なく信じている。
 半年が経過した今、誰よりも深くつながっているとお互いに感じていることも言葉にすることはないがお互いに暗黙に理解はしていた。自分たちは鏡なのだとケイは思う。
 二人でいくつかの出来事を通過した後にエルシアンがこっそりささやいてくれたのは、彼が第十三王子であるという事実であった。驚愕はしたのだが、砕けきってしまった態度も言葉遣いもどうにも戻らず、エルシアンもそのままでいいと言ってくれたのでそのことは一旦記憶の端に置き忘れることにしてあった。
 王子であることが名前から知れるのではないかという疑問は意味がない。エルシアンは王族の姓であるエリエアルを省く以外特に偽名を用いているわけではないが、五十人を越す今上王の子供達を全員覚えている者は少ないだろう。ケイとてすぐ思い出せるのは、第三王子である王太子くらいなものだ。
 ましてエルシアンは父王との関連性が薄い。むしろ父に歓迎されていないことが名前から分かる。この時代の貴族、まして王族ともなると本人すら覚えていないような長い名前をつけるのが一般的である。例えば今度学院に視察に来るという王太子の姓名を全て表記すると(冗長だがお付き合いいただきたい)、『アスファーン・エディーグ・カチミ・エルフェリ・メス・カルクエスト・バルグ・ループ・アリエン・ラントン・ジェコフ・カウス・エリディーン・ラム・カ・エンディ・ログベルド・レイアル・ストア・ウディエル・エスラスト・ガン・ファリーム・ライ・レ=ルゥ・エリエアル=シタルキア・ロイ』(末尾のシタルキアは国号、ロイは後継者を意味する所属性の接尾語)といううんざりするほどのものだ。エルシアン・クリスという短い名が、彼の宮廷での扱いを密やかに、だからこそ雄弁に語っていた。
 ともかくケイがエルシアンに聞こうと思った発想は安直ではあるが当然でもあった。王太子アスファーンはエルシアンの異母兄のはずで、同じ宮廷のうちで育ってきたはずなのだから、多少は王太子の為人ひととなりを知っているだろうということである。
 ケイにもエルシアンの立場の弱さは薄々感じることが出来た。彼は侍従すら帯同していないのだ。少し気の利いた貴族の子弟には大抵近侍がついていて、ケイたちはそれを子守などと呼んで酒の肴にしているのだがエルシアンは単身、学生寮で寝起きして他の学生と同様に掃除や配膳の当番をこなしている。
 侍従はいないとエルシアンからは聞いていた。ラストレアへ来る少し前までは同じ年の少年がつとめていたのだが、家の事情で離職した後は充当していないのだということだった。それまでも大抵自分のことは自分でしていたし不自由はないとエルシアンは軽く笑っていて、だからこそ寮暮らしが出来るのだった。
 ケイは視線を友人に戻した。エルシアンはケイの瞳の気遣わしさに気付いたのだろう、唇だけをなんとかゆるめてみせるが、暗く思いつめたような光は消えなかった。エルシアンの暗紫の瞳が何かに沈み込んだように重い色に見え、何か声をかけようとしてケイは黙り込んだ。エルシアンはいつも明るく楽天的で、その裏で常に人を気遣っている。それがこれほど暗く、何かを壮絶に恐怖するような目をしている──何か深いところをぐいと捕まれたような息苦しさを感じ、ついで背が震えたのが分かった。
 風が枝を揺らすざわざわという音が、突然二人の間に割って入った。ケイは反射的に顔を上げ、同じように我に返ったらしいエルシアンがケイを見る。
 ──僅かの間をおいて、二人はほぼ同時に溜息を漏らした。やれやれ、とケイがおどけて肩をすくめると、エルシアンがそれを真似て大仰なしぐさをした。
「いつだって、視察」
 来月の頭、とケイは簡単に答えた。彼の返答にエルシアンは頷き、行こうか、と言った。
「氷、この前エイシャに聞いたんだけど、食い放題のところがあるんだってさ。俺、そこがいい」
 そう言って今度こそ心地よく笑ったエルシアンの表情にもう暗い影はない。普段通りの友人にケイは安堵し、エルシアンの深い部分を見なかったことにしたくて記憶の隅へ放り込んだ。
 ……少ししてからケイはこの日のエルシアンの変調を誰にも話さなかった自分の正しさを痛感する。元々エルシアンが王子であることを知っているのは学長と一部の理事だけであったから、誰かに話すのは難しかったことも事実ではあった。
 だが、とケイは思う。話さなかったのではなく、話せなかったのだろう。暗い沼の淵で底がどれだけ深くて泥臭いのかを考えるような怯えが自分を立ちすくませていたのかもしれなかった。ざらついた何かが心の端に触れていたことは分かっていたのに。
 単純に、ケイは怖かった。エルシアンの異変を感じながら無理やり目をそらした事実の苦さがやがて、ケイに全てをなげうちエルシアンと共に歩む道を選ばせることになる。
 あるいは、とケイは後に考えることがある。この時のエルシアンの異様な反応の原因を推測しようとすれば出来たかもしれない。だがそれを知っていれば、きっと自分はどうしていいか分からずに彼に背を向けたであろう事も分かる。この時ケイはエルシアンよりも一つ年上の二十歳で、渡河するには深い川であったのもまた事実であった。
 ケイは王太子に対する漠然とした不安を感じ、何があっても自分はエルシアンの味方でいようと強く思った。
 ──強く強く、そう思ったはずであった。