群星の夜(2)/ 旧王国暦215年夏、ラストレア-2

「ナリア」
 エルシアンが呼ぶと白金の髪の少女はふわりと笑った。軽く波打つ髪に光が跳ねて、きらきら眩しい。
 エルシアンは手を伸ばして彼女の髪に触れ、溜息になる。いつもどうしてこんなに柔らかいのだろう。さらさらと手の中で心地よい音をたてる。
 声を立てずにナリアが笑う。笑顔にエルシアンは言葉を失う。彼女は元々美しいが、何より好きなのは彼女を包む空気だった。
 内気がちだが芯のしっかりした優しさと暖かさ、静かで穏やかな空気。彼女に自分はどれだけ救われてきたのだろう。離れるときもとても辛かった。王宮生活の、殆ど唯一の光だったのだ。
 ナリアシーア、とエルシアンは少女を呼んだ。はい、と返事があった。抱き寄せると少女の髪に入った花香がかぐわしく、首筋に顔を寄せると肌の香りが甘い。衝動的に抱きしめて唇を首の付け根に押し当てると、少女がはっと震えたのが分かった。
 ナリア、とエルシアンは呟く。彼女の腕が伸ばされて彼の背を探り、肩に腕を回す。
 背を這う指先で、自分に背中があることにエルシアンは気付く。彼女が首に触れてエルシアンは首に気付く。体をなぞる彼女の手で、自分の体が確かにそこに存在していると気付く。細い指が彼の輪郭をなぞり、頬を愛撫し、鎖骨をなぞって下へ落ちる──
「ナリ……」
 言いかけたエルシアンの喉が圧倒的な力で締め上げられた。気管が潰され、蛙のような声が出る。必死で口をあけるが、彼を救うものは一滴も入ってこない。鼻腔に血が集まり始め、目がかすんで思考が急速にぼやけていく。恐怖を感じ、手を泳がせて体を離そうとするが、頑とした力を振り切れず、気が遠くなる。
 意識が暗転する僅か手前、急に首を絞めていた手が離れ、エルシアンは地面に崩れるように倒れた。反射的に喉に手をやりながら肩で呼吸をしていると、彼の後頭部を大きな手がつかみ、荒く地面に押し付けた。
 ──否、土の硬くしめった感触ではなく、顔が柔らかく沈むのが分かった。これが何かエルシアンは反射的に理解した──した、と思った瞬間いつも居室で寝台にたきこめられていた香だと気付き、エルシアンはここが寝台なのだと悟って悲鳴をあげようとした。
「い……」
 いやと叫ぼうとした瞬間、みぞおちへ重い衝撃が来た。思わず体を折る。僅かな間をおいて胃の中が煮えるようにのたうち、あがってこようとする。それを耐えるために口を押さえ、やめて、と小さく絞り出した。
 震えるほど低い声が耳元で愛していると囁く。それはどこまでも嘘なのに、誰も助けてくれないことを知っている。何を言っても許してくれないことも、相手が自分を引き裂きながら嗤うことも、ナリアシーアが幻で、これが現実なのだということも。
 不意に彼の手首がつかまれて乱暴に転がされ、関節がきしみ、エルシアンは痛みのあまりにうめき声を漏らす。低い声が微かに満足げに笑うのが聞こえる。
「放せ! 放して!」
 叫びながら身をよじろうとするのを上から絶対支配が押さえ込む。いや、自分は最初から怯えているのだ。怖くて怖くて身動きが思うように出来ない。体が震えのあまりにうまく動かない、もどかしくて苛立たしくて、何より悔しくて涙がこみあげてくる。
「愛してるならこんなこと──お願いだから、い、痛いのは、いや、いや、いや……」
 次第に朦朧としてくる意識の中で自分の唇から流れ出る哀願をエルシアンはぼんやりと聞いている。
「いや、いやだ、いやなんだ、お願い、」
 けれどそれが届く相手ではないとエルシアンは知っている。容赦のない力が彼の懇願を無視して体を乱暴に扱いだし、エルシアンはうめいた。
「お願いだから──」
 心ごと踏みつぶされるような痛みが脳天まで突き抜け、悲鳴を上げる。
「兄上!」
 自分の叫びが耳を裂いて、エルシアンは跳ね起きた。
 夜の静寂が耳鳴りになって痛い。心臓が早く、打ち切れてしまいそうなほど波打っている。
 頬をつたう何かに気付いてエルシアンは手をやり、自分が泣いていたことにやっと気付いた。指先が細かく痙攣していて、うまく涙をこそげとれない。
 震える身体を何とか動かして壁にもたれる。窓の外の景色はラストレア寮のもので、やっと現実に座った気がした。じっとりと汗のういた肌が気味悪かった。
 夏の夜のせいでないことは分かっていた。
「ここはラストレアだ、ラストレアなんだ、俺は大丈夫だ、もう大丈夫、寮だし、大丈夫……」
 言い聞かせるように口の中で繰り返し、エルシアンは目を閉じた。そうすると悪夢が再び脳裏に跳ねあがる。脳天を殴られたように身体がゆれて、寝台に倒れこむと急激に吐き気があがった。必死でやり過ごそうとしても、吐き気と震えは収まる気配がなかった。
「くそっ」
 苛立ちに枕を叩き、エルシアンは唇をかんだ。額に浮いた汗が耐え切れなくなったように一筋、落ちていった。
 手のひらでそれをぬぐって寝台に横たわったが、今夜は眠れそうにない。悪夢は確定的な気がして、目を閉じるのも怖かった。