群星の夜(3)/ 旧王国暦215年夏、ラストレア-3

 威圧されるほどの人格というものがこの世に存在することを、ケイは初めて知った。ほんの何時かほど、しかも直接会話したことなど数えるほどなのに、彼は圧倒的に君臨する者であることは明白だった。
 体格も良い。上背もあるが、筋肉質の引き締まった身体は望めばいくらでも楽の出来る環境にあってこれだけの努力が出来るということであり、即ちその意志の強さを一端で証明しているといえる。
 何よりも印象的なのはその双瞳であった。癇の強そうな、何にも曲がらない、真っ直ぐな光。積み重ねて作り上げた身体も今の地位もそれに付随し、全てを失ったとしても最後に残るのは彼自身の不屈の精神の力に違いなかった。
 そして自身の結果と未来に万全の自信と自負を抱いている。それが傲慢ではなく、畏怖されるほど自然なのは、結局は実力が備わっているからだろう。
 ケイは納得する。兄二人を差し置いて三男の、しかも側腹の彼が太子となったのは必然だったのだろう。
 彼の兄二人は共に正妃の子であるはずだった。特に暗愚だとか病がちだという話も聞かない。それに彼の母親は門閥貴族の出身ではなく、また彼が王太子に指名される前にひっそりと他界している。
 ──王太子アスファーンに初めて会った時の興奮を、ケイは生涯忘れられなかった。年老いてからの回想録にもそう述べている。
『私は圧倒的に人間が違うと感じた。彼ほど誇り高く、人の上に君臨するために生まれてきた人間を私は他に知らない。先帝陛下(回想録が書かれたのはエルシアンの死後おおよそ三十年ほど経過した後であり、当時の皇帝はエルシアンの遺児である景宗帝であった。そのため回想録ではエルシアンは先帝陛下と記述される)も人を従える術を生来持っておられたが、彼のそれは周囲を味方に巻き込んでゆく能力であられたように思う。しかし、アスファーン殿下は生まれながらの王であった』
 ケイは述懐しているが、エルシアンの性格の隙ともいえる脆弱な部分が、最終的に彼を玉座へと導いたことも否定し得ない事実である。
 アスファーンは緊張して凍りついたようになっているケイに優しく、しかしはっきりとした言葉でいくつか質問をしたらしい。何を聞いたのかは記録にはない。アスファーン自身の言行録は残っておらず、ケイのほうはといえば何を聞かれたかを緊張と興奮のあまりに殆ど忘れてしまったようだ。どんな印象であったかを回想録に書きとどめるだけになっている。
 ともかくも、無事に役目を終えて軽い疲労感と共にケイは寮舎へ引き上げた。新調した制服を丁寧にしまいこみ、軽装へ着替えて隣室の扉を叩く。のぞき窓から一瞬光がまたたき、すぐ内鍵が回って扉が開いた。
 ケイはかすかな違和感に眉をひそめる。普段は無用心とも言えるほど警戒心の薄い友人なのだ。部屋の鍵をかけているのを見るのは初めてだった。
「……お疲れ、ケイ」
 エルシアンが苦笑のような表情で言った。ケイは頷いた。朝から制服や髪や身だしなみというものを整えるのにかなり労力を裂き、ケイの苦慮苦闘にエルシアンが苦笑しながら手伝ってくれたのだ。
 今朝はありがとな、と言いながら部屋に入ると、普段の様子と少し違っていることにケイは気付いた。窓に雨戸が降りている。これもまた、ないことであった。
 どうしたんだ、とケイは聞いた。エルシアンが視線で問い返してくる。雨戸、とケイは言った。
「──何でもない」
 エルシアンの返答は一瞬鈍い。
「何でもないはずないだろ。どうしたんだ、これ」
 いいんだ、とエルシアンが回答にもならないことを言った。話したくないのだと分かった。少し様子がおかしいとケイは思う。
 彼の態度の変調のはしりを記憶の中から探しあて、エルス、と努めて穏やかで静かな声を出した。
「お前さ、王太子殿下と何かあったのか? この前から少しおかしいぞ」
 何気に口に出した言葉に、エルシアンが明らかに過剰に反応した。一瞬姿勢を伸ばし、探るような視線でケイを見て、別にと強く吐き捨てた。
「……俺はあいつが嫌いなんだ、それだけ」
 エルシアンの表情にかげりがさす。その尋常でない暗さにケイは驚く。嫌いといってもエルシアンのそれは大して根が深くない。根本、人間自体を好いているような人の善さがある──そう感じてきたこの半年を裏返すような影、深く絶望的な怯え。
 王太子アスファーンをエルシアンは嫌いなのではないとケイは悟った。エルシアンの「嫌い」はそれでも相手を許していて、根はそれほど深くない。
 許していないのは嫌悪以外の感情だからだ──後にケイはその理由を知り、嫌悪ではなく憎悪と恐怖であったことに愕然とするが、まだ先の話であった。
「あ、それよりご祝儀買って来てやったんだ、ほら」
 広がりかけた沈黙を振り払うようにエルシアンが大きく明るい声を出した。気遣わせているのが分かったから、ケイはエルシアンの視線の先を追って同じような声を出した。
「お、いい酒じゃん」
 ケイは下戸だが酒の味は分かる。量は入らないが上質の酒が嫌いなことは決してない。但しエルシアンが「底なしの井戸」であるからケイの祝儀といいながら九割はエルシアンに飲まれていくはずであった。
 けれどエルシアンが奮発してくれたことは嬉しかった。ありがとう、と言うと友人は照れたように笑った。
 二人は酒を飲む。エルシアンはこの夜やけに陽気で、ケイはエルシアンを変調させている何かが彼にとってどれだけ負荷なのかを思い、そして自分だけは彼のずっと味方でいようと思った。自分は本当に彼が好きなのだと気付くとやわらかくぬくい気持ちになって、そしてとても心地が良いのだった。
 ずっと友達だから。ずっと味方だから。それはケイにとって当然の未来であり、当然の結論だった。
 その前提を試される機会は思いもかけず早く訪れた。王太子の視察から僅かに二日、学院長からの突然の呼び出しはケイを不安にさせるには十分だった。
 自分では気が付かないうちに失礼をしてしまったのか、不興を買ったのか。不安だけが胸の中で膨らんで、呼吸さえ止まりそうだ。
 恐る恐る学院長の執務室を訪れると、学院長の他に理事長、学長に混じってアスファーンがおり、ケイは背筋を張り詰めるように伸ばした。座っているのはアスファーンだけであった。目にする度に圧倒するような空気を感じる。アスファーンの表情は穏やかで、どうやらきつい譴責や非難ではないことだけは分かった。
 アスファーンがケイに手で自分の横にくるよう促した。おそるおそる従うとアスファーンが立ち上がり、ケイの肩を軽く叩いた。
「ケイ……ケイ・ルーシェンといったな、確か」
 名前を覚えていてくださったとケイは感激する。はいと返答して、アスファーンの放つ光輝の眩しさから逃れるように目を伏せた。次に何を言われるのかと怯えながら待つケイの頭上で、運命を変える言葉がした。
「王都へ来ないか、ケイ・ルーシェン。王立中央学院への転入手続きをとってあげよう」
 少しの間、ケイはぽかんとしていた。
「無論、卒業まで自分の勉学に励むとして……卒業後は私の秘書官として太子府へ来てもらえたらと考えているのだが、何かもう決まった道があるかね?」
 いいえ、とぼんやりケイは返事をした。言葉の意味は分かるのに、内容が胸に落ちるまでに時間があった。
 ──驚愕はゆるやかにやってきた。何と言っていいのか分からない。脳裏が真っ白く塗りつぶされてしまったようで、呆然としていることしか出来なかった。
「殿下にお返事を、ケイ・ルーシェン」
 学院長の言葉にケイがはっと背を伸ばすと、アスファーンがよいのだというように苦笑した。
「突然のことでもあるし、彼にとっては大事なことであるから、ゆっくり考えさせるように。──ケイ、返事は今でなくてもかまわない。私は明日から国境地帯の視察に出るが、一週間ほどで戻ってこよう。それまでには返事を聞かせてほしい」
「あ、いえ、その、びっくりしただけで……王太子殿下のご厚情に心より感謝を申し上げます。あの、私でよければ喜んでお言葉に従います」
 そうか、とアスファーンが目を細くして笑う。ケイは頷きながら、今更興奮が駆け上がってくるのを感じた。
 アスファーンの秘書──つまり次王の秘書だ。雑事や文書の介助だけではなく政策上の試案や立法に深く食い込み、国政に強くかかわることが出来る……
 ケイはあまりのことに眩暈を覚える。想像することさえ非現実的だった華やかな未来、それが突然彼自分の目の前に現れたのだった。
「そうなると奴のことを話しておかなくてはならないな」
 アスファーンがふと真顔になった。
「法学の専攻生の中にエルシアンというのがいるはずだが、知っているか」
「はい、私も同じ専攻ですし、寮の部屋も隣で……仲良くしています」
 そうかとアスファーンはゆっくり頷く。これが何の話であるのかをケイは察し、どう反応しようか急いで考えを巡らせる。
「あれは私の弟でな。母親が違うから似てはいないが」
 アスファーンの言葉にケイは少し驚いたような表情を作って見せた。ケイはエルシアンが王子であることを知らないことになっているのだから、これでよいはずであった。
「奴と仲が良いならそなたと一緒に王都へ戻るように、奴を説得してくれまいか。皇太后陛下が奴の不在を寂しがってならぬ」
 ケイはあまり気乗りしない返事をした。学長がケイの名を叱るように呼んだが、それでも気持ちが前に進まないことはあるのだった。
 エルシアンが王都の生活のことを話したがらないのは、大して良い思い出ではなかったからだという確信がある。エルシアンは丁寧に自分の話を避けていたし、何かを話していても他愛のない一般論であった。それを知っているのに無理強いするなど、憂鬱以外の何物でもなかった。
 アスファーンはケイの思惑には気付かぬようにエルシアンを呼び出した。しばらくしてやってきたエルシアンを見て、ケイはどきりとした。血の気が引いて酷い顔色だった。ふて腐れたような声でお呼びに従い参上いたしましたと言うのにアスファーンが頷き、久しぶりだなと言った。
 エルシアンがケイをちらりと見た。ケイが頷いてみせると、王子である事を隠さなくとも良いのだとエルシアンも悟ったようだった。
 アスファーンは一度ケイを振り返り、視線で確認した。
「彼を王都へ連れて帰る」
 弾かれたようにエルシアンが顔をあげ、ケイを見た。
 ケイは頷いた。エルシアンの顔を一瞬煮えるような揺らぎがかすめ、すぐに沈静して元の不機嫌な表情に戻ったが、一度見てしまった黒い翳りは忘れることが出来なかった。それは彼の朗らかで柔らかな部分しか見たことの無かったケイにとって、十分衝撃的な表情だったのだ。
「よければ一緒に王都へ行かないか。俺、エルス──殿下が一緒に行ってくれたら嬉しいんだけど……」
 恐る恐るケイは切り出すが、エルシアンは彼の言葉など聞こえないように兄を激しく睨み据えていて、返答はない。
 エルシアンの回答を待つ居たたまれない沈黙が痛くなってきた頃、突然エルシアンが聞いたこともない言葉を話し出した。アスファーンだけが応答し、何かを答えているがこちらも分からない。
「エルス」
 ケイは声をかけた。エルシアンとアスファーンが何を喋っているのか、全く分からない。こちらに聞かせたくない話なら二人で話せばいいではないかと思った側から、ケイは不意に思い当たる。
 エルシアンの異常な態度とアスファーンに対する警戒は、二人で話す機会を与えそうになかった。アスファーンからの呼出しはもしかしたら既にあったかもしれないが、ならばエルシアンは断ったか、最悪は無視したはずであった。
 エルシアンがケイを見て、考えるなというように首を振った。アスファーンがすまないなと軽くケイに笑いかけたが、二人とも話をやめる気配はなかった。
 学長がケイの袖をつかんでこちらへ、と促した。異母兄弟で話さなくてはいけないことがあるのかと気を回したのだ。困惑したままのケイに、学長は宮廷雅語だなと呟いた。
 宮廷雅語という言葉なら聞いたことがあった。王宮、特に後宮で使われている言葉である。単語と接尾語の変化を主軸とし、単語の組合わせによる慣例的な言い回しなどを含めた言葉だ。
 ケイはこの日、初めて宮廷雅語を聞いた。この王子二人は後宮で生まれ育ったはずで、彼らにとっては母語ということになる。相当早口で何かを話しているが、彼らの会話の内容など分かるはずもなかった。
 ケイは初めてエルシアンが王族であることを実感した。回想録にもそう記録している。宮廷雅語の研究は、それが話し言葉であって記録されることがめったにないものであったこともあり、殆ど進んでいない。ケイの回想録によると語感にやや哀調を帯びた、濁りの少ない言葉であったようだ。解読することで精一杯の研究であるから、正確な発音については現在もまだ解明されていない。
 アスファーンとエルシアンは恐ろしく早口で話していたが、アスファーンが片手をあげてもういいと仕草したのが分かった。
「お前のことはよく分かった、エルシアンよ」
 声に微かにあきれたような色が混じりこんでいる。
「つまり──」
 そこから先はまた宮廷雅語であった。エルシアンが低くかすれた声で呟いた。雅語ではなかったから、ケイにも意味は分かった。
「俺はあんたが嫌いなんだよ」
 エルス、と声をかけるより早くエルシアンはアスファーンから飛びすさり、背を返そうとした。その腕をアスファーンが素早く掴み、エルシアンが離れようともがくのを簡単に御している。元からの腕力がまるで違う。絶望的に相手にならない。
「俺はあんたの言いなりにはならない、絶対にならない、王都にも絶対に帰らない、二度と、だ!」
 腕を掴む異母兄の手を何とかしようとエルシアンが必死に指をはがしにかかるのをアスファーンが手首を掴んで押さえ、一瞬置いてエルシアンが呻いた。握りこまれている手首が白く、指先が痙攣している。エルシアンの抵抗がじりじり萎れていくのが分かった。
「二人で話がしたい。席を外してもらえるか」
 アスファーンの低く良く通る声が言った。依頼の形をした命令であることは場の全員が理解していたし、否と言える人間などいなかった。学長たちと共に背を返すケイの耳にエルシアンの吐息が聞こえ、思わずケイは振り返った。
 途端、エルシアンと目が合った。何かを言いたげで、無理やり飲み込んでいるような苦く切羽詰った表情にケイは足を止める。何か言わなくてはと思うのに、言葉が何もない。けれど行かないで欲しいという声だけははっきり聞こえた気がしたから、ケイは一瞬迷って唇を開こうとした。
「ケイ・ルーシェン」
 それよりほんの僅かアスファーンが早かった。出鼻をくじかれて無言で頷いたケイに、アスファーンは優しく笑ってみせた。
「視察から戻ったら時間を作る。私はお前ともっと話すべきだと思うし、お前の話も聞きたいのだ──それでよいな」
 ケイは頷く。アスファーンが自分の話を聞きたいと言ったその言葉だけで胸が躍る。お願いします、と腰を折ったケイにエルシアンの微かな溜息が聞こえた。
 ケイがゆっくり閉める扉の細い視界の中、エルシアンがうなだれたまま窓際へ歩いていくのが見えた。
 一瞬、胸の中央がずきんとする。アスファーンの座る椅子から遠い場所へ行こうとするエルシアンの気落ちだけがよく分かった。
 流れで解散となった後、ケイは寮へ戻った。新調した制服を吊るし、友人から貰った茶を淹れて寝台へ腰を下ろす。
 熱い茶は美味しかった。漢氏ハンシが持ち込んだというこの茶は含むと僅かに蘭の花の香りがする。柔らかに力強い香りがようやく気持ちを落ち着けてくれるようで、ケイは長い溜息になった。
 去り際のエルシアンの目は何だったのだろう。行かないで欲しい、側にいて欲しいという声は耳にするより強く聞こえていたのに、立ち止まることしか出来なかった。
 ケイはエルシアンが好きだった。呼吸より自然に、彼もまた同じであることも信じていた。王子であることは後から知って驚きはしたが、身分よりも一緒にいてとても楽しいし、何よりも感性の方向がケイと似ている。話し込む時の真摯さ、打てば返る反応の早さ、そして滅多に他人を悪く言わない潔さ──
 いや、そんなものより何故か彼の周囲にきらめくように渦巻いている存在感の明るい輝きが、虹の光彩のように輝く瞬間を見たことがある。それは確かに幻なのに、エルシアンの回りにあっては空気の色を変える現実なのだ。
 それに惹かれるようにエルシアンの周辺はいつも友人たちで溢れていたし、彼は決して自分から進んで皆を引っ張っていく人間ではないはずなのに、いつの間にか彼を中心に自然に物事が進んでいくのだった。
 一体どうしてしまったんだろうとケイはいぶかしむ。今まで知っていたエルシアンがまるで違ってみえた。
 エルスは、とケイは吐息を漏らす。自分が王都へ行くのが気に入らないのだろうか。思う傍ら、そんなはずはないと否定する声がする。少なくともエルシアンは自分の持たないものに対して執着する性質たちではなかった。それにケイはいくら必死になっても秘書官から首席補佐官あたりへ出世できれば良いほうだが、エルシアンは機会が巡れば国王にもなれるはずである。
 やはり、とケイは嘆息する。王太子殿下付というのが気にくわないのだろう。嫌いだと言ったエルシアンの叫びが胸をよぎる。
 理性だけで判断するなら話は至極簡単で、返事をした通り王都へ行き、中央学院を卒業して王太子府へあがるべきだ。誰に相談してもそう言うだろうし、同じことを相談されたら自分もそう答えるとケイは思う。
 けれど、この迷いは何だろう。小さなささくれのような何かが心の中で引っかかって取れない。
 自分のために良い答えを分かっていながら思い切れない女々しさにケイはついに苦笑となった。
 エルシアンが帰ってきたら、とケイは思う。
 奴に気持ちを聞いてみようか。エルシアンが行くなと言ってくれれば行くのをやめてもいい。何故だか、彼と離れてはいけない気がする。
 嫌な予感、胸騒ぎ、どんな言葉でも良いからこの不安を言い当てて欲しかった。
 ケイは茶を含む。それはもうすっかりぬるくなっていて、とろりと胃の中へ落ちていった。