群星の夜(4)/ 旧王国暦215年夏、ラストレア4

 鏡に映る自分は何と酷い顔をしているのだろうとエルシアンは思った。蒼白、というのはこういう肌の色なのだろう。
(──何故……)
 異母兄アスファーンの事を考える時は、必ずその疑問が首をもたげる。何故、と呟いてからエルシアンは暗い溜息を漏らした。考えれば考えるほど、思考の間隙に落ち込むこともある。
 制服のスカーフを確かめ、上着のボタンをきちんとはめると制帽をかぶせて部屋を出る。特別室には既にアスファーンが来ており、傍らにケイが所在なさげに立っている。エルシアンが彼を見るとケイは俯いた。
「……お呼びに従い参上いたしました」
 投げやりに呟くと、アスファーンが頷いた。
「久しぶりだな、エルシアン」
 低い声が言った。エルシアンはちらりとケイを見、友が頷いたことで了解した。アスファーンの口から彼が王族であるということをケイに話したのだろう。
 アスファーンはケイを振り返り、笑って見せた。ケイの顔に赤みがさすのをエルシアンは苦々しく見つめる。
 この兄はいつもそうだ。すくむような覇気とその中にあるからこそ安息を感じるような笑顔。兄の実力に裏打ちされた太い微笑が誰もかれもを圧倒し、簡単に魅了していく。まして王族、実質上の副王とまで言われているこの兄に笑顔を向けられれば、嬉しいに決まっている……自分もそうだったから。
 エルシアンは異母兄弟との縁が薄かった。彼らからするとエルシアンなど兄弟とも思えないだろう。王が自分の子だと認めているだけで、母親も分からなければ後援の貴族もいないのだ。
 苛められた、というにはあまりにエルシアンは無視され、いないものとして扱われすぎていた。王子としての格は実際、飛び抜けた実力と実績を示さないうちはやはり母親の血筋によって決されるし、エルシアンは未だに学生で公職暦もないのだ。
 例外がアスファーンだった。彼だけが他の兄弟と同等にエルシアンを扱った。特別に可愛がって貰ったわけではない。そういう意味ではアスファーンは徹底して平等だった。
 だが、エルシアンには嬉しかった。それで十分だった。いつかこの人の役に立ちたかった。側で異母兄の光輝に埋まるようにいられたらどんなに幸福だろうと思っていた。エルシアンとて、この異母兄の発する空気に圧倒され、彼の直属の部下がそうであるように彼に心酔していた──あの、悪夢のような夜までは。
「彼を王都へ連れて帰る」
 アスファーンが言った。エルシアンは瞳を巡らして友を見た。ケイが心持ち上気した顔で頷いた。
 エルシアンは苦く唇を噛む。こうやってアスファーンは彼の持っている数少ないものを一つ一つ執拗とも言える丁寧さで奪っていくのだ。
「よければ一緒に王都へ行かないか。俺、エルス──殿下が一緒に行ってくれたら嬉しいんだけど……」
 ケイがおずおずと言った。エルシアンは兄とケイを交互に見比べ、アスファーンを睨んだが、兄のほうはそれを僅かに片頬で笑って流した。
 所在なくケイがうつむいている。エルシアンにもケイの微妙な居所のなさは分かっていたが、それよりも苛立ちを優先した。宮廷雅語がすぐ出てくる自分も嫌なものだ、とエルシアンは思いながら口を開いた。
「俺は絶対に王都には帰らない」
「……そうだろうな」
 苦笑気味にアスファーンが答える。では何故、という疑問が再び喉元までせり上がってきて、エルシアンは叫びだしそうになる。
 何故、こんなところまで来て何故、自分に執着するのだろう。アスファーンのことは何も分からない。いつから分からないのかだけが分かっている。
 エルス、という小さな呟きに似た呼びかけがした。今にも消え入りそうな、遠慮がちな声。その主をエルシアンはさらりと視線に入れ、ゆるく首を振った。ケイを巻きこみたくはなかった。
「王宮に帰っても何もない。中央学院では却って半端に身分が邪魔して何もさせて貰えないから俺はこっちへきたんだからな」
 アスファーンは軽く笑った。それがエルシアンの虚勢なのだと理解しているのだった。
「可愛げのなさは相変わらずだな、エルシアン。私としても、お前の勉学に励みたいという殊勝な心がけを否定をするわけではないのだよ」
「では何をしにいらしたんですか、兄上」
「お前を抱きに来た、とでも言えば満足か、異母弟おとうとよ」
 反射的に喉が鳴った。膝が震え出している。
「──俺はもうお前の言いなりになんか絶対にならない、絶対に、だ!」
 アスファーンはそれには答えずにただ唇で、声をたてずに笑った。俺は、と続けようとしたエルシアンの言葉の先をアスファーンは片手を挙げて制した。
「お前のことは良く判った、エルシアンよ。つまりは二度と王都、そして王宮に戻るつもりなど無いという訳か。だがお前のつもりとこちらの都合ではどちらが優先されるか考えてみたことはあるかね?」
 エルシアンは唇を噛み、吐き捨てた。
「俺はあんたが嫌いなんだよ」
 アスファーンから飛びすさり、
「俺はあんたの言いなりにはもうならない、絶対にならない、王都にも絶対に帰らない、二度と、だ!」
 そう叫んで身を翻した。駆け去ろうとした身体が腕を捕まれて急激に止まる。勢いで足がもつれそうになり、たたらを踏んだ。二の腕を掴む大きい手が容赦なく自分の身体を引き戻し、呼吸が止まりそうになる。
「すまないが」
 頭上で太い声が言った。
「二人で話がしたい。席を外してもらえるか」
 逆らう人間などいるはずがなかった。全員が揃って退室しようと背を返す。罠にかかったのだとエルシアンは唇を噛む。他人がいるから会っても大丈夫だと思った自分の甘さを見せつけられている気がした。
 思わず落とした吐息に、ふとケイが振り返った。ケイと視線があった。助けて欲しい、と口に出しかけてエルシアンは躊躇する。アスファーンとのことをケイに話すのには勇気がいる。だが、行って欲しくはない。
 迷うエルシアンの心を感じ取ったのか、ケイが立ち止まった。エルスと呟いたのが判った。どうしようかと迷った一瞬、学長がケイを促す。諦めたようにケイが俯き、心残りにエルシアンを見た。
 行って欲しくなかった。この部屋に他人がいなくなればアスファーンが自分を蹂躙するだろうという確信があった。とにかく何かの理由をつけてでもこの場に留まって貰おうとエルシアンは考える。だが、それよりもアスファーンの方が早かった。
「視察から戻ったら一度、時間を作ろう。私はお前ともっと話すべきだと思うし、お前の話も聞きたいのだ──それでよいな」
 はい、とケイが返答する。救いが無くなったことをエルシアンは悟った。ケイの足音が扉の向こうへ消える。
 エルシアンは異母兄から逃れるように窓辺に歩いた。扉の閉まる音がする。ケイの視線を背中に感じる。アスファーンが扉へちらりと視線をやった一瞬後に、重い音と共に扉が閉まった。それはひどく重く動かない音に聞こえた。
 アスファーンの苦笑がした。
「そんなに敵意をむき出されても周囲のものが困惑するだろうに、お前も分からない奴だ」
 エルシアンは聞こえなかったように窓の外の、ゆれる夏葉を見る。目を合わせることも口をきくことも、意地と恐怖のまざったもので縛られてしまったように出来ない。
「エルシアン」
 アスファーンも彼の様子に構う様子はなかった。
「ラストレアヘ転入するときのお前と皇太后陛下の約束を果たしてもらっていないな」
 エルシアンは顔を上げる。何故、アスファーンがそれを知っているのだろうと探るように異母兄を見た。
「誰から聞いたんだ」
 アスファーンは父上から、と簡単に答えた。
「長期の休暇には必ず帰る、と言ったそうだな」
「それはお祖母さまとの約束で、あんたとの約束じゃない。それに帰らない理由はちゃんと説明……」
 言いかけてエルシアンは言葉を飲み込んだ。アスファーンが立ち上がったのに反射的に腰が揺れる。
「つまり、脅えているわけだな」
 喉の奥のほうでアスファーンが笑っている。
 エルシアンの背がぞくりと粟立つ。脳天が殴られたように痺れ、アスファーンが一歩エルシアンへ踏み出した反射で一歩下がった。
 途端、桟に足をかけて転んでしまう。このままでは喰われるだけと分かっている兎の気分だった。
「立てるかね?」
 アスファーンの差し出した手をエルシアンは振り払い、窓桟にしがみつくように起き上がった。アスファーンがエルシアンの脇に手を入れ、体を支える。
 よせ、とエルシアンは叫んで身体をよじった。つれないな、とアスファーンが苦笑するのが聞こえた。
「俺に触るな、触るなったら!」
 構おうとするアスファーンの手を払いのけてエルシアンは叫んだが、それは殆どかすれた呼吸のようであった。くしゃくしゃと前髪がかき回されてエルシアンは顔を背ける。
しょうの悪い子だ、本当につれない。私がどれほどお前を愛しているのか、今更知らないとでも言うつもりなのか。王都であんなに愛し合ったことを忘れてしまったというなら、また教えなくてはいけないな」
「し、知らな……俺、お、俺は、そんなの、……あ」
 アスファーンの手が髪を滑ってうなじに触れた。
 瞬間、身体が反射的に逃れようと後ろへ飛びすさり、椅子で身を打ってエルシアンは呻き声をあげた。
 押し殺したアスファーンの笑い声がする。小刻みに震えがきて、末端の手足がもがれてしまったように動くことも難しかった。腕に力を入れると、肘から下の力が抜けたようにぐにゃりと沈み、エルシアンは椅子にしがみつく。腰から下が既にないようだ。
 肩に手がかかり、アスファーンがエルシアンを無理に振り向かせた。よじる背がひきつって痛い。
「私がここへ何をしに来たか、知っているか」
 低い声が耳元で囁いた。エルシアンは懸命に首を振る。エルシアンの返答を待たず、スカーフがささやかな衣ずれの音を立てて引き抜かれた。
 それをエルシアンは目で追う。それは音もなくふわりと床に沈み、広がって動かなくなった。
「あ、……いや、いや、」
 歯が鳴りやまない。唇もぶるぶると震えていて、うまく言葉が出ないのが自分でももどかしい。いやいやとゆるく首を振る仕草が甘えているようで激しい苛立ちと嫌悪を覚えたとき、すうっと身体が上へあがった。アスファーンが自分を抱き上げたのだと知ったのは一瞬後だった。
 長椅子へ放りだされ、肺が軋む。背を丸めようとしたのを無理に上向かせて上着にアスファーンの手が伸びた瞬間に視界が霞んだ。
 自分は泣いているのだとエルシアンは兄の手を掴む。滑り落ちてきたのは拒否ではなく、懇願だった。
「ゆ、ゆる、許し、て、……」
 無意識に近い場所から、兄の理不尽に抵抗するどころかすがりつく言葉が転がり落ちてくる。なぜ自分はこんなにも弱いのだろう。兄が側にいなければ気持ちを保とう、抵抗しようと思うのに、結局アスファーンの前に出ると意地も誇りも吹き飛ばされて、脅えるだけの草食くさはむ獣のようになってしまうのだ。
 どんなに自分を叱っても奮い立たせようとしても、自分はいつもそうだ。泣きながら許しを乞い、這いつくばり、兄の機嫌を伺い、踏みにじられる。
「ゆるして、……兄上、何でもするから、」
 絶え絶えにエルシアンは繰り返した。アスファーンがエルシアンの鎖骨を撫でながら低く笑った。
「お前が私に謝ることなど何もなかろう。悪いことなどしてはいないからな」
 エルシアンは返答の代わりに首を振った。
 決壊したように涙が止まらず、周囲がぼんやりとして見えない。少しでも兄から離れようとして身体をずりあげる。肩が掴まれて再び長椅子へと押し込めらる。その勢いで後頭部をひじ掛けへと打ち、声を上げるとアスファーンが苦笑したのが聞こえた。
「お前が痛い目に遭うのはお前が暴れるからだよ、エルシアン。従順におれば乱暴にはしないのに」
 違う、とエルシアンは首を振る。アスファーンに優しくして欲しいと望んだことはなかった。そんなことを、言わされることはあっても決して望んでいないことはアスファーンだって知っているはずなのに。
「こ、こんなこと、いや、いやなんだ、本当に、俺は」
 絞り出した声は真冬の夜のように凍え、歪んでいた。
 エルシアンの声を無視し、アスファーンはエルシアンの上着のボタンを丁寧に外し、肩から抜いて床へ落とした。乾いた音がした。
「ああ、ほら、靴を脱ぎなさい」
 命じられてエルシアンは反射で首を振る。掛け金と組紐の合わせには個人の癖が出るから、本人でないと脱ぎにくい。再びアスファーンが同じことを呟いた。嫌、とエルシアンは首を振った。
 乾いた音が頬を叩いた。一瞬おいて音のした部分が腫れるように熱くなり、ひりひりと痛んだ。エルシアンは喉で小さく悲鳴を上げた。小さな折檻が恐ろしく、けれどこれを拒み続ければ、果てには更に強い暴力が自分を襲うことを既に知っていて、全てがただひたすらに恐ろしかった。
「私は、靴を脱げ、と言った。聞こえなかったか?」
 声の温度を下げてアスファーンが言った。エルシアンはぎこちなく頷いて皮紐に手を掛けた。足を解放すると兄が良い子だと微笑んで、左足首を掴み長椅子の背にかけさせた。シャツをたくしあげ、今までの無聊を確かめるように手が自分の直肌を撫でる。
 エルシアンは震えながらじっと顔を背けて唇を結んでいる。体中が痺れたように無感覚になり、腰から下は凍りついているようだ。ゆっくり体重をかけてきた兄の身体は密度高くて重く、エルシアンは逃れようと身をよじるが、固定されたように動かなかった。
「いや、いや、兄上……やめて、お願い、許して」
 泣きながら自分が必死で取りすがるのををエルシアンはどこか他人事のように見つめている。
 いつも同じだ。二人になると竦みきって何もできなくなってしまう。身体が動かない。恐怖と苦痛を僅かにでも甘減させるためになら何でもする。
 ああ、とエルシアンは喘いだ。涙がこぼれた。霞む視界から恐る恐る兄を見上げると、薄笑いを浮かべながらアスファーンが言った。
「そんなに泣かなくてもいい、可愛い子だ。それとも久しぶりに私に逢えて、嬉しすぎてたがが外れてしまったかね? ならば私は喜んでお前を可愛がってやらねばならぬ」
 機嫌が良いとエルシアンは思い、異母兄の機嫌を窺っていると気付かぬ振りをするために目を閉じる。
 自分は今まさに喰われるのだ。生きながら、悲鳴を上げながら、兄の悦楽のためだけに。
 ──どれだけ時間がたったの分からない頃、エルシアンはふと目を開けた。既に自分の上にアスファーンはいない。軋む身体を起こすと芯が鈍く痛んだ。
「起きたか」
 アスファーンの声がして、エルシアンはびくりと身を震わせた。アスファーンは応接室の窓際に立っており、床に放り出されたままのエルシアンの上着とスカーフを投げてよこした。
 エルシアンは手早くそれを身に付けた。少なくとも今はアスファーンが自分を良いようにする気がないことは分かった。ブーツをどうにかひっかけ、エルシアンはよろよろと扉へ踏み出した。
「ああ、待ちなさい」
 呼び止められてエルシアンは立ちすくんだ。
「私がここへ何をしに来たか、答えを聞いていない」
「……分かりません」
 エルシアンは呟いた。本当に分からなかった。
 アスファーンは誰に対しても平等で公正だった。誰かを嫌うことも、激しく寵愛することも聞いたことがなかった。気に入っている部下はいるようだが、それも能力ゆえのことだと理解できる範疇のものだ。
 それにアスファーンに何か粗相をした覚えはエルシアンにはなかった。そんなことをするはずがなかった。
 自分は兄を好きだった。毎日側にいて何かをするような接点はなかったが、むしろそうなりたくてなりたくて、必死で勉学に努めていたし時折自分に兄が何かを取り分けたり教えようとしてくれることは、どんなことでもこぼさないように全身で聞いていた。
後援門閥を頼れないのはアスファーンとて同じだが、それを問題としないほど飛び抜けた資質と努力で王太子争いに勝ち、後継者として指名された兄をどうやって憧れないで済むのだろう。
 エルシアンは少年期の初めにそれを見た。彼と同じ境遇の兄の仕業しわざ一つ一つが自分のことのように嬉しく誇らしかったし、素直にアスファーンを尊敬していた。自分をまともに扱ってくれる唯一の兄を好きだった。
 敬意と兄弟としての情の混じったものを異母兄に抱きながらエルシアンはひたすらアスファーンを見つめていた。彼は少年時代の指針であり、畢竟すなわち目標であり、強い憧憬の対象であった。
 それにアスファーンの中核は折れない魂と鋼鉄の意志で、自分に欠けた資質だと理解しているから尚更眩しい。
 単に憧れと表現してしまうより、遥かに強い感情が自分の背を伸ばさせ、アスファーンにじっと視線を当て続けていた。あまりに強いものだから自分でも少し恥ずかしく、兄が自分を煩わしく思ったり負担に感じたりしないようにさえ、気を遣っていた──そのはずだったのに何故こうなってしまったのか、自分のほうこそ知りたかった。
 分からないか、とアスファーンがエルシアンの言葉を繰り返した。アスファーンが上着の内側へ手を入れ、封筒をつかみ出す。差し出された封筒を受け取り、エルシアンは署名を見て小さく呟いた。
「皇太后さま……」
「渡して欲しいと頼まれたのでな。預かってきた」
 エルシアンは顔を上げる。
「用事ってのは、これか」
 アスファーンが簡単に頷いた。頭に血が上る。手紙を手に感情のまま異母兄を睨むが、アスファーンは大して感慨もなく、確かに渡したからなと流し、もう行けと手を払った。
「……何故」
 エルシアンは声を絞り出した。アスファーンはちらりとエルシアンに一瞥を与え、すぐ視線を窓に戻した。
「何故、俺をこんな……こんなこと……」
 エルシアンは言い澱む。それが事実とはいえ、口に出し難いことは確かに存在した。
「お前を愛している、と前にも言ったと思うが?」
「嘘だ! 兄上、俺は嘘を聞きたいんじゃない!」
 それは理屈で理解することではなかったし、まして言葉だけを鵜呑みになど出来なかった。アスファーンが自分のことを愛していない事ぐらい分かる。
「では、憎んでいる、ということにしよう」
 薄く笑いながらアスファーンが言った。
「愛情と憎しみは同じものだと昔から言うからな。それで答えになるだろうか、エルシアン……憎くて愛しい私の異母弟おとうと
 エルシアンは奥歯をきつく噛んだ。胸の中を渦巻いて上ってくるものがある。
「俺は絶対に認めない」
 吐き捨てた台詞にアスファーンが鼻で笑った。
「お前からいつになったら愛を聞けるのだろうな」
 何か言おうとエルシアンが唇を震わせた一瞬、アスファーンは素早くエルシアンの正面へ立った。
 はっと身をすくめるより早く、兄が右の耳柔を甘く噛んでエルシアンは呻く。反射的に膝が震える。
「いや……」
 声が裏返る。四肢から瞬間に力が抜けて後ろへ倒れる。その腰ヘアスファーンの腕が回って抱きとめられ、そのまま床へ押し倒された。エルシアンの髪にアスファーンの手が差し入れられる。ゆったりとかき回される髪が首に当たってむず痒い。
「やめて……お願いだから……」
 再び上がってきた涙で景色が歪む。すすり泣きが歯の間から漏れる。動けない。アスファーンが身体を離し、次の瞬間、密やかに笑い出した。
 半身をよろよろ起こしてエルシアンは兄を見る。ようやくからかわれたのだと気付くと、手の甲であふれた涙をこすり取り、未だに震えの残る足で跳ね上がって逃げ出した。
 学院の本館を飛び出すと既に黄昏の時間だった。上空は遥かに青く、地平は赤く燃えている。薄暗さにエルシアンは多少足を取られながら全力で寮の階段を駆け上がり、部屋に飛び込んで内鍵を回した。
 小さな金属音がして鍵がかかった。その小さな音が何倍も大きく聞こえる。それが今は自分を何よりも守ってくれる音なのだった。
 深く溜息をつく。そっと雨戸をわずかに開けて、下に誰もいないのを確かめ、エルシアンは溜息になった。
 ──分かっている。アスファーンは追ってはこないだろう。それでも確かめずにいられない。そうでないと部屋にいても、鍵をかけても落ち着くことが出来ないだろうと自分で分かった。
 突然、扉が鳴った。驚愕で一瞬身体が固まる。足音を立てずに扉に近づき、そっと覗き窓の隙間から外を窺うと、同じ年くらいの少年がたたずんでいた。
 安堵のために一呼吸おいて鍵をはずし、扉を開けるとケイがほっとした顔でわずかに笑った。無言でエルシアンは俯いた。ケイが部屋へ踏み込む。
「おかえり、……遅かったな」
 言いながらケイは手にした蝋燭ろうそくの火をエルシアンのランプに移した。寮では夕方近くに各部屋へ灯火が配られる。丁度その時間にいなかったのを気遣って、ケイが火を分けてくれたのだ。
「ちょっと、な」
 ぼそぼそ語尾をごまかしていると、ケイが何かに気付いて首をかしげた。
「それは?」
 言われてエルシアンはケイの指さす先の、上着に無理に突っ込んだままの手紙を引き出した。
「ああ、手紙……これ、貰ったんだった……」
 エルシアンは言いながらくしゃくしゃになってしまった封筒を丁寧にのばした。ふうん、とケイがエルシアンの手元をのぞき込み、いたずらっぽい声をあげて小さく笑う。
「これ、彼女?」
 封筒の署名が女性名なのに気付いたのだろう。エルシアンは苦笑する。そんなのじゃないよと軽く答え、皇太后様から、と付け加えるとケイが目を丸くした。
 エルシアンが王子であることも感覚的に理解していない上に皇太后と言われても雲の上にしか思えないのだろう。それでも何とか整理をつけたように頷いて言った。
「……じゃ、お前のお祖母さんってこと、か」
「いいや、直接の血縁はないんだ」
 ケイが眉根をよせる。エルシアンは再び苦笑した。
 エルシアンの父は紛れもなく現国王カルシェード三世である。母をエルシアンは知らないが、父は自分を息子だと認知して王宮に部屋を与え、生活一切を保証しているのだから不足はない。……皇太后エレイナと父カルシェード三世が他人なのだった。
 エレイナ自身の子は二人。息子は二十年以上前に他界し、娘は大公家へ嫁下している。
 滅多に生母エレイナに顔を見せない大公妃であり、エルシアンも実際には会ったことがなかった。時々大公家の紋の入った菓子などがエレイナから振る舞われるから、来てはいるのだろう。特段会いたいこともなかったし、あちらにも自分は他人である。
 カルシェード三世は前国王の長男で皇太后エレイナ、当時の皇后の子が死んだ後に王太子に指名され即位した。だからエルシアンの祖母ならば皇太后ではなく現国王の母ということになる。もう故人であるし、そうでなくても殆ど関わりはなかったが。
 そのようなことをエルシアンはざっと説明した。
「結構複雑なんだな」
「正妃の他にたいてい皆、五、六人は妃がいるしな」
 エルシアンは肩をすくめる。自分もいつかそうなるのかと思う傍ら、それはないとも思う。妃といっても大概は貴族の娘で、王家と深い関わりを持つために送り込まれてくるものなのだ。アスファーンも正妃は決定していないが、妃は既に八人がいる。
 そこでエルシアンの思考はまた元に戻る。何故、自分を追い回すのだろう。
(愛している、と言った)
(では、憎んでいることにしよう)
 アスファーンの言葉が耳裏によみがえる。
 何故。エルシアンはじっと俯く。自分は一体兄に何をしたというのだろう。アスファーンの自分に対する態度の急転を今でも夢だと思いたいし、現実だと思いたくもない。
 けれど一年前の長い夜から自分は黒い箱の中にいて、それはひどく頑丈に出来ている。叩いても叫んでも、誰も助けてくれない。ようやくそこを出たと思っていたのに内側の小さな箱を抜けただけで、もう一つ大きな檻があったことなど、どうして気付くのだろう。
 むしろ内側の箱から逃げた、ことを理由になぶられることを思うとぞっと背が冷える……
 アスファーンの噛んだ右耳が熱い。エルシアンはそこへ触れ、床を睨んだ。
「王太子殿下のことなんだけどさ」
 突然ケイの声が飛び込んできてエルシアンは現実に引き戻される。先刻までのことが不意に戻ってきて、後ろへよろよろと下がった。膝に力が入らない。
 エルス、とケイが不思議そうな声を出した。何でもない、と言おうとして歯が鳴っているのにエルシアンは気付く。動揺していると分かっているのに、震えを止められない。
 ケイは驚いていたが、大丈夫か、と手を差し出した。その手を取ろうとして手をのばし、指先が触れた瞬間だった。──ランプの仄暗い灯火がケイを背中から照らしている。ケイの亜麻色の髪が影になって漆黒の闇の色へ変わるように見え、エルシアンの瞳に残像がぽつりと甦った。
 喉で悲鳴を殺して動けなくなったエルシアンを、ケイがのぞき込んだ。
「……どうかしたのか、エルス?」
 ケイがエルシアンの肩を掴んだ。僅かにアスファーンの指先の感覚が肌を伝う。瞬間、吐き気に似た眩暈が襲って、エルシアンは思い切り振り払った。
「俺に触るな!」
 乱暴に振りほどいてからエルシアンはそれがケイであったことに気付き、謝ろうと唇を開く。
 開いて、……だが、何も出てこない。金縛られたように唇が少しも動かない。喉からかすれた息が上がってくるが、言葉にはならなかった。
 ケイがきょとんとエルシアンを見た。怒鳴られたことが理解できない様子だった。
 沈黙の後、ぼんやりとした声でケイがごめん、と言った。再び沈黙が部屋を包み込んだ。ランプの光の揺らめきだけが瞬き、外の風に揺れる枝の音だけがする。
 長いような時間、先に根を上げたのはケイだった。
「あの……王太子殿下となにか……」
「何でもない!」
 間髪入れずにエルシアンは叫んだ。胸に黒い霧が拡がっていくのが分かる。他人には絶対に知られたくなかった。エルシアンの勢いにケイはたじろいだが、引き下がらない。彼も意地になる方なのだった。
「でも、ちょっとお前変だよ。俺でよければ話を」
「何でもないったら!」
 言いかけのケイの言葉を、強引に断ち切ってエルシアンは叫ぶ。何があってもケイに知られたくない。
 自分はアスファーンの愛人だとでも言えというのだろうか。口に出すと認めてしまったようで怖い。でも、とケイが口を開く。エルシアンは遮って怒鳴った。
「何でもないって言ってるだろ!」
「お前は王太子殿下の事が嫌いなんだな、それは分かった。でもそれがどうしてだか少しも分かんないし、俺には殿下がお前のことをそれなりに気にかけてくれてるとしか思えないから、だからさ」
 失笑にエルシアンは頬を歪めた。
「気にかけてくれてる、だって? ケイはあいつの正体なんか知らないくせに!」
 正体、とケイが呟く。
 エルシアンは口をつぐむ。何でもないと慌てて打ち消しはしたが、ケイが納得するはずもなかった。
「何でもないってことがあるかよ」
「俺が何でもないって言ったら何でもないんだよ!」
 不意に記憶が蘇ってエルシアンは喉で呻いた。
 最初、それは恐怖として始まる。恐くて恐くて逃げようとしても、脅えが体を支配する。許しを請い、泣きわめいて哀願し、苦痛から少しでも逃れるために何でも言うことを聞き、結局何も聞き入れられずアスファーンの思うまま、屈辱と苦痛をたたき込まれるのだ。体中がばらばらになって壊れてしまいそうだ。
 終わったと思っていた、逃げてよかったと安堵していた、のに、──追ってきた、ラストレアまで。
「いやだ……兄上が……俺は、俺は、嫌いだ、畜生」
 エルシアンは耳を両手で塞いだ。目裏にアスファーンの笑みが甦り、吐き気をやっと飲み込む。
「おい、大丈夫か」
 ケイが恐る恐るエルシアンの肩を叩いた。
 エルシアンは悲鳴を上げた。いきなり肩に置かれた手に恐慌し、その腕の先を思い切りつき飛ばした。あっけないほどの軽さでそれは後ろへ弾き飛ばされた。
 エルシアンは勢いで自らも二歩ほど下がる。机に体をぶつけながらも怒鳴った。
「出ていけ!」
 一度出ると止まらなくなった。
「出ていけ、ここは俺の部屋だ! 出ていけよ!」
 静まり返った部屋の中、扉に近い位置で、身じろぎする人の気配がある。こちらへ来るのかとエルシアンは身を硬くした。
 眼前がぼんやりする。自分はまた泣いているのだ。足音がただ恐ろしく、エルシアンは机にしがみついた。竦み上がった下肢は既に役に立たない。
 だが足音は静かに扉に向かって数歩ゆき、柔らかにごめんという声がして扉の閉まる音がした。
 エルシアンは何とか立ち上がり、震えでままならない手で鍵をかけた。鍵の回る音でようやく安堵し、ずるずると座り込む。止まらない涙をしばらく手で拭っているとやっと呼吸が平穏に戻り、ようやくケイのことを思い出して唇をゆがめた。
 ケイ、と呟く。心配してくれたのだろう。何故なら自分も同じことをするだろうからだ。お互いが鏡であることをエルシアンは理解している。
 ケイに酷いことをしてしまったとエルシアンは溜息になった。身体に触れられることに異常に過敏になっているのが自分で分かった。だがケイのせいではない。話せないことが多いとはいえ、振り払ってしまったことは謝らないといけなかった。
 扉に手をかけ、そしてエルシアンは溜息になる。呼吸は戻りかけているが涙は止まらない。こんな泣き顔を見せるのは恥ずかしかったし、まだ動揺の最中にあってかっとなれば何を言うのかも分からなかった。
 迷ってエルシアンは立ちつくし、やがて寝台に腰を下ろして枕に顔を押し当てた。低い嗚咽が部屋にこぼれた。