群星の夜(5)/ 旧王国暦215年夏、ラストレア5

 ケイは肩を押さえた。少し打っただけで大したことはなく、痛みは既に消えている。
 そこに触るのは肩に残ったエルシアンの腕力を思い出すためだ。彼は元来ずば抜けた腕力のある方ではない。けれど瞬間、加減を忘れてケイを突き飛ばしたことは分かった。
 無理強いをしたのだろうか、とケイは沈む。そんなつもりではなかった、一人で何もかも抱え込むより誰かに話すだけでも楽になることがあるだろうと思っただけなのに。
 何かあるのではという疑念は確信に変わった。過剰なエルシアンの反応が何より強い証左だ。エルシアンが突き飛ばしたのは自分ではなくアスファーンなのだろう。考えなくても良かった。
 アスファーンとエルシアンの間にある亀裂の種類は分からないが、それが底無しに深いのだとは知ることが出来た。ケイがアスファーンに漠然とした不安と疑問を抱いたのはこのときが最初だ。──やがてケイは真実を知り自分の予感の正確さに驚くことになるが、それはまだ先の話である。
 夕食を告げる手鈴が廊下に鳴り始めた。かん高い澄んだ音が響いている。もうそんな時間かとケイは腰を上げる。
 ランプの炎を最小に絞るのは、灯油を節約するためだ。いつものように壁を叩こうとして拳をあげ、ケイは苦笑した。既に習慣になっている隣の友人を誘うときの合図を今はする気になれなかったし、あの様子では食事などおぼつかないだろう。
 立ち上がり、受給手帳を持って一階の食堂へ向かっていると、どこから聞いてきたのか、口々におめでとうと寮生たちから祝福の声が降り、肩が親しみに叩かれ、食堂へ入ると拍手と歓声が上がった。
「ケイ、今日はこっちに座れ」
 奥の席から呼ばれてケイはそちらへ歩く。食卓の一番上席に通されるが、そこは寮長の席のはずだった。戸惑って寮長を見上げると、彼は笑っている。漢氏ハンシ特有の黄味がかった肌が灯火に暖かい。寮長のイ・ハイフォンが全員をまとめ、席に着かせて咳払いをした。
「もう皆知っていると思うが、ケイ・ルーシェンは素晴らしい幸運に恵まれて、王太子殿下のお声掛かりで王都の中央学院に転出することになった。将来は首席参謀か、それとも政事参議官か……頼むから頑張ってくれよ、ケイ。ラストレアの学院の希望と意地を見せてやってくれ──我々の友の未来に乾杯を。……皆、いいか」
 乾杯、と音頭がとられてケイは照れながらも唱和した。寮だから酒ではないが、心の有り様なのだ。
 明るい笑い声が響く。ケイも笑顔を返す。煮込み料理のスープをすくって口に入れると柔らかな味が広がり、暖かいものがゆっくりと嘸下していった。
 胃の辺りに温もりが灯ってケイは一息をゆっくりとつく。やっと身体の底からじんわりとした実感が湧いてきて、ケイは吐息を漏らした。
「どうしたんだよ」
 ハイフォンがケイの額をつつく。寮長といってもケイと同級生で、最高学年である五回生だ。
「なんだかそんなに嬉しそうじゃないな、どうした」
「いや……やっと実感が湧いてきたっていうか……なんだか少し、ぼんやりして」
 エルシアンのことで戸惑っているが、基本的には素直に喜ぶことなのだとケイは思う。ならば、この心に残る一つまみのやりきれなさはどう処理するべきなのだろう。
「今日はお前の相棒はどうしたんだろうな」
 ハイフォンが呟いた。エルシアンのことだ。ケイと仲が良いのを誰もが知っている。ケイが口を開こうとした矢先、寮生が一人立ち上がる。
「呼んでくるよ。あいつ、昼から出かけてたから、ケイのこの話だって知らないんじゃないのか」
「このままじゃ喰いっぱぐれるしな、いやお前じゃなくて、一回生に行かせればいいだろ」
 適当に声をかけられた下級生が足早に食堂を出ようとするのを慌ててケイは止める。エルシアンは少し放っておいてやるのが良さそうだった。
「あいつ、気分が悪いんだって。さっき話したんだ」
 嘘をつく後ろめたさをケイは殊更笑ってみせる。立ち上がった下級生が席に戻る。誰かがぽつんと言った。
「エルシアンって不思議な奴だな、考えてみれば」
「不思議ってなんだよ」
 友人たちの声が苦笑にさざめいた。
「俺、今日奴が出かけるの見たけど、制服だったし」
「誰か面会だったんじゃないの?」
 面会には学院本館の面談室を使用するのが規則で、学院へ行くからには制服でなければならない。
「面会って、家族だろ。家族に会うのに制服かよ」
 ああそういえば、と静かにざわめきが広がっていく。逆に言えば家族でもそれ以外の面会でも許可制をみな面倒がっており、あらかじめ手紙などで打ち合わせてどこか外で会うのが普通だ。
「あいつから家族の話聞いたことあるの、誰かいるか」
 そういえば、と次々に寮生が口を開くのをケイは呆然と眺めている。今更噂など、どうしようというのだろう。
「王都からの転入ってのも、珍しいよな。……中央へ行く理由は有るだろうけど、地方へわざわざ来る理由ってのは何だろう」
「それって家族の転居とで……あ、寮生か……」
 ざわざわと食堂がゆれる。さざめきの中で勝手にその話が始まって、どうしよう、とケイが周囲を見渡していると、
「よせよ」
 低すぎず高すぎない、よく通る声が言った。それは言葉と言葉の端々をきれいに通り抜けてその場にいた全員に届いた。ケイが隣を見ると、ハイフォンが呆れたようにスープの皿をつつき回していた。
「よせよ、本人のいないところで噂は良くない。奴は俺たちの仲間で友人だ、それだけで何か悪い」
 しっかりとした声音が諭すでもなく言うと、ばつの悪そうな沈黙が訪れた。ケイは頷く。
「ハイフォンの言う通りだ。俺は奴の家族がどうこうで奴とつるんでるわけじゃない。それは皆だって同じだろ」
 ハイフォンがちらりとケイを見て微笑した。
「さて。今、尻馬にのった奴、立て……お前ら、公共の場で公平でないことをした罰に、明日のランプ掃除を申し付ける。寮内の処罰を一任された寮長の権限で決定、以上、質問のある者は挙手」
 無言ということは、了承である。きれいに形をつけて収めてしまったハイフォンにケイは笑ってみせる。
「ま、それはいいとしてさ。俺が王都に行く前にどこか外でぱぁーっとやろうよ、ぱぁーっと。もちろん、みんなで俺におごってくれるんだろう?」
「そんなことは飲めるようになってから言え、蟻がすするくらいしか入らないくせに」
それは事実だからケイは笑って見せる。飲み会はいつも同じ事になる。みな知っているはずだ。
「いつものように俺の分は全部エルスが飲んでくれるんだから、安心していくらでも注いでくれていいんだよ?」
 馬にやる気かと笑ってハイフォンがケイの肩を小突いた。鈍い痛みが肩を押し、胸を刺した。表情が陰ったようにケイは思い、振り切るように満面に笑みを浮かべた。
 穏やかな空気が戻ってきて、ケイは安堵する。祝福の言葉が降りそそがれて、ありがとうと返す言葉に偽りはない。皆が何の打算もなくケイの幸運を喜んでくれ、祝ってくれているのは素直に嬉しい。
 自分の胸の奥にある小さな染みを説明することは難しく、誰かに訴えても些細なことだと言われるだろうとケイは思う。けれど振り返るような心残りを振り切れない。が、一度行くと返事をしたものを今更気が進まないで断ることは更に難しかった。
 まして相手は王太子である。自分一人だけの問題ではなく、ラストレアの学院の名誉という曖昧で強いものが自分の王都行きには付随しているのだ。エルシアンの異変とその曖昧な闇によって撤回するには事態はいささか大きい。
 食事の終わりを告げる手鈴が鳴った。部屋へ引き上げようとするケイにハイフォンが言った。
「エルシアン、気分が悪いって言ったか。何も食べないのは良くないな、俺の予備の食券切るからパンぐらいは持っていってやれよ」
 ケイは生返事を返した。今はエルシアンの顔を見辛い。ハイフォンがケイを不思議そうに覗き込んだ。
「どうしたんだ、奴と喧嘩でもしたのか」
 それはまさしく図星だったから、ケイは何も言えずに赤面する。ハイフォンは小さく笑い声を立てた。
「仕方のない奴らだな……あ、君、ちょっと」
 通りすがりの下級生を捕まえ、ケイに頼んだ用事をハイフォンは言いつける。はい、と下級生が頷いてハイフォンから予備券を受け取り、厨房へと走っていく。
 俺も行く、と声を上げながら何人かがその後を追っていった。うんとあっためて、という声が聞こえる。
 ケイはその後ろ姿を微笑ましく見送る。エルシアンは年を問わず寮生の中では本当に人気があるのだ。下級生は特に憧れもあるのだろう。
 話が好きで社交的、成績も悪くない。科目によっては非常に優秀で、かといって寝る間も惜しんで勉強しているような張りつめた感じもなかった。
 軽やかな、という形容詞をケイは思い出す。自由に奔放に学院と寮の生活を楽しんでいるとケイは思っていた。だから、とケイは思う。──だからあんなに沈んでいるエルシアンに自分は動揺するのだろう……
「ケイ、俺の部屋で少し茶でも飲まないか」
 階段を上りながらハイフォンが言う。ハイフォンはケイと同じく酒が強くない。ケイは酒自体を嫌いではないが、ハイフォンは殆ど飲まなかった。
 その代わり彼は無類の茶道楽である。本棚は茶缶で埋もれており、淹れ方も何か特別なことがあるのかハイフォンのいれる茶は美味しかった。
「喜んでご相伴しますとも」
 ケイの顔がほころぶ。ケイが時々飲んでいる茶もこのハイフォンから貰ったものだった。何度試してもハイフォンのようには上手く淹れられないのだけれど。
 ケイと同じような個室ヘあがりこむ。ケイの個室は成績による褒賞待遇で、ハイフォンのは寮長の細かな事務仕事のためのものだ。だから少々広い。
 勧められるまま椅子へ落ち着き、茶を沸かすハイフォンの手つきを眺めた。暫く茶談義が続く。ハイフォンは産地や品種、摘み取りの時期などの差による銘柄の違いをさらさらと話す。詳しいな、とケイの感嘆の呟きに、ハイフォンは照れくさそうに笑った。
「……親父は後を継げって言って俺を学問の道に放り込んだけど、俺、茶商になりたいんだよな」
 そう、とケイは相づちをうった。ハイフォンの父親は地理学者であった。幼い頃から地理書編纂と測量のために国内を放浪していた父親について彼自身も各地を回っていたのだが、そのとき土地の名産茶に魅せられたのだと語りながらハイフォンはケイに茶のカップを渡した。ふんわりと金木犀の香りがした。
「ともあれ、おめでとう、ケイ・ルーシェン」
 ハイフォンがカップを掲げた。ケイは頷きながらカップ同士を軽く打ち合わせた。
「メリファ、っていうんだ。メルリィあたりで作ってる。あっちでは何かのお祝いのときに飲むんだ」
 特別な茶なのを知ってケイは慌てて礼を言った。いいよとハイフォンが苦笑したとき、扉が叩かれた。ハイフォンが声をかけると遠慮がちに扉が開き、先刻彼が用事を言いつけた下級生が二人、顔を出した。
「お、ご苦労さん」
 だが下級生は首を振って籠を差し出した。
「あの、……要らないって言われて、なんだかすごく気分悪そうだったし、これ、どうしましょうか」
 小さくケイは溜息をついた。普段は受取りもしないなどということは無い。要らなくても一度受け取ってから処分するのが普段のエルシアンなのだ。
「俺が後で持って行くよ。ありがとう」
 ケイがそう言うと、いいえ、と下級生は籠をおいて去っていく。仕方ないなぁと口先では言いながら、それでもエルシアンの部屋を訪ねる口実を得て、ケイは胸のどこかがほっと息をつくのを聞いた。
 籠を覗いてケイはつい苦笑になる。スープは冷めないように蓋付きの深皿に入れられて綿の入った布で厳重にくるまれており、パンはやはり温められて夕食には無かったチーズと果物が添えられている。
 慕われているのだとケイは思う。エルシアンの気性の良さは下級生にも垣根を作らない。だからさっき見てしまったエルシアンの暗い目つきは、決して知りたくはなかった彼の一面であったかも知れなかった。
「本当、エルシアンって不思議な奴だよなあ……」
 同じく寵の中の豪勢なおまけに目を留めてハイフォンが呟いた。それは階下で耳にした揶揄や勘ぐりとは全く違う暖かみに溢れた呟きだったから、ケイも自然に先を促すことができた。
「目立とうとしてるわけでもないし、進んで仕切り出す野郎でもない。でも気付くといつも中心にいる……俺なんか本当は寮長とか人の上に立つ柄じゃないんだ。嫉妬じゃなく、ただ素直に奴の天性の才能に感服する」
 才能、という言葉にケイはああ、と頷いた。そういう言い方もあったのだとこの場で知った。
「エルシアンは意識してやってることじゃないんだろうな。でも自然にできるということを俺は心底すごいと思う」
 ハイフォンはそう言うとカップを口につけた。カップを僅かに揺らすと琥珀と金の中間の色がほむらの影を白い磁器の底に映して揺れた。
「……正直な話をしようか、ケイ」
 ハイフォンがぽつんと言った。
「さっき、食堂でエルシアンの話が出たろう。……俺は同じことを勘ぐったことがある」
 ハイフォンが細く長い溜息をついた。
「俺、一応寮長だから手紙の振り分けもするけど、あいつの所に手紙なんか来たことがない。面会の申し込みもない。でも学費はきちんと送られてくるし、あいつが金に困ってるわけじゃないのは分かる」
 ケイはぎこちなく頷いた。
「でもさっきは止めたじゃないか」
「自分の不純さを凝縮して見せられたような気がして、さ。自分の見たくない部分ってあるだろう」
 そうだけど、とケイは曖昧に頷きながら強く言った。
「それでも君は皆を止めた。動機がどうあれ、俺はそれを立派だと思うし、尊敬するよ。あのとき俺は狼狽うろたえて何もできなかった。君に迎合したに過ぎないんだ」
 ハイフォンはじっとケイの言うことに聞き入っていたが、やがてぽつりとありがとう、と言った。ケイはゆるゆると首を振る。助けられたのは自分で、ハイフォンに礼を言われることなど何もしていなかった。
「俺は時々、お前のことも不思議に思うよ。何故お前って奴は、こうやって他人にするっと入ってこられるんだろう」
 ハイフォンの言葉にケイは目をしばたいた。ケイの様子にハイフォンの方は苦笑する。
「こんなこと言われたの初めて、って顔だな。お前にはお前にしかない才能がある。それはお前が誇っても良いことだと思うよ」
 ケイは赤面する。他人から自分に対するこれほど直裁な賛辞を受けたことがなくて、どう反応していいのか分からない。やっと捻り出したのは、
「俺、そんなんじゃないよ」
という自信のない言葉であった。ケイに対してハイフォンの方は力強く首を振った。
「そんなことはない。他人を理解しようと努める良さっていうのか……ケイはどんな時でもどんな話でも一所懸命聞いてくれるだろう?」
 それは、とケイは首を振る。他人の話を聞くのはそれを中断する権利など自分にはないと知っているからだ。相手が真面目に話しているのなら、真摯に聞くのが当たり前ではないのだろうか。
「そういうのは謙虚っていうんだよ、ケイ。ケイはそういうもので溢れていて、どこまでも他人を受け入れようとしている、それはいい資質だと思うけどな」
「そんな、俺は別に、そう思ってるわけじゃないんだ」
「そう、意識してじゃなく自然だから才能なんだ」
 呆気にとられてケイは黙り込む。くすくすとハイフォンが笑い声を立てた。それにつられてケイも微かに頬を緩め、やがて小さく笑い出した。
 忍びやかな笑いが個室を満たす。少しづつそれが収まって、ケイはカップに残った茶を飲み干した。
 ハイフォンが教えてくれた茶の名前はケイには耳慣れない単語で覚えられそうもない。だがこの強烈な金木犀の香気は忘れられないだろう。ハイフォンがケイに飾らず送ってくれた賞賛の言葉と共に。
 さて、とケイは下級生の置いていった籠を手に取った。いくら厳重に保温してあるとはいえ、あまり長くは保たない。ハイフォンがご主人によろしく、と言った。
「……なんだよ、それ」
「いやいや、仲がおよろしいから。いつも二人でぴったり寄り添ってるしさ」
「何で俺が妻のほうなんだよ」
 ハイフォンが楽しげに笑う。
「お前らの仲の良いのを見てるとさ、年季の入った夫婦のようだって……なんだよ、みんなそう言ってるんだぞ、しごく適当で自由な旦那と後ろから始末して回る世話焼きの奥さん、つまり、お前らだろ、それ?」
 ケイが不満げに唇を結ぶとハイフォンは破顔した。
「俺はお前が好きだよ、ケイ。王都に行って出世しても、時々俺がいたことも思い出して貰えると嬉しい」
 大仰に聞こえてケイは肩をすくめてみせる。アスファーンが視察から帰ってくるのは一週間後だし、行くにしてもそれからのことで、実は行くことすら迷っている。ケイの困惑にハイフォンは少し笑った。
「俺は明日から暫く実家の都合で田舎へ帰るんだ。戻ってきたときにはもうケイはいないだろうから」
 だから、と差し出された手をケイは強く握った。
「──元気で」
 短い言葉にどれだけの思いがあるのだろうとケイは思う。万感の全てをそそぎ込むだけの言葉を、自分はこの先いくつ持てるだろう。そんなことを思った。