群星の夜(6)/ 旧王国暦215年夏、ラストレア6

 ケイは部屋に戻ると雨戸を閉めた。夏とはいえ、夜は意外に気温が低いものなのだ。そしてケイは振り返って机に置いた夕食の籠を見る。
 どうしようと思うと溜息がこぼれた。ハイフォンは喧嘩と言ったが、実際は喧嘩ですらない。エルシアンの気持ちの揺れをまともにくらったという感じで、彼のはきっと後悔しているはずだ。それはケイが何の根拠もなく信じていることであった。
 自分から謝ることではないのだが、後ろめたさは本当だ。不用意に彼を傷つけたのだろうかという不安が胸に刺さり、それに混じってわずかに理不尽という声を聞く。いずれにしろエルシアンと話がしたかった。
 どうしよう、とケイは宙をにらんだ。内壁を叩こうかと考えていると部屋の扉が叩かれた。
 扉を開けてケイはあ、と声を立てた。ケイよりもほんの少し背の高い友人が俯いて佇んでいる。肩の辺りで切り揃えられた黒髪が揺れていた。
 ケイは口を開いたが、咄嗟に言葉が何も出てこない。友人の方も何か言葉を探しているらしく、ほんの一瞬、二人は俯きあった。
「……ごめん、さっき」
 エルシアンの声が呟いた。ケイは顔を上げる。エルシアンの顔に泣き腫らした後のほてりと涙の跡が見え、ケイは胸を突かれて首を振る。責める言葉など、春の雪のようにほろりとどこかへ消えてしまう。
 いいんだ、とケイは言った。
 入れよ、と扉を内側へ大きく開くと泣き笑いのような表情を浮かべてエルシアンが部屋へ滑り込んだ。ランプの火を大きくしようとしてケイはやめる。泣き顔を見られるのは恥ずかしいだろうと思ったのだ。
 不意にエルシアンがケイの肩を掴んだ。
「肩、大丈夫か。怪我は?」
 おずおずと言う声音にケイは柔らかに笑う。
「大丈夫だよ。お前、そんな怪力でもないだろ」
 エルシアンを安心させたい一心でケイはほんの少しおどけてみせる。少しでも笑ってほしかったのだ。
 だがエルシアンはごめんと呟いて下を向き、立ちつくしたままで静かに肩を震わせた。
 声を押さえようとエルシアンが自分の口を塞ぎ、喰いしばった歯の間から漏れる嗚咽を耐えている。
 ケイは俯く。自分の気遣いがかえってエルシアンを贖罪に駆り立てたのが分かって息苦しい。震える声を絞り出してエルシアンが言った。
「ごめん……こんなつもりじゃなかったのに、俺、少しおかしいな、ケイの言う通りだ」
 いいよとケイは繰り返し、エルシアンを寝台に座らせる。
「馬鹿みたいに頑丈でも風邪はひくだろ? それと同じだよ、気にするなよ」
 強く言うとエルシアンが頷いた。ケイは籠を取った。
「少し何か食べろ、食べると落ち着くぜ」
 エルシアンが首を振って、食欲がない、と言おうとするのをいいから、と強くケイは遮った。
「いいから少しでも口に入れろ。何がいい、果物とかもあったし……今日のスープも結構旨いよ」
 言いながらケイは包みを取り出した。幾重にも包まれた綿入布を剥がしていくとようやく皿が見え、皿の底を持つと僅かに人肌ほどのぬくみが残っていた。
 殆ど無理やりエルシアンの右手に匙を握らせる。エルシアンはしばらく皿の上を見つめていたがやがてゆっくり口に運び始めた。
 食欲は本当にないのだろう。砂を噛んでいるような曖昧な表情だ。義務感だけで食事を進めているのを承知しながらケイはそれを無視して言った。
「……食べるとさ、落ち着かないか」
 噛みしめるように口を動かす友人の背を撫でる。よく煮えた野菜を啜りながらエルシアンがケイを見た。
「よく食べてよく眠って、いい夢を見ればすぐに明日が来て明後日になる。明日はきっと今日よりいい日で、明後日は明日よりもっといい日だ、俺はそう信じてる、だからお前も信じろ」
 ケイの言葉にエルシアンが唇でほのかに笑みを浮かべた。それは確かに彼の持つ温もりの匂いがした。
「明日はもっといい日、か」
 エルシアンがぼそっと呟く。ケイは頷く。
「……美味しい」
 その言葉にケイは安堵する。健やかな食欲と睡眠が人間をまっとうにするのだと信じている。エルシアンに備わっていた性質がやっと戻ってきた気がした。
「さっき、それ一回生が持って行ったろ。お前のことずいぶん心配してたから、明日声かけとけよ」
 ああ、とエルシアンは頷いて匙を置いた。皿の中はほとんど空に近く、ケイは蓋をかぶせて籠に突っ込んだ。世話をやいている、とケイはついさきほどの夫婦の例えに苦笑した。──なるほど言われるのだ。
「どうしたんだよ」
 エルシアンが不満げに眉をよせて言った。自分を笑ったように思ったのだろう。小さく声を立ててケイは笑う。違うよ、とかい摘まんで話すとエルシアンが鼻で笑った。
「何それ、ほんと、下らねぇの……」
 言いながらエルシアンの心が水面近くまで上がってきたとケイは確信する。今なら多分大丈夫だろう。
「なあ……エルスは俺が王都へ行くのには反対なのか」
 切り出す瞬間をさっきから謀っていた質問をケイは口に乗せた。エルシアンがゆるく首を振った。先のような過剰反応は無く、それだけでケイはほっとする。
「将来を考えるなら行かなきゃだめだ、ケイ。絶対に」
 意外なほど強くエルシアンは言った。
「俺と兄上のことで迷っているようならお門違いだな。俺は奴が嫌いで奴も……多分、俺を憎んでいる。だけど、これは関係がない。兄上は周囲の事情や配慮で人を引き抜いたりはしない。おめでとう」
 自分と友人であるのを知っていたとしても、わざわざエルシアンを苦しめるためにケイを連れていく訳ではないとエルシアンが言外に言っている。それを言わせるほどに深い川が横たわることに、ケイはつい目を伏せた。エルシアンはほとんど王宮の話をしない。ぽろりと出るような思い出話すらなかったが、それはこういうことだったのだろう。
「王太子殿下が嫌い、か。俺にはお前がアスファーン殿下を怖がっているように見える」
 ケイが呟くと、エルシアンは顔を上げ、ケイの言葉を吟味する顔つきで空中を見上げた。そうかもしれない、という小さな声がした。ケイは溜息で先を促しながらエルシアンの隣へ腰を下ろした。
「俺は怖いのかもしれない……王都には……兄上のいる所へは行きたくないんだ、ケイ」
 ケイは頷いた。
「王都ヘ俺と一緒に帰るようにお前を説得して欲しいと殿下には言われた。でも、俺はお前は殿下と同じ所にいるべきじゃないと思ってる」
 エルシアンのよい性質が全てなりを潜めてしまうのなら、やはりそれは間違いなのだろうとケイは思う。
 大樹の影で枯れてしまう草のような目に遭うのはエルシアンには似合わない。彼はもっと明るく生き生きと、太陽に向かって伸びるべき若木だ。
「断られたと言っておいてくれ」
 頷きかけてケイは黙り込む。沈黙の意味を察したらしくエルシアンがケイの膝を揺すった。
「行かなきゃ駄目だ、ケイ。ここへ残っても学者になるか、司法官になるか、地方官僚ぐらいしか選択がない。王都へ行けよ、絶対に行け。行って努力すればお前はそんなちっぽけなものより、もっと大きな所へ出て行ける」
 ちっぽけか、とケイは苦笑する。学者でも司法官でも地方官僚でも、ケイには手に余るように思う。エルシアンは高位高官を見慣れているのだろうと察しはつくから悪意のない事も同時に理解できるが、ケイには自信がなかった。
「俺にも限度ってやつがあるよ。努力しても結果が出ないことも多いし、結果がなければ努力なんて言い訳だ……正直、迷ってる」
 エルシアンが首を振る。分かってる、とケイは頷く。
「行くほうがいいのは分かってるし、俺は努力することが無駄なことだとは思わない。ただ何となく……畜生、上手く言えないな」
 ケイは迷いの正体を言い表す的確な言葉を知らない。心残りを何と表現していいのかも。けれどそれは確かに存在していて、ケイの心の中で常に首をかしげているのだった。
「……俺のせいか」
 エルシアンの低い声にケイはいや、と首を振った。
「なんだか嫌な予感がするんだ。不安っていうのか」
 上手く表現できなくて、ケイは溜息になる。エルシアンが同じようなことをした。
「行かなきゃ、ケイ。みすみす機会を逃すような愚かなことはするなよ」
 言葉は投げやりだが、エルシアンが自分を真剣に案じてくれているのが分かっているから嬉しかった。
「王都へ行けよ。そして卒業して王宮に上がれ。兄上が絶対に悪いようにはしないだろうよ」
 アスファーンがある程度自分を引き立ててくれるだろうとは予測がつく。それに応えて努力し、結果を出せばそれなりに重用もされるはずだった。
「……少し時間を貰おうと思ってるんだ」
 答えを保留するだけで何の解決にもなっていないのだが、今は時間が欲しかった。そうか、とエルシアンが頷いた。ケイは床を見つめる。途切れた会話の隙間を埋めようと、食堂での話をした。
 家族ね、とエルシアンがうんざりといった調子で天井を見上げる。苦笑のような溜息が続いた。
「貴族は大抵そうなんだけど、育児は乳母がやるんだよ。貴族は多分平民よりも家族意識が薄いんだと思うんだ。そのかわり一族意識は高いけどな。学院の貴族の坊ちゃん方に聞いてみろよ。家族の話なんてほとんど出来ないぜ」
 そんなものか、とケイは首を傾げる。不思議そうな表情のケイにエルシアンは肩をすくめてみせた。貴族の坊ちゃん方と彼は言うが、彼らより本来はエルシアンのほうが身分は高い。それはおかしかった。
「乳母って、ほんとにいるんだ」
 ケイには新鮮であった。貴族と平民の接点は皆無と言っていい。学院にも貴族の子弟がいるにはいるが、彼らは平民のケイ達と関わろうとしない。だからこちらも話しかけたりしない。近侍がべったりと一緒のことも多いから尚更だ。結果、貴族同士で固まることが多い。そういう意味ではエルシアンの垣根のなさは驚異的でもあった。
「乳兄弟もな」
 貴族の付き人の内で特に年が近いものはそう思ってまず間違いがないとエルシアンが言った。乳母がいれば乳兄弟がいるのは成程、道理だろう。
 エルシアンにもいるのだろうかとケイは思う。ケイの思惑に気付いたのだろう、エルシアンが苦笑した。
「俺は乳母じゃなくて王宮の侍女のお仕事だったから、乳兄弟はいないな。一才くらいから皇太后様が俺を引き取ってくれたから、実際は物心ついたらそこにいて……小さい頃は本当に自分の祖母なんだと思ってたしな」
 乳母というのは大抵母親の親戚筋から選ぶものらしい。母を知らない不都合が、色々な形でエルシアンに噴き出している。本当に一人で立ってきたのだとエルシアンの立場の厳しさに暗澹あんたんとした気分になる。
「そんな暗い顔するなよ。俺は兄上がいる所には行きたくないけど、王宮自体は嫌いじゃなかった」
 ケイは隣の友人を見た。エルシアンが小さく笑う。
「意外か? ま、王宮の話なんて殆どしなかったしな。別に話すほどのことなんてなかったから、だけど。父上には構ってもらわなかったけど、結構、騎士の連中とは気が合ったし、友達もそんな感じ」
 この国では筆頭に大公がおり、そこから一品、二品の順に貴族の階級がつく。品等は六が最下級で、その下に更に騎士公、騎士と並ぶ。無論、王族はその範疇には入らない。王族はそれらを超越した極みなのだ。
 ケイはある程度納得をする。騎士貴族は貴族といってもかなり平民に近い。領地を持っていて小作人を抱えていればましで、大抵経済的にも余裕がある者は珍しかった。
 それでも王宮の警護番が回ってきたのをきっかけに近衛に取り立てて貰う騎士もいるから、まるきりの平民とは多少違うが感覚は似ているのだ。エルシアンが王族にしてはやけに庶民の感覚を肌近くに感じているらしいのはそうした訳だろう。
「王宮ってどんな所なんだ」
 まだ見ぬその場所を、ケイはエルシアンに聞く。王宮を嫌いでなかったとエルシアンが言ってくれたおかげで聞きやすくなった。そうだな、とエルシアンが考えながら膝で頬杖をついた。
「広くて綺麗だな。天井が講堂と同じぐらい高くて、天井画がみっちり描かれてる。回廊が白い石で統一されていて、円柱が立ってて……」
 エルシアンの瞳が追憶に細められる。頷きながらケイは籠から蜜柑を取り出して皮を剥き始めた。柑橘の香りが鼻につんとした。