群星の夜(7)/ 旧王国暦215年夏、ラストレア7

 ふと目を覚ますと、おろされた雨戸の隙間から強烈な太陽の光が射していた。寝台の上で倒れるように眠っていたのに気付き、エルシアンは身を起こした。すぐ横でケイが寝台に頭をもたれ、床に座り込んだ形で寝息を立てている。
 エルシアンはケイを起こさないようにゆっくりとした動作で寝台から降りる。王宮の話や王都での生活のことを話しながら眠ってしまったようだった。
 自分が先に眠ってしまったのだとエルシアンは思う。ケイはエルシアンを気遣ってそのままにし、自分もその場で寝入ってしまったのだろう。ここがケイの部屋であることを考えれば、自分の図々しさにエルシアンは苦笑した。
 そのまま部屋を出て自室に帰ろうとした矢先、手鈴が廊下に響いた。
 打ち鳴らされる回数を数えてエルシアンは腰を浮かす。それは朝食の配給の終わりを告げる鐘だった。背後で欠伸がした。エルシアンは振り返っておはよう、と言った。
「ああ……おはよう……今、何の鐘……」
 ぼんやりと焦点の合わない目を空中へさ迷わせながらケイが呟く。朝飯の終わりと答えてエルシアンは雨戸を上げ、窓を開いた。夏の朝の清涼な空気がなだれ込んでくる。まだ風が涼やかな時間だ。部屋の中がひんやりとなってエルシアンは深く息を吸った。
「朝飯どうする、ケイ」
 エルシアンは伸びをしながら言う。昨晩は食欲がなくスープを啜ったくらいだが、元来健康な体が朝の活力を欲しがってたまらなく腹が減っていた。ケイに心配させた割には現金なものなのだと自分も思う。
 寵の中には手を付けなかったパンとチーズが残っている。談話室に行けば火があるだろうから、それで食事にしてもよかった。二人分には少し足りないが、授業の行われる校舎へ行く途中には購買部の売店もあるから何か仕入れてもいい。
 朝飯ね、とケイが気の無い返事をした。そんなことより今は寝起きの薄ぼんやりを漂っているらしい。
 窓の外を、ぱらぱらと学生が駆けていく。食事を終えて授業へと急ぐのだろう。今から支度したのではもう一時現目には間に合わないな、とエルシアンは見切りを付けた。ケイが溜息をついた。エルシアンと同じ、授業に出ることを諦めたらしい。
「朝飯、町へ行かないか」
 エルシアンの言葉にそうだな、とケイが頷く。
「一時限目には間に合わないしな……」
「俺がおごるよ」
 昨晩は世話になったという自覚はある。アスファーンとの事に対する苛立ちをぶつけ、ぶつけてしまった後で後悔した。ケイの寛容さ、優しさに甘えるだけせえている自分を、エルシアンは憶病なのだと思う。
 ケイに指摘された通り、自分は異母兄が怖いのだ。恐怖していることを認める事すら怖い。それを緩和し、慰め、懸命に現実へ引き戻そうとしてくれたケイの気持ちを自分はずっと忘れないだろう。同時に兄がケイを王都へ連れていくと言った瞬間に自分に対する嫌がらせに違いないと思ったことも。
 ケイは確かに優秀だった。学院の代表に選ばれるのももっともな程に成績もよいし、人好きのする穏やかな性格は敵を作らない。どれほど称賛を受けても決して驕らず、誰に対しても優しかった。
 アスファーンは他人を誰かのしがらみでは評価しないし、たかが自分のことで学生を一人弄ぶようなことは尚更しない。昨晩の怒りを自分は決して忘れないだろう。それは兄に対して偏見であり、ケイに対しては愚弄だからだ。
「おごってくれるなんて珍しいな」
 ケイの声がからかうように響く。ふん、と鼻で笑ってエルシアンは嫌なら別にいいけどさ、と言った。
「行く行く、この前美味しい店見つけたんだ」
 ケイの顔にやっとはっきりとした表情が出るようになった。エルシアンはそうでもないが、ケイは朝が弱い。目が覚めてから起きるまでが長いのだ。反対にエルシアンは起きてすぐに活動できる性質たちだった。
 談話室で落ち合う約束をして、エルシアンは自室へ戻る。とりあえず着替えて顔を洗うと撥ねた髪に水をつけて寝癖を直す。
 鏡をのぞくと黒い髪がさらりと落ちてきて、エルシアンはそれを掻き上げた。ほんの少し太陽に当たって青みがかる髪を見ていると、自分にも確かに王族の血が入っているのだと信じることができた。
 王族は圧倒的に黒い髪を持つ者が多い。アスファーンもそうだ。他の貴族達と比べてもそうだから、一族の特徴なのだろう。自分の瞳は暗い紫だが、これは父王と同じ色だった。だからエルシアンは自分が王の子である事を自覚する。顔も、父と似てはいるのだ。
 着替えを済ませてエルシアンは階段を下りる。一階の寮の玄関口の廊下をそのまま右へ折れた。右は談話室と自習室、左へ行けば食堂と寮監の部屋があった。
「おはよう、エルシアン」
 玄関先で声をかけられてエルシアンは声の主を見た。寮長が片手を上げていた。おはよう、と返してエルシアンは彼の傍らに置かれた荷物に目を留める。
「……どこか行くのか」
 旅行に出るような大きな荷物だった。ハイフォンは頷いて田舎へと答えた。そうかとエルシアンは頷いた。
 このハイフォンは漢氏ハンシの出身だった。漢氏は独自の文化と独自の言葉を持ち、独自の戒律によって行動している。王宮にいた頃何人かを知っていたが、彼らにとって一族の結束と長老の言葉は何よりも大事なものだと知っていた。
 こんな時期に参ると愚痴をこぼしてハイフォンが肩をすくめている。試験が近いから本当は離れたくはないのだろうが、逆らう訳にはいかないのだろう。
「気をつけてな」
 ああ、とハイフォンは頷く。
「お前こそ、もういいのか? 昨日は心配したんだぞ」
「ん、もともと健康が取り柄だし。一晩眠ればこんなもん」
 ハイフォンが笑って頷いたその時のことだった。
 寮の扉がこつこつとたたかれた。ハイフォンとエルシアンは顔を見合わせ、ハイフォンが扉を開けた。
 外に立っていたのは黒髪の小柄な少女だった。ハイフォンと同じように大きな荷物を抱えている。ハイフォンが気まずそうな顔をした。
「何しに来たんだ、チュウメイ」
 あら、と少女がつんと顎を上げた。気の強い娘に特有の濡れたように光る瞳が大きくて美しい。
「何しにはないでしょ。迎えに来てあげたのよ」
「迎えに行くって言ったろう」
「お生憎さま、女子寮は男子禁制なのよ。扉を開けた途端、サンコォなんて袋叩きなんだから。可哀相だから迎えに来てあげたの。それに一度男子寮って見てみたかったのよね」
 ハイフォンが肩をすくめて少女の額を弾いた。それからエルシアンを振り返り、少女の肩を押し出した。
「こいつは俺の従妹なんだ。女子寮にいるし、普段殆ど行き来はしないから見るのは初めてだろう」
 ハイフォンの言葉にエルシアンは頷く。
 少女はエルシアンの方を真っ直ぐに向いて明るく笑った。物怖じしない気性が悪くなかった。
「イ・ランファです」
 年の頃は恐らく十四、五といったところだろう。若く、おそれを知らない伸びやかな気性がはっきりと顔に表れている。顔立ちは可愛らしく整っているが、それより生き生きとした表情が好ましかった。
「エルシアン・クリスです」
 少女の手を握ってエルシアンは言った。
「さっきのチュウメイってのは名前じゃないの?」
 エルシアンの言葉に少女は軽やかに笑った。
「だって、サンコォはサンコォじゃなくてイ・ハイフォンでしょ?」
 論理がよく分からずにエルシアンは眉をよせる。くすくすと軽やかな笑い声を立てて少女は笑った。
「サンコォっていうのは三番目の兄様って意味。チュウメイも九番目の妹って感じなの」
「兄弟多いんだね」
 言ってからエルシアンは内心で苦笑する。自分は異母兄弟が五十人を越えているのだから。自分とて全ての兄弟を覚えているわけではない。領地を貰って既に王宮にいない兄達や、既に故人の者、嫁いだ姉妹達はあまり記憶に無い。現在王宮に残っている王族ならなんとか、という程度だ。
「兄弟といっても同世代の従兄弟を含んでいるから余計にな。俺には本当は弟しかいないし。でも同居だから従兄弟というよりは確かに兄弟なんだろうな」
 ハイフォンが補足する。
漢氏ハンシって面白いよな。名前もちょっと聞かない感じがするし、特別な文字も珍しいし」
 エルシアンの言葉にハイフォンが頷いた。彼らの使う漢字なるものは字の珍妙さから言えば最高峰だろう。
「ハイフォンってどう書くんだ?」
 エルシアンが聞くとハイフォンの指が動いて空中に文字を書いた。エルシアンには漢字は読めないから、実の所もっともらしく頷くしか出来ないが。
 ちなみにハイフォンは海芳と筆記する。姓を伊、名を淑、海芳は字名であるが、最初にエルシアンに仕官した漢氏として有名だろう。のちに彼は、エルシアンを救ったとして侯爵に叙せられるがそれはまだ遠い未来の話であった。
 ふと視線を感じてエルシアンは傍らを見る。少女が食い入るようにエルシアンの顔に見入っていた。
「……何か、可笑しいかな」
 寝癖が残っていたのだろうかとエルシアンは髪に手をやる。少女の視線は強くまっすぐで、曲がらない素直さが悪くなかった。
「ううん、良く見ると美形かもって思って。何ていうのか、ちょっとだけ気品があって貴族みたいって思ってただけ」
 はきはきした口調で少女は言う。
「ちょっとだけか、そりゃいいな」
 エルシアンは苦笑した。自分を通すことを当然だと思っている若さと奔放さに感心すると同時に、それが少しも嫌味でないことに感心すら覚えてしまう。全く裏意がないからそう感じるのだろう。
 が、さすがに多少過ぎているのも本当で、ハイフォンが慌てて従妹を叱りつけている。昨晩の食堂での一件をエルシアンはケイに聞いている。ハイフォンはそれを気にしているのだろう。彼がさりげなく常に気を配っているのは分かっていた。叱られたのが面白くないのかランファはだって、と唇をとがらせて従兄に言いつのる。
「だってねサンコォ聞いて! 学院に王子様がいるって噂があって、男子寮にそれっぽい人がいたらみんなに教えてあげたいの! いいでしょ、ちょっとくらい」
「あのなぁ、王族が寮暮らしって……どんな冗談なんだよ、チュウメイ? 女子寮ってみんなそんな馬鹿みたいな話しかしていないのか?」
 ハイフォンのあきれたような声が溜息と共に落ちる。大きな瞳を輝かせ、そんなことをせっついて話す少女にエルシアンはつい笑い出した。
 噂になっているのが自分なのか確信はないが、城からの呼び出しはもう少し控えてもらった方がよさそうだった。
 寮の連中を騙すつもりもないが、身分が知れた途端に王都の中央学院では自分の周りに人垣が出来てしまい、窮屈で仕方がなかったのだ。
 が、ある程度は必要なことかもしれないとエルシアンは思い、なるべく軽く聞こえるよう、簡単に言った。
「まぁ、俺、貴族だもの」
 ぽかんとハイフォンとランファがエルシアンを見た。その表情がそっくりで、エルシアンは吹き出しそうになる。
「そんな顔するなって。一応俺は貴族だけど、くそ親父があっちこっちの女に子供産ませた挙句に俺の母親が行方不明なんで、一族の鬼っ子でさ。異母兄が跡を継ぐことになった途端に北へ厄介払いなんだよ」
「……そんな話、お前の口から初めて聞くな」
 ハイフォンが呟く。エルシアンは頷きながら自分の嘘の上手さに内心で苦笑する。正確には嘘ではないが、嘘にかなり近い。言わないことが多すぎる。
「素敵、貴族なんだ」
 ランファが歓声を上げた。
「だったらいつか結婚してあげるね!」
 大きな目を一杯に開いて見上げてくる無邪気な視線にエルシアンは声をあげて笑う。ハイフォンがいい加減にしろとランファの額を指で弾いた。
 ……さて、結果から言えば、この少女がエルシアンの正妃であり、初代皇后でもある蘭芳皇后である。胡氏名のラファーナは彼女の漢氏名「蘭花」をエルシアン達にあわせて読み流したものだ。 
 その容貌について正史は「雲鬢花顔、その風姿、艶麗にして並ぶ者なし」と最大限の賛辞を贈るが、これはいわゆる過去の美化と追従の域を出ない。同時代に書かれたケイ・ルーシェンの回想録には『美人ではあるが飛び抜けて美人ではな』く、『どちらかと言えば可愛らしい』と記載されている。肖像画は彼女が老いてからのものだから参考にはならないだろう。
 ケイの観察は正確で、同時代の最高の美女と謳われたナリアシーアの美貌には惜しみ無く絶賛している。
 ラファーナの逸話は数々あるが、最も有名なのは「緋色の聖女」「救国の緋天使」としてのものだろう。無論エルシアンの軌跡を辿るならこの伝説にも触れることになるだろうから、今は割愛する。
 ラファーナ、漢氏名・伊蘭花という少女は現在十六才。エルシアンよりも三才年下であった。
 約束、と念を押すランファをハイフォンが引きずるように外へ出てくのを見送り、エルシアンは談話室へと入った。




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