Prologue

 エルシアンは仄暗い早暁の底辺に一人、座り込んでいる。何かに縋りたくて伸ばした指先が、ふと明りのランプに触れて反射的に手を庇った。
 灼熱を感じるより痛みのほうが強かった。だがそれも体を焦がす理解できないものへの恐れと脅えに焼き捨てられて、まるで自覚にならないほどのものだ。
 何故、と小さく呟いた。喉嗄のどがれてそれもひどく辛かった。
 炎が一瞬大きなゆらぎをかさの中で爆ぜさせた。ほのかな音で、しんとした静寂が刹那破れた。
 音に引き戻されてはっとするが、それも一瞬のことに過ぎない。脳裏を潮騒がぐるぐると渦を巻いて、自分の身に起こったことを反芻しようとしている。やめて。
 顔を伏せる。思い出したくない。
(やめて、やめて!)
 思い出したくない。
(い、いや、いやだ、いやだ、)
 考えたくない。
(どうして、何故、いやだって)
 忘れ捨ててしまえるのなら何でもする。それがどんなにそれがあざとい事であっても構わない。
 目覚めて消える浅い眠りの浅い夢、それほど奇麗に溶けて流れてしまえと思い、今までのことが全て夢だったような気がして顔を上げた。
 カーテンの被さったレースから強い光が差し込んでいる。夏は涼をとるために薄いカーテンを重ね引く。その合わせ目が僅かに開いていたのだろう。
 あれは夢だったのか。そうに違いないのか。エルシアンは自分の手首に残された指の跡を見る。赤くくっきりと残った強い力の残骸が目を焼くほど痛々しかった。
 顔を手で覆った。涙は出なかった。隙間から部屋を浸食していく朝日は明るく健康的で、初夏の空気のまま、同じほどに澄んでいる。
 そこに放り出されているのがやけに可笑しくて、エルシアンは喉を鳴らした。この身に起こったことを一体どうして理解したらいいのだろう。愛だって? ──そんなの、嘘だ!
 エルシアンは呻いてゆっくりとその身を床に折った。ごろりと転がると黒い髪が一面に広がる。夏用の、木を編んだ床敷の青い香りがむせかえるようだ。だが清涼な香りの中にいてもそれよりも強い、烙印のように消えぬ別の臭いがエルシアンの喉を塞いで呼吸を緩慢に止めようとする。
 ──気分が、悪い。
 胃の辺りで渦巻いている吐き気をこらえるために口に手をやるが、手首にくっきり残ったその跡が目に入った瞬間、我慢ができなくなった。
 駆け上がってくるものを宥めすかして中庭までよろめき出たところで限界だった。大まか吐き戻してからエルシアンは大地に服礼するような恰好で後ろを振り返る。開け放した中庭と部屋をつなぐ扉、風が通ったせいかカーテンが僅かに揺らめく。肩で呼吸をしながら口もとを拭うとエルシアンは顔を上げた。
 澱みが流れ出すのが見えた気がした。頬にふれる生温かな空気は室内のものだろうか。それを思ったのに反応するように、胃がまた絞まった。
 今度は喉に引っかかるような酸いものしか出なかった。吐き切れない残留感を喉で鳴らしながらエルシアンは何度も咳をする。消耗しつくして崩れ落ちそうになるのを手をついて支えるが、自分の吐瀉物と中庭へ降りる大理石の石縁に滑って倒れた。
 べしゃっというぬるい音がした。エルシアンは喘ぎながら身を引きずり、部屋へ戻る。中に入った途端にまた嫌な記憶を引きずり出す濃い腐臭がした。
 目の前が一瞬眩む。膝をつく。立っていられない。
 寝台へは戻りたくなかった。呼吸が楽になるまで床の上で丸くなりながら、エルシアンは長い夜を記憶から消そうとすることに躍起になる。目覚めて、この苦痛が消えていればいいのに。体の隅々までが軋むこの痛み、それ以上に心の真奥までを浸食する言葉にならないほどの苦役、こんなもの、欲しくなかった……
 ぎゅっと目を閉じると悪夢が呼び戻ってくる。エルシアンは掠れた声を上げてどうにか顔だけを中庭との境目まで動かした。外気を吸いたかった。荒く呼吸しながら視線を不意に動かすと、硝子扉に移った自分の顔が見えた。床に垂れた黒い髪に比して明らかに顔色は白く、表情はそれ以上に強張って蒼白だった。
 違う、とエルシアンは呟いた。これは自分の顔なんかじゃない。俺はこんなに虚ろな顔をしない。こんな凍りついたままで死にかけたような顔をしない。……今までは。
 その言葉が頭に浮かんでエルシアンは面を歪めた。そうすると硝子の中の少年も顔を同じくするのだった。
 これが自分だ。全ての末端が一点で切り変わったように、裏返ったようにこの長い夜を越えて新しくなった──なってしまった。黒い髪に暗紫色の瞳もここ数年で急激に伸びた背丈も変わらないのに、中身だけがすり変わってしまった。
 エルシアンは再び顔をしかめた。硝子の中の自分の顔がひき歪み、ひどく醜く見えた。直視できずに床に面伏せる。ひんやりした床の温度がほんの僅かに胸の波立ちを押さえてくれるようで、漏らした溜息は長い。
 床に押しあてる格好になった耳に堅牢な響きが伝わってきたのはその時のことだった。かつん、という足音のように聞こえた。
 エルシアンは飛び起きる。一旦おさまりかけていた動悸が跳ね上がって心臓がきりきりと痛みだし、思わず自分の胸倉を掴む。 ──気分、悪い……
 エルシアンは力なく床へ崩れ落ちた。足音がする。規則正しい律動が床を踏んでいる。ぞくっと体が冷えた。床に倒れて起き上がることもままならない。
 くそ、とエルシアンは知らず握りしめていた拳で床を叩いた。それもあまりに弱い暴力であった。気の抜けた音がして、固い床の感触の反動で手首の軋みが再び悲鳴を上げる。足音が近づいてくる。エルシアンは震えながらやっと身を起こし、やはり消耗と眩暈で床へ沈み込んだ。
 ……怖い。
 この足音を、どこかで聞いた。いつだ。いつ、どこで。
 エルシアンは目を閉じた。──多分、と最初に見えたらしき兆候を記憶はついに探り出す。
 それは、ほんの五日ほど前。
 このシタルキア王国の支配者であり、エルシアンの父親である国王の、生誕の祝賀の席。



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