小鳥の夢、承前1


 鳥籠の小さな扉を開けると小鳥は黒い瞳でまっすぐにこちらを見上げてきた。無垢な視線が可愛かったが逃がしてやらなくてはいけない。
 去年の夏に祖母が手に入れた色の珍しい小鳥、けれどそれを長兄の妻が欲しいと言い出して、取り上げられる寸前だ。
 大切にしてくれるならいいのだけど、と溜息になる。実は長兄にはもう一人妻がいて、そちらが猫を四匹も飼っているのだった。
「お行き、ほら、」
 なかなか出ようとしない小鳥に焦れて鳥籠を揺すれば、小鳥は驚いたように鳴いて籠の中をめちゃくちゃに飛ぶ。
 溜息をついて鳥籠に手を入れて捕まえようとしていると、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると兄だった。
「どうした」
 近寄ってくる兄に首を振り、慌てて鳥籠を後ろに回す。気が向いたのか小鳥が歌い始めて羞恥で俯いた。
「ああ、あの小鳥か。兄上も奥方には頭が上がらないと見える……逃がしてしまうつもりだな」
 兄の言葉にますます下を向いた。これを見つかったら良くないのは確かだった。
 だが兄の言葉は叱りつけるものではなかった。あそこは猫がいるようだしな、と軽く笑っている。
 顔を上げれば苦笑気味の明るい笑顔がそこにあった。兄がこれを他人には告げないだろうという確信を唐突に得て、自分もまたやっと安堵で笑顔になることが出来た。
「蒼月宮では目立つ羽色だから、池の近くの森へ行った方がいい──お貸し」
 兄が自分の手から鳥籠を取り、先に立って歩いていく。ご用事では、と聞くと丁度皇太后陛下のところへ伺う途中だったよという言葉があった。それで安心して兄の後について歩いた。
 広い蒼月宮を子供の足は辛い。小鳥を逃がすためにこの日は蒼月宮の禁園近くまで出てきたが、普段は殆どこの王城の一番奥にある祖母の構える館で過ごしている。
 よく来るのは近衛騎士の詰め所くらいだが、警備の関係上蒼月宮の中程の位置に鍛練所と一緒になっていて、そこから先は殆ど行かなかった。
 歩きながら兄の背を見上げる。
 高い場所にある肩に広い背中、とても大人びて手の届かない遠い憧れと同じようだ。自分を見上げる視線に気付いたのか、兄が視線でどうしたのかを問うてきた。
 気恥しさで微かに笑いながら背が高いんですね、と言った。つい半年前に祖母に紹介してもらったばかりで知り合ってそれほど間がない。けれど、その全てが高い水準にまとまっていて憧れを誘わないものが何一つなかった。
「この四、五年で急に伸びたからな。私もお前と同じくらいの年の頃は、そうだな、ちょうどそれくらいか……もう少し低かったかもしれない」
「僕も伸びるかな……で、しょうか……」
「敬語は必要なときに必要な分だけ使いなさい。卑屈なことと敬意を払うことは違うから。……が、背は多分伸びるだろうよ。父上は同じだし、王陛下はそれほど低い方ではないだろう?」
 はい、と頷くと兄が目を細めて笑った。自分はまるで子供なのだった。
 もう少し兄に面白い話が出来たらよかったと思うが、それが何であるのか全く見当がつかない。普段じゃれている若い近衛騎士達や同じ年くらいの騎士の子供たちとするように、池で釣った魚の数自慢ではいけないことくらいが分かる。
 この手持ち無沙汰の沈黙を察したのか、兄のほうから沢山の言葉を紡いだ。普段は何をしているのか、勉強はどうしているのか、剣は得意か、弓は、乗馬は。もし何か苦手なものがあるなら少しなら見てあげられるから言いなさい……
 その言葉一つ一つが本当に嬉しかった。元々母親がいないことで沢山いるはずの兄弟達は自分を馬鹿にしている。だからこの兄が初めて自分に笑みをくれたとき、やっと兄弟というものを手に入れた気がしたのは事実だった。
 普段暮らしている祖母の館は蒼月宮の一番奥にある。最後の丘を越える手前には王族の船遊びに作られている人工の池があり、その隣にはやはり散策用の森が整えられていた。それほど広大な森ではないが、柔らかい草と木の香りがして居心地の良い場所である。
 ここでいいだろうと兄が足を止めたのはその森の手前だった。水と緑の揃った地形が良いのだろう。最初に放してやろうとした禁園は父専用の美しい庭園だが、人向きの美しさよりももっと大切なことがあるのだった。
 鳥籠を渡されて扉をあけると、小鳥は今度は素直に手に乗ってきた。鳥籠の外に出して手を振り上げると一瞬驚いたように手前に着地し、それから身を囲うものがないのに気付いたのか羽を広げて飛び立っていった。
 それを見上げると同時に遮るもののない空も目に入った。
 美しい場所だった。この蒼月宮よりも広く、この城のどこよりも自由だ。この場所の中で守られてさえずっているしかない今を越えて、飛んでいきたい。
 あの小鳥が逃げて行けたように、きっと自分もいつか空を飛ぶための力強い翼を得て、自由の空へ。遮るもののない場所へ。きっといつか。
 その未来の偶像は焦点を結ばないが、希望に満ちていて、解放感の匂いがした。
 いつまでも空を見上げていると、兄が軽く肩を叩いた。それで自分が放心していたのだと多少赤面になった。
 兄は柔らかに笑って鳥になりたいか、と言った。口にすると少女趣味のようだった。下を向くと、恥ずかしがることはない、という穏やかな声がした。
 兄も同じく、小鳥の消えた空を見遣って何かの幻に目を細めていた。それは自分が焦点のあわない未来を見ていたときと同じような顔だったから意外だった。
 兄は王太子を長兄と争っていると祖母から聞いた。自ら望んでこの息苦しい籠の中に入るのと引換に地上の栄光を望んでいる。兄の持つ圧倒的な存在感と前を見つめる視線の強さは確かにそれにふさわしかった。
「お前はここから出たいのだな……」
 その呟きに思わず兄を見た。自分の考えていたことが分かるのだろうか。
 そんなことを思っていると、兄は苦笑しながら前髪をくしゃくしゃとかき回してきた。それが親愛の印だと素直に信じることができた。
「僕は……ここにいてはいけないんだと思うんです。母上は分からないし……父上は僕のこと、あまり好きでないみたいだし……お祖母さまはとても可愛がってくださるけど、でも、いつかはいなくなってしまうでしょう? 今みたいなことがずっと続くなら、それはとても……気が重くて」
 兄はしばらく答えなかった。だがその視線がゆるみなく自分に当てられているのは分かった。兄が真剣にその回答を紡いでくれているのが理解できたし、それだけで嬉しいと思った。
「外に出ることがすなわち解放ではないよ。私たちは、どこへ行っても責任と義務がついてくる。生まれというのはそういうものだ。奴隷に生まれついたらその暮らしがあるように、お前も私も王子であったことが運命なのだから……だから、逃げ出すことではなくて立ち向かうことを覚えなさい」
「立ち、向かう……」
 兄は頷いた。その頬に浮いているのが優しい笑みだったことで、ほんの少しだけ肩の力を抜くことができた。
 立ち向かうこと、と再び口の中で繰り返すと、それは魔法のように鮮やかに口腔で溶けて消えた。
 麗しい言葉であった。
 あるいは、初めて出会った示唆の言葉であったかもしれなかった。
「そう。何事も最後の瞬間まで諦めてはいけないし、逃げてはならない。その二つは自分をとても弱くする。一度自分を許してしまうと際限なく許したくなるからね。いつか……」
 言いかけて兄は黙り、そして空を見上げた。
 小鳥の姿は既にどこにもなく、ただ広がる青くつき抜けた天があった。
「いや……」
 兄は何かを口の中で呟いた。何を言ったのかは聞こえなかったが、兄が自分と同じ感慨を抱いているのだろうかと思ったのはその時のことだった。
 兄の言葉は抽象と言うには深いものが籠っていて抑揚があった。
「兄上は逃げたいんですか」
 そう聞くと兄は苦笑した。兄の大きな手が自分の肩を抱くのに緊張する。その手の力強さと暖かさが、それがそこにあることが嬉しかった。
「さあな……だが、困難から逃げたくなるときは自分に問うよ。本当に後悔しないか、他に方策はないのか、逃げることでしか自分を救えないのか、抗えないのか、本当にそうなのか。そうやって考えているうちに大抵いい方法を思いつく」
 自分はずいぶん神妙な面持ちでそれに重々しく頷いたようだった。私の真似をすることはない、と兄は背中を撫でてくれるのだった。
 もう一度空を見上げると、あの小鳥の声が朧に聞こえた気がした。待って、と手を伸ばすとそれはもう届かなかった。
 空が青く、そして高い。
 そこへ駆け上っていく小鳥の翼の羽ばたきが耳に鳴っていて、とても、とても
 小鳥。飛ぶ空の。蒼穹に消える、
 ──自由の翼。
 待って。
 エルシアンは手を伸ばし、伸ばしたことで目を覚ました。ずいぶん昔の夢を見たのだった。
 まだ背を撫でた優しい手の感触が皮膚に残っているようだった。
 アスファーンの、大きな手が。
 だがもうそれは歓喜を呼ばなかった。感触を背に思い返した途端に、強烈な吐き気が襲った。
 エルシアンは顔を歪め呼吸を荒くつきながら寝返りを打った。
 嬉しかったのだ。その手が自分を撫でて優しい言葉をかけてくれるのが、とても。兄のようになりたいと願い、自分たちの持つ資質があまりに異質であることに気付いてからはせめて役に立ちたいと望んだ。
 ……望んでいた。
「逃げるな、か……」
 その言葉がそれから暫くの間、自分を支える崇高なものだった。そんな時代さえあったのに。兄上。どうして。
 けれどその答えはきっと与えられない。アスファーンは愛だと言うことで、回答をいつも拒否した。
 エルシアンは寝台から抜けて鏡を見た。首にはうっすらと絞められた痕跡が残っていた。
 アスファーンは加減を承知している。エルシアンの意識がほどよく遠のいた辺りで手早く服を剥いで、愛していると囁きながら好き勝手にエルシアンを蹂躙し始めるのだ。
 また胸がむっと違和を訴えた。エルシアンはそれを飲み込みながら襟元に学院の制服のスカーフを押し込んだ。侍女が朝の支度を告げる前に沢山のことを誤魔化しておかなくてはならなかった。
 この首に残った跡も、手首に残る爪跡も、部屋中に充満している青生臭い空気も。
 寝室と中庭を繋ぐ硝子戸を開けると、清涼な外気が雪崩込んできて、その無臭の清潔さに泣きたくなる。
 ……どうして自分はアスファーンの放恣の後始末をしているのだろう……
 なし崩しに事実が積み重ねられていく。体も多少慣れてきたのか、最初の頃のように熱を出したり暫くまともに動けないほどの軋みに襲われたりということはなくなってきた。
 それが自分で受け入れられない。せめて、全くの無感覚でいられたらいいのに。
 エルシアンは少しでも空気を入れ換えるために、レースから絹の二重地に変わったカーテンをはたきながら視線を下へ流した。
 暴力に脅えて身動きは出来ない。ぎこちなく震えているだけの自分の扱いを、アスファーンも次第に承知していくようだった。
 身を以て抵抗すると酷く殴られ、従順に任せると打って変わって優しくなった。その隔たりの広大さに揺すぶられ押し流されている。
 快楽は感じないのに苦痛だけは打ち込まれて体を引き裂き、泥沼に沈むような窒息感をつれてくる。順応し、どうにか楽を見つけようとする体と必死で抗おうとする精神の均衡点が見つけられない。
 緊張と緩和、恐慌と弛緩、激しい苦痛か激しい恐怖のどちらかにめまぐるしく塗り潰される夜はそれだけで消耗した。
 そして、その事実ごとを塗り込めて隠匿する作業を自ら行っている。埋めてしまった沢山の涙を吸って秘密は大きくなり、いつかその重みで自分を殺すかもしれない。
 そう思うと体が震えた。怖かった。
 夏は既に過ぎ、秋を迎えた。リュードは変わらずエルシアンの側にいることを努力してくれるが、それでも絶対に無理な日がある。公休日だ。
 侍従も侍女も、月に一度か二度後宮を下がらなくてはならない。王族も人であるから好悪があるが、それを少しでも均すための制度であった。
 アスファーンの余裕の意味が分かった。自分を可愛いと言ったことも。侍従がもう一人いれば別だったろうに、その公休日のことをすっかり念頭から消して友人に縋っていたのだから確かに頭の悪さが可愛いに違いなかった。
 昨晩のようなリュードが公休で下がった夜の暗い祝祭は、いつもと同じく身の上に起こった。それはもう予定調和とも言えた。
 風に乗って朝の小鳥の声が聞こえてくる。王宮の庭には沢山の美しい声をもつ小鳥が放してあるのだ。
 エルシアンは空を見上げる。秋の空は澄んで一段と高く、薄い色が颯爽としている。翼羽ばたく小鳥の幻が、まだそこにある気がした。あのときアスファーンが自分の肩を抱いてくれたことをずっと幸福に暖めていた時代は過ぎた。それは自分の手をこぼれ落ちて消えていった。



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