小鳥の夢、承前2

 秋の冷たい風が梢を揺らす音と小鳥の声をぼんやり聞いていると、やがて朝の支度を始める侍女の足取りが扉の向こうに聞こえてきた。
 エルシアンは寝室を抜けて居間へ出た。侍女がおはようございますといつもと変わらない挨拶をする。
 それに自分は上手く答えているだろうか。上手く笑っているだろうか。そつなく毎日が過ぎていくほど自分の中身だけが腐って死んでいく気がした。
「お召し替えはもうお済みなんですね。殿下は朝がお早くて助かります。お食事はいつものように?」
 食事は特に理由がなければやはり王族用の食事室を使う。エルシアンはいや、と首を振った。体の痛みがすっかり消えたわけではない。
 それにアスファーンと過ごした次の日の朝は酷い頭痛と吐き気で食事など殆ど喉を通らなかった。
「今日は、朝は、いい……リュードが来たらすぐに学院へ行くから……もう、ここはいいよ」
 鏡の中にいた青白い顔を少しでも見せたくなかった。真実をいえば誰にも会いたくない。それが侍女だろうがリュードだろうが同じだ。
 他人の前に姿を晒したくない。触れられたくない。以前は友人たちがいることもあって頻繁に顔を出していた近衛騎士の詰め所にも、もう殆ど行かない。剣や弓の鍛練はしなくてはならないが、アスファーンの穿った痕跡が消えるまでは肌を外へ露出することさえできなかった。
 侍女が下がっていくのを見送り、エルシアンはもう一度制服の釦ぼたんやスカーフの位置を確かめる。髪は解き流して頬にかかる分だけをまとめた。
 飾り紐の美しい模様を見ると切なくなる。ナリアシーアにさえ、触れられないのだ。
 白い肌に触れても強烈な吐き気と眩暈がする。自分の手が肌を滑る音を聞いた瞬間に、もうどうにもならなくなる……
 エルシアンはまたため息になった。誰かに触れられること、他人に触れること。この二つが出来ない。無理を殺しているとそのうち本当に気分が悪くなってきて、いつも貧血のような症状を起こして座り込んでしまうし、酷いときにはしばらく立てない。
 特に相手が騎士たちのときは顕著だった。鎧に染みついた汗の臭いや彼らの鍛えられた体付きが駄目なのだろう。リュードが典型的な騎士のようでなくて運が良かったというものかもしれなかった。
 ふとそれでエルシアンはリュードがまだ姿を見せないのに気付いた。寝坊かなとも思うが、公休日明けは遅れたことがない。彼は確かに朝が強くはないが、仕事だけはきちんとしていたものだ。
 おかしいと首をひねっていても仕方がなかった。あまり待ち惚けていても遅刻してしまう。リュードには悪いが先に行ってしまおう。最後にいつもの時間落ち合えればいいのだ。
 念のためにその旨を伝える簡単な手紙を机において、エルシアンは蒼月宮を出た。
 学院の授業が終わっていつもの場所で彼を待ったが姿は見せなかった。おかしいと思いながらエルシアンは王城に戻った。
 太陽宮と蒼月宮は厳密に隔てられているが、それをつなぐ唯一の出入り口を黄昏門という。太陽と月の移り変わる場所、ということらしい。黄昏門で戻ったことを表示する名札をかけていると、警衛の騎士が殿下、と言った。
「戻られたらお部屋ではなく執務室へ来るようにと、王太子殿下からお言伝が」
 一瞬、ぎくりと体が固まったのが分かった。エルシアンは震え出す体を叱る。嫌だと喉まで出かかったのをエルシアンは宥める。
 執務室ということは、秘書やこの時間なら政務官も残っている。他人がいれば。それにアスファーン本人に言われたなら無視してもいいが他人を介されるとむげには出来ない。自分がその言伝を無視したことが伝言を伝えた者の責任になるからだ。
 エルシアンはやっと頷いて鞄を黄昏門の詰め所に預け、執務室へ向かった。
 アスファーンの執務を行う建物は太子職を務めるものが代々入ることから太子宮と通称されている。王の執務室がある太陽宮の中心、執政宮と呼ばれている場所のすぐ横だが、今は父王の不在でこちらの太子宮に中心が移ってきていた。
 執務室の前にはまだ懸案を抱えた担当者が並んでいた。その全てが判断を仰ぐための謁見者であるのにエルシアンは肩をすくめた。
 人によって出来ることと出来ないことがあるものだ。アスファーンは誰にも非難されぬほどの実力と指導力で父王と変わらず国政を指導している。父が今戦場に倒れてもアスファーンが登極して混乱はないと思われた。
 アスファーンは執務中だった。兄の執務の姿を見るのは初めてだった。判断は早く指示は簡潔だが、納得して担当者が下がっていくから的確なのだろう。
 どうやら急ぎらしい用件だけを片付けるとアスファーンはエルシアンに座るように言った。秘書が茶と共にペンとインクをエルシアンの前に置いた。
 意味が分からなくてアスファーンを見ると、異母兄は秘書に視線を転じた。秘書が頷いて先に作ってあったらしい羊皮紙を差し出した。羊皮紙ということは公文書であった。
 視線を内容に落として僅か数行、エルシアンは顔を上げた。
「何だよ、これ? 俺は聞いてない!」
 リュードを侍従から解任する旨の命令書であった。
「そういうことになった」
 アスファーンの答えは簡潔だった。エルシアンはそれを叩き返した。破り捨ててしまいたかったがそれが容易にできないからこそ羊皮紙が公文書に使われているのだった。
「お、俺は何も聞いてないし──そうだ、本人は? 本人は何て? 俺はこんなの認めな……」
 言いかけるとアスファーンがエルシアン、と強い声を出した。語調の厳しさに一瞬息が詰まった。アスファーンには既に昨晩の残酷な威圧は消えているが、それでも声を荒げる兄の言うことを咄嗟に受け入れたくなる。
「これは、本人の実家からの要請を受けて国王たる父王陛下の代理人として私が決定したことだ。お前の一存でどうこう出来ることではない」
「実家……?」
 アスファーンは頷いた。
「ザンエルグ家は先のラジール戦役の際に当主たる王国騎士が負傷を負った上、嫡男たる騎士を失った。家督相続のために可及的速やかに残された最後の子息の身柄を戻して欲しいと。朝、一報を受けた」
 あ、とエルシアンは声を上げた。リュードは顔をしかめながら確かにそれを危惧していたのではないだろうか。最後に残った兄が結果戦線に巻き込まれて亡くなり、父親は負傷して騎士の務めを完全には果たせない。
 リュードの実家は広大ではないが領地を持っており、財産がなくはない。それを受け取り伝えていくことが出来るのが、リュードしかいなくなったのだった。だが、それは。
 リュードは実家に戻らない方がいいと思ったから侍従として無理を言って召し上げたのに、結果同じことになってしまう。……それに……
「でも……本人はなんて……」
 リュードがそれを承知するはずがないと思いながらエルシアンは口を開いた。アスファーンは首を振った。
「ザンエルグ家からそう申告があった以上、当人が何を言ってもそれは無視できるものではない。他に男子がいるというなら侍従としての職務を優先するようザンエルグ家に私個人として提言してもいいが、他に子がいないとなるならその余地はない」
「でも……」
「いい加減にしろ、エルシアン。何れにしろ、あの者を侍従に推薦したのでさえ皇太后陛下のご尽力の賜物、例外であることを解らぬ訳ではないだろう」
 エルシアンは言葉に詰まって唇をきつく噛み締めた。
 アスファーンの言うことは正しい。リュード以外に後継がいないのなら、それは侍従職よりも嗣子たる義務を優先させるのは当然だった。
 領地があるということは領民がいる。戦場で功績を示し、領地を維持することが今後リュードの歩くべき道なのだった。
 署名を、と差し出された羊皮紙を前にエルシアンは沈黙した。理屈を理解した上で納得しなくてはならないことを解っていてさえ、それには躊躇があった。
 せめて本人と相談をしたかった。今この場で署名をしたら、本当に遮るものなくすんなりとリュードの離職は決定してしまう。エルシアンがごねても最終的にはアスファーンの判断でそれを無視できるが、奇麗に形が整うにこしたことはないのだった。
「とにかく、本人と相談して」
 言いかけたエルシアンにアスファーンは首を振った。
「彼は王都にはいない。昨晩迎えが来て、実家へ戻ったと聞いている。離職の申請を持参した従者がそう言っていたよ」 
 黙り込んだエルシアンの前にアスファーンはもう一通の羊皮紙を差し出し、それにも署名を入れるように言った。それを見た瞬間に、リュードの身の上に起こったことが真実であるのだとエルシアンは心底から思い知った。


「リュード・アレク・エイン・シュルアルド=ルゥ・ザンエルグ

 彼の者を王国拝領騎士ザンエルグ家の嫡子たることを認む。
 ザンエルグ家の所有するものについて、正当な子としての全ての権利を有することを認む。
 生誕に溯さかのぼり王国騎士に準ずる資格を有していたことを認む。
 以上の資格を持って王国騎士に叙する。若年の身に於いて侍従職に精励した功績により、第十三王子エルシアン・クリス=ルゥ・エリエアルの侍従長の役職に任ずる。
 同日を以て侍従職を解任とする。
 筆記された全ての事柄について、地上における神の代理人たる王の名を以てここに宣言する」


 リュードは庶子だった。庶子は相続を認められないが、嫡子と認めるという書き付けが出た以上は問題にならない。侍従長としての役名の追加も、騎士への正式な序列も、全て彼がザンエルグ家を継ぐための餞別の装飾であり、格を添えるためにエルシアンの署名を入れろと言われている。
 署名を、とアスファーンが言った。エルシアンは首を振った。
 リュードの望みはだが、こんなことではない。彼は嫡子として認められたいなどと言ったことはないし、ザンエルグ家を継ぎたいなどと欠片も思っていなかった。彼の兄が亡くなったのならとりあえず葬式のために帰省したのだろうが、それならいずれ戻ってくるはずだった。
 それまでは自分が署名してはいけない。リュードを今実家に帰しても彼のために良い事は恐らく無いだろうし、それに……アスファーンは自分からリュードを引き剥がしたいのは確かに思えた。
 リュードの公休日にエルシアンを自分の暗い情熱のはけ口にしているが、彼のいる日は絶対に姿を見せなかった。邪魔に思っているのは間違い無い。
 リュードをこの際追い払ってしまおうと思っているのだ。エルシアンを好きに食らうために邪魔だから? そんなこと、絶対に耐えられない……
 エルシアンはぶるっと身震いし、それから兄を思い切り睨んだ。睨まれたほうはそれを涼しげな顔で流し、署名を促した。
 それに再び首を振ってエルシアンは席を蹴って立ち上がった。殿下、という声がしたのはその時だった。秘書の声であると思われた。
「ここでご署名をいただけなくても何れ国王陛下も同じことをお命じになります。殿下からの手向けにしてやるのが肝要かと存じますが」
 アスファーンがよい、と遮った。
「俺は署名はしない」
 エルシアンは強く言った。
「本人の意志を確かめるまでは絶対に認めない」
「──今は私が父王陛下の代理人であり、私の決定は陛下のご裁断と同じ効力を持つが?」
「でも、父上のご命令じゃない」
 父に不調があって摂政の役職をアスファーンが得ているなら別だが、父王が不在時の不服は父が帰還してから直接訴えることもできる。
 しばし睨みあった視線の痛さにエルシアンは目を細めた。アスファーンと目を合わせるのも怖かったが、逃げるなと叱る声がどこかに聞こえてくる。
 自分を力付けるのがアスファーンの言葉であることは微かに皮肉に思えたが、今は自分を駆り立ててくれるものになら何にでも縋りたかった。
 いいだろう、とアスファーンが溜息をついた。
「ただし、父上への奏上はお前が自分で行うように」
 エルシアンは頷いた。リュードの送還を超的に覆すことができるのは父の決定以外に思いつかなかった。それに賭けても勝てるかどうか自信はない。だが、それしかないのも事実だった。
 リュードのため、そしてそれは自分のため。どちらの比率が大きいのかは判然としなかった。境界が曖昧なことにエルシアンは漠然とした嫌悪を感じた。
 部屋へ戻ると机の上に自分が朝書いた伝言がそのまま残っていた。エルシアンはそれを握り潰しながら深く、長く溜息をついた。