嘘の代替1


 リュードが最初に戻ってきたのはそれから一月ほどしてからだった。
 兄が死んだこと、父親の怪我は命に関わるものではないこと、その二つを話して溜息をつくばかりだった。後継のことは彼の思うようには進んでいないのだろう。
 何度かエルシアンは彼に兄のことを話そうかと思い揺れたが、どうしても踏ん切りがつかなかった。リュードのほうも自分のことで手一杯らしく、まともに相手をしてくれない。
 ラジールとの戦線は膠着した。一時は押されぎみであったようだが、かなり持ち直したらしい。どうやら終局に向けて水面下に折衝が始まったようだった。
 大河ユルエリという絶対地形を挟んでいるのだから国境は動かしてもあまり意味がない。賠償金あたりで決着になるだろう。
「あら、もう要らないの、エルシアン? 最近あまり食べないわね」
 皇太后に言われてエルシアンは無理やり笑顔を作って見せる。
 ……部屋に帰るのが怖い。リュードがいるときはその訪れを予測できたものが、もはやアスファーンの気紛れのまま、彼の思うままであった。
 いつ訪れるか分からない恐怖の足音に夜通し脅えることを繰り返している。
 眠れない。食べられない。人に触れられない。全部揃って立派な神経過敏だとエルシアンは苦笑になる。皇太后は心配して色々な美味を工夫したものを用意させては夕食に呼んでくれるが、それも殆ど喉を通らないか夕食後すぐに部屋で吐いてしまうかどちらかだった。
「少し……成績が落ちてきているので……」
 同じ言い訳を何度も口にしている。だがこれも事実ではあった。それほど惨憺とした成績ではなかったはずだが、勉強など手につかない。法律学だけは王族の顧問として上がっている老教授に指導を仰いでいるからまともな成績になっているが、他は自分で見るのも辛い程だった。
「お前が成績など気に病む子だとは思わなかったけどね」
 皇太后の言うことは尤もだ。エルシアンは苦笑しながら俺は神経が細いんです、と言った。それも今となっては事実に言葉が追いつきつつあった。
 泊めて欲しいというエルシアンの願いはやはり断られた。十五の成人以来皇太后はエルシアンがこの館に入り浸ることは歓迎しても、夜はあちらに戻ることを筋としている。
 曖昧な時期もあったのだが、ちょうどその頃務めていた侍女と愚にもつかないことが色々……あった挙句それにリュードが首を突っ込んで酷いことになってしまった。かなりこってり油をしぼられて、泊まりは禁止になったのだった。今更、後悔しても取り返せないが。
 泊まることを諦めてエルシアンは蒼月宮に戻った。ゆきあった侍女に酒をいいつけ、部屋へ入る。部屋はいつもと変わらず殺風景でがらんとしていた。
 リュードはここと実家をしきりと往復していていない日の方が多かった。
 今日はアスファーンは来ていないようだった。
 彼はこの部屋の鍵を持っている。何故と思ったのは一瞬で、巡り合わせの悪さを落胆するしかなかった──王は、全ての部屋の鍵を管理できる。
 そして父がいなくなれば火急のこともある可能性を否定できないゆえにアスファーンが管理することになるのだった。
 これほど父を待ち侘びているのは自分に今まで無かったことだった。リュードのこともあるし、アスファーンがここの鍵を持っている以上は部屋替えを頼んでみなくては落ち着けない。
 物音に過剰に反応する状態が良いはずがなかった。
 エルシアンは溜息をつきながら髪を結んでいた紐を解いた。
 剣の下げ緒にと皇太后から貰った品だが、身に付ける機会が殆ど無い。こんなものを自分が持っていても不相応だといわれるだけだ。
 もしかしたら相応しく他人に認められるようにと言われているのかもしれなかったが、境遇は好転しない。学院の成績が良ければ父王に多少認めてもらうこともできたかもしれないが、今のままでは絶望するしかなかった。
 紐の端で宝飾の飾りが揺れている。エルシアンはそれを手の中で転がしながら寝室へ入った。
「遅かったな」
 声がかかってエルシアンは驚愕してそれを取り落とした。
「あ……か、勝手に人の、寝室に入る、な……」
 言いかける言葉はいつものように喉の奥に消えた。アスファーンが密やかに笑い出したのだった。エルシアンは顔を伏せながら後ずさった。やはりそれは恐怖なのだった。
「逃げることはないだろう? 今日の昼に父上から伝令が来てな。ラジールとの戦役が終着された由、後三週間もすれば王都にご帰還になる。私などよりお前のほうが心待ちにしているだろうと教えに来てやったのだから感謝くらいしてくれても良いだろう」
 父が帰ってくる、という言葉にエルシアンは俯いていた顔を上げた。リュードを呼び戻すことができるかもしれない光明の糸口がやっと見えた気がした。
 明らかにエルシアンの表情に安堵が出たのだろうか、アスファーンは可笑しそうに笑った。リュードの件は覆る訳がないと兄はたかを括っている。それが悔しかった。
 エルシアンは出ていけよ、と顎をしゃくった。アスファーンは動く気配がなかった。
 エルシアンは舌打ちをして自分から出ていこうと背を返す。一晩くらいならどこかに潜り込むこともできるかもしれない。駄目なら駄目で、どこかで夜が白むのを待とう。
 アスファーンは妻たちとも関わりを持たなくてはならない。毎晩が必ず空いているわけではないのだ。
 エルシアンと言う声がしてアスファーンが座っていた寝台脇の椅子から立ち上がり、エルシアンの側を通過した。
 自分の言葉がすんなりと彼を動かすのは初めてだった。今日は本当にその事実を告げに来ただけなのかもしれない。そう思いながら体をずらしてやり過ごそうとするとアスファーンは薄く笑いながら扉に手を掛け、大きく音を立てて締め切った。
 鍵のかかる音が大きかった。扉が軋むのさえ、見えた気がした。
 エルシアンはその音にはっと首をすくめ、そしてぎゅっと目を閉じた。俺は馬鹿だと思った。
 アスファーンの手が頬を触り、顔が近付くのが気配で分かった。唇を噛んでやろうと眉を寄せて待ち構えていると、兄のそれは唇ではなく頬と睫を掠っていつものように首筋へ降りた。
 エルシアンが一瞬もがいて逃れようとすると、アスファーンの手が顎をつかんで後頭部を扉に押しつけた。ごりごりと頭皮と髪の付け根が鳴った。
「噛んでやろうと思っていただろう? お前の考えることはとても分かりやすくて素直でいい……」
 かあっと頭に血が上るのが分かった。思考を見通されていた口惜しさとそれをからかわれたことの屈辱、これから始まる激しい緩急の波への恐れがぐるぐる脳裏を回って目が眩むようだった。
「……愛しているよ」
 いつもの欺瞞を呟きながらアスファーンの手が自分の肌に滑り込んでくる。エルシアンはやめて、と呻きながらもがいた。
「お願いだからやめて、愛しているならどうして俺が嫌だっていうことばかりするんだよ、何でだよ? あ……や、やだ……いや、やだ、やだ」
 エルシアンは体を寄せてくる兄の厚い胸を押し退けようと腕を割り込ませ、思い切り突き飛ばした。アスファーンが僅かに体を離した隙にエルシアンはそこから転がり出て扉を開け放し、外を指して怒鳴った。
「出てけよ! ここは俺の部屋だ! 勝手に入るな!」
「そうしたらお前は私に会ってくれないだろう」
「当たり前だろ! ──そ、そうだ、父上に言う、父上に訴えてやる!」
 父が帰ってくるという事実がこんなときに都合のいい言葉に化けて口からすらすら出てくるのが驚きだった。
 アスファーンは微かに頬を歪めた。この言葉は確かに彼の中の何かを動かしたようだった。エルシアンはこれだと勢いを得て、続きを口走った。
 やっとアスファーンの弱みを掴んだと確信した。
「父上に言って、廃嫡にしてやるからな!」
 アスファーンが面伏せた。表情は分からなかったが兄が自分の言葉に動揺を見せるのは初めてだったから、それで十分に思えた。
 エルシアンはやっと荒くなった呼吸を押さえ込みながら低く、父上に直訴してやるからな、と繰り返した。