嘘の代替2

 何かをアスファーンが呟いた。エルシアンは何だよ、と吐き捨てた。
 不意に顔を上げたアスファーンの表情は、だがエルシアンが想像していたどれとも違っていた──彼は、笑っていた。心底から可笑しそうに。
「父上に言う、か……脅迫から覚えるとは悪い子だな、エルシアン。言いたければ言えばいい。お前のしたいことを止める権利は私にはないし……したいことを邪魔しようとは思わないよ。……愛しているからね」
「ほ、本当に言うからな! そしたら王太子なんかすぐに廃嫡になる、ウォーガルドの兄上が立太子されて、お、お前なんかあっという間に失脚して……」
 喉を鳴らしてアスファーンが笑ったのはその時だった。
 その声に遮られてエルシアンの言葉は細く消えた。
「だから言えばいいと言っている。父上に訴えたいならそうすればいい。それを止めはしないさ」
 エルシアンは悔しさで唾を飲み込んだ。アスファーンは可笑しそうに笑いながらエルシアンの服をはだけ、首筋に舌をまつろわせてくる。
 やめて、と喘いだ声はもう元の媚と懇願の入り混じったものだった。
 扉に押しつけられながらの愛撫にエルシアンは喉をのけぞらせて喘いだ。体の中には確かにアスファーンに脅えて言うことを聞いていればおとなしくしていれば優しくして貰えると囁いてくる部分がある。相克と嫌悪に揺れながら堕ちる瞬間がじりじりと近くなっているのが自分でも分かった。
 涙がこぼれた。
(最後の瞬間まで諦めてはいけない、逃げてはならない、一度自分を許してしまうと際限なく許してしまう……)
 だが、どこに出口があるというのだろう。
 酷く難しい法律の論文でも書かされている気分だった。論旨を行きつ戻りつし、論理の枝に迷い込み、先例法と慣習法の資料の山の何処に回答があるのか、自分は本当に回答に向かっているのか、本当は戻っているのじゃないか、間違ったところへ迷い込んでいないのか……
 アスファーンが喉に噛みつくようにキスをした。それはまさに食らわれているのだとエルシアンは思った。やめて、と掠れた声を出しても返答はなかった。
「……扉に両手をついて、前を向きなさい」
 アスファーンに命じられるまま、従順に振る舞い始めている。何が起こるのか知っていて、エルシアンは殴られる怖さにいつも従うのだった。
 体をはい回る気味の悪さをエルシアンは喉で啜り泣いた。この瞬間に頭の中を巡ることはいつも同じだ。
 何故、何故、こんなことをしなくてはいけないのだろう。被害者なのは自分のほうなのに、さっきまでほんの少し優位にいたのは自分のはずなのに、何故、何故、いつも決まって許しを請うのは自分のほうなのだろう……
「お願い、もう、こんなこと、やめて……」
 涙で潤む声を絞り出してもアスファーンはいつもと同じくその気配を見せなかった。慣れるほど馴れた絶望が体をゆっくり末端から支配し始める。苦痛に引き裂かれるくらいなら思考を停止して快楽に沈み込んでいくほうが、苦しみと向き合わなくて済む。
 閉じた目の端から涙がぼろぼろ零れて頬から滴り堕ちた。
 それをアスファーンが指で軽く拭い、そしてふと動きを止めた。口が塞がれる。
 エルシアンは薄目を開けた。目の前には寝室の扉が広がるばかりだ。ざあっと風に外の木々が揺れる音が硝子越しに小さく聞こえ、それとは別の方向から小さな音がした。
 ──金属の合わさる音……部屋の扉が開いた? エルシアンは身を竦ませる。誰か入ってきたのだ。
 エルシアンの口を押さえる手に力が入った。時を置かず、エルシアンの体が押しつけられている扉が外から叩かれた。最初は迷いがちに小さかったがすぐに普通の音調になった。
「殿下こちらですか? 火酒をお持ちしましたが?」
 侍女だ、エルシアンは息をのんだ。アスファーンが耳元で返事をしなさい、と囁いた。エルシアンは兄を振り返る。アスファーンは妥協を許さないというように首を振った。
「ああ……さっきの……居間に置いて……」
 扉越しに少し声を張り上げると、はい、と返事があった。部屋に戻る際に確かに寝酒代りに侍女にそれを言いつけたのだった。すっかり忘れて果てていた。
 アスファーンが呼吸で笑ってエルシアンの首を吸った。背中をぞくりとする感触が駆けていって思わず呻くと、侍女が殿下、と声をだした。
「お具合でも? 典医をお呼びいたしましょうか」
 エルシアンはいい、と咄嗟に答えた。言い訳を考えようとしたが、思考は空回りするばかりで何も出てこなかった。
 侍女の声が訝いぶかしげにでも、とためらっている。間を置いて殿下のお声がとても苦しそうに聞こえますからという声がした。
 それを言われた瞬間、脳裏に電撃が落ちたようにエルシアンは身を強張らせた。
 他人が、今、扉の向こうにいる。助けを乞えば届く位置に!
 助けて、と言いかけてエルシアンは一瞬、躊躇する。アスファーンにまさに今凌辱されかけているこの姿をどうやって繕ったらいいのだろう。
 迷いを受け取って唇は半開きになったままぴくりともしなかった。アスファーンが呼吸で笑った気配がした。首筋に軽くキスをし、とめていた愛撫を再開する。
 軽く耳を噛まれると反射で涙が出た。扉の外で殿下、と困惑の声がした。
「──駄目だ!」
 エルシアンは叫んだ。その途端に涙が滝のように流れ落ちたのが分かった。
「駄目だ、医者はいらな……いや、何でもない、何でもないから、医者はいらない、別に、大丈夫だから、酒をそっちに置いて、出ていってくれ……」
「殿下? でも、本当に……」
「大丈夫だったら!」
 返答が悲鳴に似ていると自分でも思った。
「今はとにかく嫌だ、何でもないから、もう行けって」
「お薬だけでも、決まった薬がおありなら取りに……」
「帰れよ!」
エルシアンは扉を殴りつけて怒鳴った。侍女が脅えたように沈黙したのが扉を隔てても分かった。
「……いいから、お願いだから、今日は帰って……」
 エルシアンはそう言って詰まってきた呼吸を啜り上げた。侍女の返答は少しの間なかったが、やがて諦めたような声が言うのが聞こえた。
「本当に、お加減が悪くなったらすぐお呼び下さいね」
 そう念を押され、分かったとエルシアンは叫んだ。投げやりだと思った。
 やがて再び来たのと同じような金属の合わさる音がした。出ていったのだろう。
 その瞬間、緊張の糸がぷつりと切れてエルシアンはその場に座り込んだ。涙が止まらなかった。
 涙を拭っていると、アスファーンが笑いながら耳をつねった。痛い、と呻くと低い声が押し殺した笑みを滲ませながら耳元で吹き込んだ。
「……で、誰に訴えると?」
 エルシアンは兄を見た。やはり兄は薄く笑っていた。エルシアンは首を振った。
 父上に、と呟いてその絶望的な困難さを思った。他人に知られることが極端に怖いくせに、本当に父に話すことなど出来るのだろうか。アスファーンはそれを笑っている。
 たわめられていくもので煮えるように胸が痛み、熱い。ひし曲げられていくもので凍えるように体は痺れ、とても……寒い。相反するもので激しく攪乱されて論理的なことなど何一つ出来ない。後は多分、腐って死ぬだけの気がした。
「泣くな、女のような泣き方をするな、お前は……立ちなさい、続きは寝台の上だ」
 手を引かれるのをエルシアンは振り払う。やめて、と呻いてもう一度手首を掴もうとした兄の手を軽く打ち返した。
「もう、いやだ、こんなこと、本当に嫌なんだ、もう、いや、こんな、お願いだから、許して」
 困ったなとアスファーンが苦笑を装った溜息をついた。
「こんなに愛していると言っているのに……お前は私を嫌いだと?」
 エルシアンは震えながら必死で首を振る。
 アスファーンの目は見られなかった。今兄を見上げている目がどれほど卑屈なのか、自分では知りたくない。彼の目の中に映る自分がどんな顔をして言葉を紡いでいるのかなど、分かりたくなかったし見たくもなかった。
「兄として認めてます、尊敬できる兄上だと思ってます、弟として兄上のためにお役にたちたいと思ってます、だからもう俺のことは放っておいて、兄上として敬愛してますから!」
 その言葉は少しもアスファーンを動かさなかった。会話で中断されていた蹂躙の手管をアスファーンは黙ってまた始めた。
 エルシアンはやめて、とその肩を掴んだ。がっしりした肩の肉の厚みが自分の懇願が如何に無駄なのかを無言に示してくる気がして目を閉じる。
 寝台に行きなさいと言われてエルシアンは首を振った。掴まれた手首に手をかけて、お願い、とやめて、だけを繰り返した。
 強い力が体ごと引きずった。絨毯を擦れる肌の痛みにエルシアンは唸り、足を突っ張って抵抗した。
 頬が軽く打たれたのはその時だった。痛みは殆どなかったが、打たれた事実だけで抵抗する気力が萎えるほど怖かった。
 溢れる涙をアスファーンが丁寧に拭っている。撫でる指が頬をゆっくりよぎった瞬間、エルシアンは咄嗟にそれに噛みついた。手の骨の上を皮膚がずるりと滑った。アスファーンが一瞬呼吸を殺したのが分かった。
 兄を見上げようとしたとき、先ほどとは比較にならない程の手酷い痛みが頬に炸裂して、エルシアンは体ごと横に倒れた。起き上がろうとした瞬間、腹が蹴り押さえられた。
 あまりの衝撃で呼吸がつまり、次いで吐き気と痛みによる眩暈でエルシアンは声も出せずにうずくまった。
「……本当に、噛み癖の悪い子だ……甘やかしていた私も悪いということかな、エルシアン?」
 エルシアンはおぼろにかすむ視界をやっと上げ、アスファーンを見た。アスファーンは左の親指の付け根辺りを押さえていた。
 エルシアンは思わず湧いてきたものに突き出されて吐息だけで笑った。少しも体に力は入らなかったが、確かに報いた実感はあった。
 アスファーンが横たわったままのエルシアンを押えつけて腕を後ろにねじあげた。関節が軋んでエルシアンは微かに悲鳴を上げた。
 アスファーンの手が何かを拾い寄せた。エルシアンは目を開けてそれが祖母から貰った下げ緒であるのに気付いた。それは、と言いかけるとアスファーンはもういつものような余裕を含んだ声で大丈夫、と言った。
「私は恋人のものを取り上げたりはしないよ。よい品だな、エルシアン。皇太后陛下辺りから頂いたか……お前には良く似合うと思うが……試してみるか?」
 何を、とエルシアンは途切れがちな呼吸を肩に任せながらアスファーンを見た。アスファーンはいつもの嫌な笑みを浮かべていた。
 エルシアンは咄嗟に首を振った。この笑顔を見て良いことがあるなどと信じることは出来なかった。
 ねじられて後ろに回されたままの手が取られた。もう片方の手も手首で合わされて、そこを何かがきつく縛った。
 あ、とエルシアンは声を上げた。自由を奪われると思っただけでもう膝が笑い始めた。もがいてみたが、下げ緒の紐は金と白金をより細く糸状にしたものを寄りあわせて出来ている。とてもどうにかなるものではなかった。
「やめて、やめて!」
 声は何かのためにかすれ、震えてぶれている。アスファーンはエルシアンの縛った手首から体を吊り下げて寝台に放り出した。上着が引き剥がされると急に寒気が襲ってきてエルシアンは身震いした。それはいつまでも体の奥から溢れてきて、少しも止まる気配がなかった。
「今お前が何を考えているのかをよく分かる」
 アスファーンが指先で肌をそろ撫でながら呟いた。エルシアンは顔を背けた。アスファーンの声が小さく笑った。
「私に抱かれるのが嫌で嫌でたまらないか。すげないことだな。だがそうやって焦らされるのも嫌いではないよ。お前をこんなに愛しているのに」
 アスファーンは手首の戒めを引き寄せた。エルシアンは寝台の上を転がされながら無理な姿勢に身をよじった。背中の皮膚がひきつり、肉がよじれた。
「──つれない、意地悪でわがままで焦らしたがりの恋人もいいが、多少我儘が過ぎるな、エルシアン?」
「ご、ごめんなさ、許して、もうしないから、だから酷いこと、しないで、いい子になるから、だから」
「お前の言葉は嘘が多いな。本当は私から逃れたくて仕方がないだろう? 繕うことはない。私を愛していると言えるか、言えないだろう。……ああそうだな、それが聞きたい。言ってみてごらん、エルシアン。私を愛していると」
 エルシアンは口を開いたが、そこからは何も出てこなかった。
 暫く唇を震わせていた後、エルシアンは代わりに嗚咽を漏らした。アスファーンがくつくつと喉を鳴らして笑った。
「これが言えるようになったとき、お前が本当に私のものになって可愛い恋人になっていることを望んでいる……が」
 アスファーンは低く、限り無く優しく言った。
「それが分かるまではお前に愛を教えないといけないようだな。お前がいつか歓喜と陶酔に身を焦がして、自分から足を開くなるようになるまで」
 アスファーンが笑みを浮かべたままエルシアンの足首を掴んだ。エルシアンはかたく目を閉じた。
 他人に向かって裸の腹を委ねて足を開くという姿勢の無防備さを身に感じながら。