父の背中1

 王都の冬は大陸の北よりに位置していることもあって遅くはない。更に北のジェア王国などは一年の半分を雪の煙幕の向こうに隠しているからそれよりはましとはいえ、十月半ばにもなると霜が降りた。
 カーテンはまた変わった。分厚く光と熱を通さない重い布が、紺に雪を縫い取った模様ごとゆらゆら揺れている。
 揺れているのは自分がふらついているからだろうか。それとも風のせいか。カーテンの隙間からこぼれ落ちてくる空気は鋭く冷たい。
 エルシアンはぼんやりしながら中庭へ続く硝子戸を開けて、そこにもたれて座り込んでいる。
(──まだ……気を失うんじゃない、終わってないだろう……いつも私一人をおいてゆくつもりだな)
 やめて。
(──そう、素直なのは美徳だ……)
 やめて、許して。
(──怖いか? いや……怯えるお前も好きだよ……)
 やめて、許して、何でもするから。
「何でも……する……」
 本当だ、とエルシアンは低く笑って座ったまま膝を抱え、額をそこに押し当てた。
 何でもする。彼のあてがう苦痛から逃れるためだけに取りすがり、啜り泣いては懇願し、這いつくばるように機嫌を伺い、結局は何も聞き入れられずに彼のものになる。その繰り返しだ。
 目を閉じると初冬の薄い日ざしが瞼の裏に多少は感じられた。涙は昨晩に流し出してしまって、今は一滴も残っていないようだった。
 もうどうしていいのか分からない。臣籍に降下して王族から外れることが出来れば蒼月宮を出ていけるが、自分はまだ学生で、年限は後一年半近く残っている。
 ── 一年半も。期間は永久に近い長さに思われた。
 しばらくそこで外気に身を晒していると、朝の支度を整えるために侍女が入ってきたのが扉の向こうの気配に知れた。エルシアンは身繕いを始めた。体中に点々と残された痴態の痕跡を、沢山の布たちをかぶせて隠してしまわなくては。
 父王はこの日帰還する予定になっていて、その出迎えのために正装とはいわないまでも格式のある衣装にするようにと一昨日通達が来ている。
 格式ある、とエルシアンは唇だけをゆるめて笑った。礼装も正装も、高位になるほど体は布の中に隠れていく。都合が良いというならそうだった。
 肌を首まで覆うような服をどうにか整えてエルシアンは居間へ出た。いつものように侍女が朝の挨拶をした。おはようと返してエルシアンが椅子へ座ると侍女が櫛を手にして後ろへ立った。礼のある服装というなら髪は絶対にひっつめておかなくてはならないのだった。
 丁寧に櫛を使っていた侍女がふとその手を止めた。エルシアンも部屋の入口を見た。扉が開く音がしたのだった。
 まだ朝が早い。侍女が前室から続く扉を開ける。そこに立っている人影を認めた途端、エルシアンは立ち上がった。
 まっすぐにこちらを見る薄氷色の瞳が、赤茶けた癖毛の髪が、ひどく懐かしくて嬉しかった。リュー、と呟いた声は歓喜と驚きで震えている。
 彼に会うのは二月振りであった。久しぶり、という声はエルシアンが知っている、僅かに斜に構えたいつもの皮肉さ加減を持っている。リュードは侍女の手から櫛をするりと抜き、後は俺がやるからいい、と鮮やかに追い払った。
「……戻ってきたんだ、リュー」
 エルシアンは櫛をくるくる手の中で回しているリュードに言った。往復する日数が次第に長くなっていって一月を越えた時、エルシアンは諦めたのだ。
 嬉しさが実感になって浮いてきたのはその時だった。リュードの離職の件はあれから宙に浮いたままだが正式に免じられたわけではない。
「……エルシ、色々……すまなかった。ありがと……」
 リュードが小さな声で言った。エルシアンは首を振った。彼の姿をもう見られない気がしていたから、再会は意外ではあったが嬉しかった。
「よかった、本当に……」
 何かを言いたい気がしたが、何をどう喋っていいのか分からずにエルシアンは言葉を濁したが、言葉はもしかしたら要らないかもしれなかった。
 リュードはあの軽やかな笑みに似たものを口許に燻らせたが、すぐにそれは消えた。エルシアンはふと真顔になった。
 リュードの様子は普段と違う。実家のことを彼自身で解決して戻ってきたなら散々その手口の解説をした挙句に「俺が戻ってきて嬉しいくせに」の一言くらいはある男だ。
「リュー、家のことどうなった?」
 たちまちリュードの顔から張りついていたいつもの人を煙に巻く空気が消えた。こんなに苦しそうな彼を見るのは久しぶりだとエルシアンは思った。
 彼がこんな顔をするとき、決まって口にする言葉がある。エルシアンは過去二回だけの特例を思い返してリュードに座るように言った。
 リュードはその言葉を聞こえなかったのか、痺れたように立ちつくしていた。視線がきつく、宙で焦点を結んでいる。リュードは今目の前に無いものを睨んでいるのだ。
 リュー、とエルシアンは促した。リュードはエルシアンを見たが、やはりすぐに目を伏せてしまった。その瞼が微かに震え、痙攣しているのにエルシアンは気付いた。
「──俺、本当に、あの家に……ずっといて……」
 リュードが苦しく呻くような声を出した。酷い声だとエルシアンは思った。座りなよ、とそれを遮って長椅子を指し、彼を座らせるために自分が先に腰を下ろした。リュードは小さく頷いてエルシアンの隣に座った。
 しばらく二人とも黙っていた。沈黙の長い時間をエルシアンはリュードの整った横顔を眺めることに費やした。
 彼は僅かにではあるが痩せて、目付きがきつくなっている気がした。彼のことを猫科の生き物だという言い方は的を得ていたが、気品のある貴公子然とした飼い猫から、毛を逆立てて生き抜こうとする野良猫へ空気が微妙に移っている。彼の身の上に起こったことは彼には十分負担で、それを背負いたいなどと思っていないのは明白だった。
 リューと言いかけたエルシアンの言葉よりも、リュードの声が早かった。それは「頼む」と聞こえた。
 エルシアンは苦いものに押されて目を細めた。リュードは気位が高く、めったに他人に頼らない。誰も信じていないようだと思ったことさえあった。
 リュードは自分で出来ることは全てやったのだとエルシアンは悟った。王都に戻ってくるために、思いつくことは全部試したに違いない。手紙にそれを書かなかったのはそれが本当に成功するのかどうか、本人も自信が無かったからだ。
 それに気付くとエルシアンもまた、沈んだ顔になるしかなかった。
 リュードは自分の手の届かない範疇へほとんど興味を払わない。彼が出来ると言ったことは本当に出来ることで、出来ないと言ったことは本当に駄目だ。
 ──自信がない、などということは殆どない。リュードは王都に戻る手段をこね回し、少なかった可能性を広げるために足掻き回り、どんなもの想像もつかないが手当しだいに試した挙句──それは全て徒労となったのだ。
 それは初めて見るリュードの万策尽きた姿であるのかもしれなかった。
 本当に、初めてだ。彼が勝ち目のない賭に打って出て、無様に転んだ姿を見るのは。
 頼む、ともう一度リュードが言った。エルシアンは友人に視線を戻した。
 リュードは俯いて膝の上で両手を固く組んでいた。爪が白い。
「俺は、戻りたくない。あそこに戻っても何もないんだ。嫌だ、エルシ、俺は、どうしても嫌なんだよ……」
 リュー、とエルシアンは言いかけた。何を言おうとしたのか自分にも判然としなかった。ただこの瞬間、彼の話を聞いているのが自分なのだということを教えたいだけだったかもしれない。
 リュードは首を振った。彼の声が僅かに潤み始めているのにエルシアンは気付いた。
 リュードが額を膝にあてがって身を半分に折った。顔は完全に隠れたが、表情など見なくても良かった。……泣いているのか、それともそれを耐えているのか。どちらでも同じことであった。
 その背を撫でてやろうとエルシアンは手を出しかけ、自分自身の逡巡の為に空中でとめた。
 他人に触れるのが怖い。自分から誰かに触れることが出来なくなりつつある。リュードでも駄目なのか、とエルシアンは自分の弱さを噛み締め、やがて手を下ろした。
 リュードを居残らせたいのは自分も同じだが、その根拠は空虚な程遠い。
 俺は、自分のことしか考えていない。エルシアンは顔を歪める。
 リュードを残らせたいのはアスファーンの恐怖を閑減してくれるから、彼が側にいれば少しでも逃れられるから、アスファーンに対する盾に使っている……
「──辞令がおりてこないから親父が王太子殿下に詔請を送ったら、お前の承諾が得られないから国王陛下のご裁断を待つって、返事があって……それで、俺」
 リュードが必死で押し隠そうとしている震えが、声の端々を揺らしている。
 リュードは不意にエルシアンの手を取った。エルシアンは思わず手を引きかけたが、リュードの手はしっかりそこを握りしめていてどうにもならなかった。
 リュードはアスファーンとは違う。違うのを分かっているのに体はやはり反射する。それに半ば絶望的な暗さを見て、エルシアンは震え出そうとする自分の体を懸命に叱った。
「……助けて」
 リュードがそう言って、握りしめた手に自分の身を折りつけた。エルシアンの膝の上に伏すような格好で微かに肩を震わせる。リュー、と呟いた声は自分もまたぶれて掠れていた。
「俺は帰りたくない、嫌だ、もう一度だけ助けて、お前のためにいつか死んでもいいから助けてよ……!」
 エルシアンは希求の激しさに気押されて黙り込んだ。リュードを見捨てる気はなかったが大丈夫だと言うことは出来なかった。気休めにしかならない約束をリュードは欲しがっていない。
 どう答えていいか分からないまま、エルシアンは空いていた方の手をリュードの髪に伸ばした。触れる一瞬、どうしても指が降りない。
 エルシアンは深く呼吸をして手を友人の肩を縁取る髪に置いた。どうしても体には触れられなかった。
「父上にお願いしてみるから……お前が帰りたくないのと同じくらい、俺もお前を返したくないから、もう、泣くなよ……」
 リュードは膝の上で小さく頷いたが、言質をくれとは言わなかった。その困難さと筋の通らなさを誰より承知しているのは本人なのだった。
 エルシアンは緊張して感覚さえ無くしかけている手でリュードの髪をずっと触った。